羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 翌日、目を覚ましたオレはいつもより寝苦しいことに首を傾げつつも目を擦る。昨日は酒飲んで、それで、どうしたんだっけ……? と記憶の糸が繋がるよりも先に、目の前の顔があまりにも好みであまりにも近いことに気付き一瞬息が止まる。
「うううわ……昨日の退勤してからをやり直したい……」
 小声で呟いても聞いてくれる人はいない。どうやら、風呂から出たこいつは図々しくもオレの寝ていた布団に入り込み半分以上を占領し、しかしオレを布団から蹴り落とすのは忍びないと思ったのかちょっとよく分からないくらいの近距離ですやすや寝ていた。
 蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、やはり酔いが醒めても超絶好みの顔だったのでじーっと見つめるだけにとどまってしまった。うー、くそ、こんなはずでは……。

「とりあえず名を名乗れ」
「やあ、昨今の職務質問は乱暴だなあ」
 結局三十分くらいをそいつの顔の観察に費やしてしまったオレ。気恥ずかしさを誤魔化そうとしたらいささか乱暴な対応になってしまった。
「おれは、春継という」
「はるつぐ?」
「季節の春に、世継ぎの継で春継。親しみを込めて気軽に『春継さん』と呼んでいいぞ」
「名字は」
「黙秘権を使わせてもらおう」
「うわあもう……突っ込む気も起きねえ……」
 新たに分かったことといえば下の名前のみ。素性不明の不審者が下の名前が分かる不審者になったというだけの収穫だった。
「昨夜はありがとう。この恩には必ず報いるよ、どんなに遅くなったとしても」
「はあ……え、なに、帰るの?」
 そいつはきっちり着物を着付け終わっていて――なお、泥水の汚れは水でじゃぶじゃぶ洗ったのかなんなのか幸いにも模様の一部と言い張れる程度には分からなくなっていた――慣れた手つきで裾を捌いて立ち上がる。思わず引き止めるようなことを口にしてしまって、若干後悔。
 しかし次の瞬間即手のひらを返す羽目になる。
「いや、まあ、実は最初から、上手くいくとは思っていなかったんだ。一日逃げられただけでも御の字さ」
「……、アンタは何から逃げてたの?」
「うん? なんだろうな……しがらみだろうか。逃げられるわけなかったんだけどな、おれの一部のようなものだし」
 あんまり寂しそうな表情で笑うものだから、こう言っちゃなんだが物凄くときめいてしまった。えー、昨日はあんな好き放題やってたくせに急にしおらしくなるのはずるくない……?
 それに、つい共感してしまったというのもある。自分の一部のようなものから逃げ出したかった、というのはオレにも身に覚えのある話だ。オレの場合は勿論自分の性的嗜好のことだけど、こいつは一体何から逃げようとしていたんだろう。
「逃げたくなることってある、よな……」
「なんだ急に。慰めてくれるのか? ありがとう」
「……あー、もう、アンタ図々しいのか遠慮しいなのか分かんねえ! オレがさ、せっかく共感の気持ちを見せてんだからここぞとばかりに押せよ!」
 驚いたように目を見開くその表情もやっぱりド好みだったのでオレは白旗を揚げる。くっそ、これじゃ同期のあのお人好しのことをとやかく言えない。おまけに顔につられてとか、恥ずかしいにもほどがある。
「……、その着物、オレにはとてもじゃないけど弁償できない。クリーニング代だけで勘弁してほしい。だから、代わりにと言っちゃなんだがアンタをここに置いてやってもいい」
 ぱっ、とそいつの表情が明るくなる。くるくる表情が変わるのが見てて楽しい。嬉しいときはちょっと幼く見えるんだな……と思いながらオレは続きを言う。
「別にこれはボランティアとかじゃない。一種の契約みたいなモン。アンタをここにしばらく住まわせる代わりに、その着物に関してオレはあらゆる賠償責任を負わないってことでどう」
「ほ、本当にいいのか?」
「その代わりマジで後から弁償しろとか言われても無理だからな!? マジで無理だからな!?」
「そんな、最初から請求するつもりなんて無いさ。この着物はそんなに高価なものではないから、おれとしてはその条件だとちょっと申し訳ないくらいだよ」
 正装でも何でもない普段着だから……とそいつは言ったが、オレの普段着が一体何年分買える着物だと思ってるんだろうかこいつは。もしかして石油王だったりするのかもしれない。
「じゃあ、まあ……しばらくの間よろしくな、春継」
 気を取り直して握手のために差し出した手は、しかし握り返されることはなくまじまじと見つめられるのみだ。ん? なんだなんだ、潔癖症か? それともゲイに触るのは嫌?
「呼び捨て……」
「は? 嫌だった? そういやアンタ歳いくつだよ、オレとそんな変わんないんじゃない?」
 ふるふる、と首を横に振ったそいつが、次の瞬間ぱあっと笑顔になってオレの手を両手で包む。「呼び捨てにしてもらえるなんて思ってなかった、こちらこそよろしく」あんまり嬉しそうに笑うものだからこちらも驚いてしまって、慌てて頷く。わざわざさん付けで呼ぶことを指定してきていたからちょっとした意趣返しのつもりで呼び捨てにしたというのに、なんかめちゃくちゃ喜ばれてしまった。
「呼び捨てでいいのかよ?」
「もちろん! 嬉しいな、家のみんなは普段様付けでしか呼んでくれないからなんだかとても親しくなれたみたいに感じる」
「アンタ一体どんだけご大層なご身分なの……?」
 なるほど、さん付けを指定してきたのは、様付けで呼ばれるくらいならせめて、という妥協だったのか。敬称を強要してくるとかどんだけ上から目線だよとか思っててごめん。
 もしかしてオレの想像以上の厄介ごとを抱え込んだのでは……と一瞬よぎったもののこうなってしまっては仕方ない。明日から、仕事帰りは最高かっこいい好みの顔が出迎えてくれるかもしれないという可能性に心躍らせることにしよう。
 オレは、自分が発した年齢についての質問をはぐらかされたということに、このときはまだ気付いていなかった。

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