羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 なんで急にあんなこと言ったんだろう。
 会社に着いてから無心で仕事をして、定時後も帰りづらくて居残りしていたら締切が二週間先のものまですっかり仕事が片付いてしまった。仕方ないので、なるべくゆっくり日報を書きながら今朝のことについて考える。
 流石に、まったく意味が分からないってほど心の機微に疎くはない……はずだ。きっとあれは、オレが「『気持ち悪いって思われる』と思ったこと」に反応したんだと思う。
 じゃあ、あいつは完全に、まったく、一切、オレのことをそういう風には思わなかったということなのだろうか。本当に? 一瞬たりとも?
 別に嫌悪感を持ってほしいと思ってるわけじゃないんだけど、そういう生理的なことって自分ではコントロールできないもんだっつーのが定説じゃん。なんだろ、人から言われるよりも自分で先回りして言った方がなんか安心できる……ん、だよね。保険というか。実際嫌悪の目を向けられたときに「ああやっぱり」って思える。期待なんてしてなかった、って自分を誤魔化すことができる。
 でも、それって失礼なことだ。
 自然体で接してくれる人のこと、信じられなかったって意味だから。
 もしかしたら春継なら……って思ってたのは否定できない。でも、信じてしまったらやっぱり駄目でした、ってときにつらいじゃん。メンタル激弱なオレじゃ全然耐えられない自信がある。それに、いついなくなるか分からない相手を心の支えにしてしまうのはあまりにもリスキー。オレは自分の心根の弱さを分かってて、一線を越えてしまうとずぶずぶ抜け出せなくなるのがほぼ確信できている。依存していたものを取り上げられたら生きていけないんじゃないかとすら思う。
 オレは一体誰からの目に怯えているんだろう。たぶんそれって、『世間』とか『世論』とかいう曖昧な塊に対する漠然とした恐怖だ。そんなもののために大切な人のことを蔑ろにするのか、っつーのは正論。分かるよ。でも、怖いもんは怖い。
『おれはきちんとあなたに応えるよ』
 貰った言葉を反芻する。この言葉に嘘は無いはずだ。オレがきちんと向き合ったら、応えてくれる?
 春継はずっとこっちを向いていてくれたのに、オレは怖くて目を逸らしていたんだろうな。
「……帰ろ」
 パソコンをシャットダウンする。覚悟を決めて立ち上がった。
「あっ、矢野ぉー! お前も今帰り? これから飲み行くけど一緒にどう?」
 営業の島の横を通るとき、そう声をかけられた。いつものオレならなんだかんだ「いいよ」って言って付き合ってたんだろうけど。
「――悪い、今日ちょっと用事あるから!」
「そっかぁ、お疲れさまー」
「お疲れ様」
 ……きっと、そんな難しいことじゃないんだろうな。飲み会断るのも、誰かのことを信じるのも。
 タイムカードを記録してオフィスの外に出た。
 雨はもう、降っていない。

「あっ、冬眞くん! いつもより少し遅かったね、朝ごはん食べないで行ったからお腹すいてるんじゃないか?」
 何の屈託も無く「おかえり」と笑顔を向けられて涙腺が決壊した。「えええー!?」と春継が馬鹿みたいな声をあげて呆れているのが分かったけど涙が止まらない。どうにかこうにか「朝、ごめん」と日本語覚えたてみたいな片言で伝えると、そいつはオレの手を引いて座れる場所まで連れていってくれる。
「またヤケ酒でもしたのか?」
「してねーよ!」
「だって、泣いていたから」
「それはっ……それは、だって、」
「……大丈夫。言わなくていいよ、ちゃんと分かっているからね」
 あまりにもその声が優しくて止まりかけてた涙がまた増量しそうになったけど、ここで甘えてはいけない。必死で首を振って、「ちゃんと謝らせて」と言う。
「酷いこと言って、ごめん。オレ、ずっと逃げてて。どうせ無理って思ってた方が傷付かないで済むからつい楽な方ばっかり選んでた」
 声が涙混じりになってしまって、そのことを恥ずかしく思いながら続ける。「アンタと一緒にいるの楽しくて……楽しかったから、なくすのが怖くなった。なくしたときのために心の準備しとかなきゃ、って思ってた。オレの弱さに付き合わせちゃってごめん」
「……それだけかな?」
「え」
「他に、おれに言いたいことあるだろう?」
 え、なに、謝り足りない? 慌てて考える。「じ、自分のことばっかりでアンタの気持ち考える余裕なくてごめん」「うーん、冬眞くんは優しいと思うよ? もっと自分を大切にしてくれればいいなとは思うけれど」「あー……の、振り払っちゃってごめん、朝」「ちょっと惜しい」「惜しい!? 何が!? えと……朝飯食っていかなくてごめん」「ふは、律儀だなあ冬眞くんは。時間が無かったのならお仕事が優先だろうに」
 どうしよう、全然正解しない……と絶望的な気持ちになる。この期に及んでまだ人の気持ちを慮れない。
「あのね、おれは謝ってほしいわけではないんだよ」
「……?」
「別に難しいことを聞いているつもりは無いんだがなあ。よし、制限時間をつけようじゃないか。冬眞くんが分からないならおれが言うよ」
 質問する暇も無くカウントが始まってしまった。しかも短い。五秒から始まって、悩んでいるうちにあっという間に「さーん、にーい、いち、」ぜろ、とそいつの唇が動く前に何でもいいから言おうと思って口を開いたら、ぽろっとこぼれたのはたった二文字。
「すき」
 春継が「ぜ」の口のまま固まっているのを見て、ようやく自分がとんでもないことを言ったというのに気付く。
 えっ、オレ今なんつった?
