羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 季節は巡り、冬はゆるやかにとけていった。未だに春継と一緒に暮らしていた日々のことは夢のようで、けれどあいつの描いてくれた絵は今日も変わらずオレの鞄の中に入っている。クロッキー帳は家で大事に保管してるけど、最初にあいつが描いてくれた絵だけは鞄の中。お守りみたいなものだ。
 今は四月。春、始まりの季節である。
 この会社にも新入社員が十五人ほど入る予定らしい。出社すると営業のブースは大賑わいで、そりゃ新入社員の殆どが営業なんだから当たり前だよな……とそのざわめきを横目に思う。
「あ、矢野」
「おはよ。営業側ちょー賑やかね」
「そうだな、十五人中十人はこっちらしい。システム側に四人」
「いよいよ安来も部下を持っちゃう感じ?」
「何人かは直接面倒見るかもな……うーん、残業致し方なし」
 大変だなーと完全に他人事のオレ。まあ、法務部って新人が入ってくるような部署じゃねえし。
 それに、相槌に身が入らない理由はもうひとつあって。今日、かなり久しぶりに春継に会う約束をしているのだ。家に来るって言ってた。冬眞くんきっと驚くよ、って電話ではしゃいでたから、何かいいことがあるに違いないと思ってる。
 逃避行するって感じじゃなかったよなあ。
 なーんて。もうオレは自分が賭けに負けたことを分かっているのだ。あいつの安定感ときたら、最初から最後まで余裕ですって体現しているかのようだった。ちょっと弱ってるところとか落ち込んでるところとかこの二年でそれなりに見てきたはずなのに、思い出すのは笑顔ばかりだ。
 とりあえず今日はさっさと業務を終わらせて、軽く新人と顔合わせでもして、それで定時退社を――。
「……ん? あれ、営業十人でシステム側に四人だとあと一人足りなくない? 秘書でも雇ったの?」
「お前社内掲示板見ろよ……なんか、戦略企画部に一人入るらしいぞ。珍しいよな」
「へー! あの何やってんのかいまいち分かんねえとこか」
「大声でそういうことを言うな。なんでもかなりでかい取引先の社長の息子だとかで、くれぐれも失礼の無いように! って部長クラスがぴりぴりしてる」
「はあ。なーんでこんなとこに入社してきてんだろな」
「身内を甘やかさない主義なんじゃねえの。部長が嘆いてたけどな、『絶対営業向きなのに向こうに取られた』って」
 そりゃ優秀なことで。しっかしその社長が身内を自分の会社に入れるのが嫌だったんだとしても、もうちょい他にあるだろ。修行先としてふさわしいとこ。ここもオレ的にはいい会社だと思うけど、結構忙しいのに。残業代のお陰で平均年収が上がってるような会社だぞ。
 戦略企画部っつったら法務部の真後ろのブースだなー、となんとはなしに考えていると、背中に軽い衝撃。誰かにぶつかったかと思って「うわ、すみませ……」と言いつつ振り返った――ら。
「久しぶりだね、冬眞くん」
「んっ――!? ……んんん!? 春継!? なんでここにいんの!?」
 そこには、ぱりっとしたスーツを着て社員証を首から提げた、かつての同居人が笑顔で立っていた。ゆ、夢? 夢じゃない?
「なんでって……ああ、そうだ。先輩には敬語を使わないといけないね。戦略企画部に配属された、西園寺春継と申します。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します」
「……――、っはあああ!?」
 やばいやばいやばい、連続で大声を出してしまった。同僚はいつの間にやら逃げていた。あの野郎。春継が驚いたような顔で、「冬眞くんだめだよ、注目されてしまうよ」と人差し指を唇に当てて「しー」のジェスチャーをしている。ごめん、たぶん手遅れだわ。
「せ、戦略企画……って、どんな戦略を企画、するの」
「うん? ああ、おれはデザイナー枠だよ。ウェブサイトや商品のパッケージデザイン、チラシにポップ、その他諸々……ここ、専属のデザイナーいなかったそうじゃないか。これまで外注していたことを全て社内でできるようにするのが目的らしくてね、おれがそこに滑り込んだというわけさ。中途でおれ以外にも二人入社されているだろう?」
 な、なるほど……人事情報もっとちゃんと確認しておけばよかった。全然知らなかったっつの。
 確かにそれなら春継の技術も存分に活かせる。グラフィックデザインが専門と言っていたから、ただ絵を描くのよりはデザイン寄りの方が得意分野との親和性も高いのだろう。……いや、それにしたって。
「なんで、うちの会社?」
 こう言っちゃなんだが、それこそデザイン事務所とかに行った方が専門性の高い仕事ができたと思う。わざわざここを選ぶ理由はなんなんだ。そう問いかけると、春継は恥ずかしそうな、呆れたような顔をする。
「ひどいなあ、おれに全部言わせる気か?」
「え……」
 小さな声で耳打ちされた言葉に体が硬直した。「――迎えに来るよって、約束しただろう」あんまり優しすぎる囁き声に、色々なことがフラッシュバックして目頭が急激に熱くなる。約束って、そんな、……アンタは約束守るためにここまで来てくれたの? オレを安心させるために?
 オレさあ今までも十分幸せだったのに。これ以上ってあるんだね。
「……結局、約束全部守ってくれたんだな」
「約束は守るためにするものだよ」
「最初から最後までアンタの言った通りになった」
「ふふ、この二年で少しは信用に足る男になれたかな?」
 なんでそんなに優しいの。責めろよ、少しは。ただ待ってただけのオレなのに。いつまでもうじうじぐじぐじ情けないことばっか言ってたのに。信じてもらえないのは悲しい、とか、こんな年下に言わせてしまった。それでもこうやって傍にいてくれるなんて。
 そんなことされたら、際限なしに甘えちまうだろ。
 甘えてもいいよ、って返してもらいたくなっちまうだろ。
「泣くのはまだ早いぜ冬眞くん。続きは帰ってからゆっくり話そう」
「帰ってから……?」
「え、遊びに行くよって言ったの忘れたのか? おれ、楽しみにしていたのに」
「それは忘れてねえけど! でも、だって、『帰る』って」
 期待してもいいの?
 春継は嬉しそうに笑って、こっそりと「あなたの想像している通りだよ、きっと」なんて耳打ちしてくれた。あ、周りに人がいるからぼかしてくれたのか。寂しいから後で二人だけのときにもう一回ちゃんと聞かせてね。
 ともあれこうして喋っているのをそろそろ周囲から不審がられている気がするので、どうにかこうにか切り抜けようと思う。っていうかアンタの家の会社、ここの取引先だったの? 知らなかったんだけど。さっきから営業部長の視線が怖いし、なんならオレの直属の上司からは「意外な繋がりだなあ。随分親しいみたいじゃないか、また異動するか?」なんて冗談まじりに言われた。それだけは勘弁! 仕事のときまでずっと隣とか、心臓もたないから!
 春継はオレが事態を噛みしめている刹那の間に、あれよあれよと幹部クラスの上司から近々食事へ連れて行ってもらう約束をとりつけている。こいつ、生き方がたくましいな……。見習いたい。
「――冬眞くん。長い間待たせてしまったけれど……これから末永くよろしくね」
 こちらに改めて向き直り得意気に笑うそいつがあまりにも眩しかったから、オレも必死で言葉を練る。この場にふさわしい、頑張り屋のこいつのための言葉を。オレの精一杯の気持ちを。
 そしてぴったりの言葉を思いついた。
「うん。ずっと……信じてた」
 これから先も、信じてる。

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