「やっ……こ、これは違っ、いや違うこたないけど! あの!」
 混乱しすぎてもはや自分が何を口走っているのか理解できない。たぶん九割方意味不明なこと言って、何も弁明できていないであろうことにまた泣きそうな気持ちになる。最終的に、「ああもう、やっぱり酔ってるんじゃないか? 落ち着きなさい」とあらぬ疑いをかけられてしまった。
 春継は機嫌がよさそうで、にこにこしながらオレの手を取る。え、なんで?
「冬眞くん」
「な、何……」
「ちゃんと自分から言えてすごいね、ありがとう」
 おれもあなたのことが好きだよ、と。
 そいつはまるで普通のことをやってるみたいな、当たり前のことを言ってるみたいな、そんな調子で笑顔で囁いた。
 脳が一瞬理解を拒否して、そいつの言葉がどこにも引っかからず流れていきそうになるのを慌てて押しとどめる。え、今、何? なんで? 好きって何が?
「せっかく両想いなのだし、もっと嬉しそうな顔が見たいと思ってしまうのは我儘かな?」
「りょ、りょうおもい……って、なに」
「……うーん、あのね、怒ったりしないから正直に言うんだよ。実は酔ってるだろ?」
「酔ってねーよしつこいな! 酒の匂いがするのかオレから!」
 元気がいいね、と本当に嬉しそうな表情を向けられて毒気が抜けてしまう。とんでもないことを言われたはずなのに、ふわふわと現実感が無い。
「オレ……は、アンタのことが、好きなんだけど。友達とかそういうんじゃなくて、恋愛対象としての好きなんだけど。そこんとこ大丈夫? 誤解とか無い?」
「うん。さっきも言ったけれど、おれも好きだよ。あなたのことを愛しいと思う」
「いっ……、じ、実は、初めて会ったときからもうほぼ好きだったんだけど」
「そいつは驚いたな。警戒心が無さすぎじゃないか?」
 だって顔がめちゃくちゃ好みだったから……とは言えない。なんとなくそこだけは最後の砦として秘匿しておきたい。というか、この状況はなんだ。オレ完全に喜ぶタイミングを失った気がする。分からないことばかりで、考えがまとまらない。これで冗談だったら流石に立ち直れないんだけど、ドッキリとかじゃないよね?
「……ゲイだったっけ?」
 考えて考えて頭が沸騰しそうになった結果なんとも間の抜けた質問をしてしまって、いやいやそれよりも先に聞くべきことが山ほどあるだろと後悔したが時既に遅しだ。春継は少しだけ考えるそぶりを見せて、しかしあっけらかんと言う。
「んん、どうだろうな。まあそれでいいんじゃないか? 言っただろう、恋愛経験が豊富ではないんだよ」
「雑! あ、あのなあ、どんな意図があってそんなこと言ってんのか謎だけど、こういうのは一生を左右することなんだからもっとこう、よく考えて……」
「え、冬眞くんってそんな面倒なことごちゃごちゃ考えておれのこと好きになったのか?」
「違いますね……」
 最初は完全に顔目当てでしたね。
 どうしよう、口で全然勝てない。なんかこいつ発言に妙に説得力があるというか、根拠なんてひとつも無くても何故か喋り方が自信満々だから全部正しいように思えちゃうんだよな……。宗教家とか、洗脳とか向いてそうじゃない?
「男性全般が性愛の対象になるかはまだ分からないにしろ冬眞くんのことは好きだし、冬眞くんは男性だし、じゃあもうそういうことにしておけばいいと思うよ。冬眞くんが納得できるような感じでこう……いい感じにしておいてもらえれば」
「ほ、ほんとにそれでいいのかよ……」
「だって冬眞くんはおれのことを好いてくれているんだろ? 好きな人に好かれてるなんてこれ以上無い幸せだよ」
 なんだこいつは。なんでこんなあっさりしてんの? 同性を好きになって、戸惑ったりしなかった? なんで自分は他の人と同じように普通に恋愛できないんだろうって悩まなかった? なんで堂々と「好き」って言えるんだ。オレにとっては十年以上ずっと悩んできたことなのに、こいつにかかれば笑顔でたかだか二分程度話題にして、それだけで済むのか。たったそれだけのことなのか。
 なんだよもう。人間としての器が全然違うじゃん。
「……、勘違いしてほしくはないんだが、あなたの悩みはけっして取るに足らないものではないよ。おれはまだ世間知らずなだけだ。言うなれば無謀というやつ」
 周囲への影響まで考えて生きている冬眞くんは濃やかで優しい人なんだよ、と諭すようなことを言われて完全敗北である。ううー、ありがとう。
 そんな風に言ってくれるアンタこそ、神様みたいに優しいね。

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