羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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(大学一年生)

 一人暮らしをしたいと言ってしまったものの、実家も大学からそう遠くない場所にあるのでこれは完全に俺の我儘だ。こちらとしては学費を奨学金で払って将来自分で返済していくことでイーブンにしようと勝手に思っていたのだが、それは許されなかった。代わりにと言ってはなんだが、必ず週の半分は実家に顔を出すようにしている。きっと就職したらこんなに頻繁に帰れなくなるだろうから今のうちにと思って。
「ばあちゃん、ただいま」
「あらあら、おかえり。今日はばあちゃんが夕飯作るからねえ」
「手伝うよ」
 元々小柄だったのにここ数年でますます小さくなってしまったように思えるばあちゃんは、そろそろ米寿も視野に入る年齢だ。この国の平均寿命ってどのくらいだっけか? そもそもあれは確か健康寿命ではなかったはずだから、こうしてまともに喋れて、歩けて、料理までできるというのは本当に喜ばしいことだ。
 ちょうど米が炊けたようで、ばあちゃんは炊きたての米と熱いお湯で入れた緑茶を仏壇まで運ぶ。しわくちゃの小さな手を合わせて今日も拝むのだ。
「智久も、じいちゃんにご挨拶」
「うん。手洗ってからにする」
 俺は、じいちゃんに一度も会ったことがない。なんならおふくろもないらしい。じいちゃんは、妊娠中のばあちゃんを残して戦争に行き、そのまま帰らぬ人となった。白黒写真の中のじいちゃんは既に俺より年下になってしまっていて、なんだか変な気分だ。
 要するにおふくろも母子家庭で育ったんだよな。別に苦労はしてないとか言ってたけど。
 遺族年金と軍人恩給が結構な額出ていたんだとか。ばあちゃんの実家がそこそこ裕福だったことも手伝って、母子二人で生活する分には問題無かったのだろう。おふくろはその経験を経て、「金を持っている奴は強い」と確信したんだとか。激務ではあるが福利厚生の充実した会社に入り、産休育休はそこそこに仕事に即復帰。貴重な休みは小さかった頃の俺につきっきり。さぞ大変だっただろうと思う。
 現に離婚して母子家庭になって一家の大黒柱やってるんだからその判断は正しかったと言えるけど。
 俺の父親は酔って物を投げるタイプのクズだったので、さっさと別れてくれて子供の俺としては万々歳である。やっぱり女も自分で稼いだ方がいいよなあ、クズ男からすぐ逃げられるし。
 まあ、なんというか、おふくろはよい母親ではあってもよい妻ではなかったということなのかもしれない。基本的に我慢したくないタイプで我が強いので、話し合いとか妥協とかそういう類のことができずにすぐ「離婚!」となった。
 おふくろのことは尊敬してるし好きだけど、俺は恋人にするなら真逆のタイプがいいなと思う。いいなっつーか実際真逆のタイプを選んだ。なんつーか、色々我慢しがちで控えめな性格の奴に、一切我慢させないっていうのが理想なんだよな。
 仏壇に手を合わせて夕飯の支度を手伝っていると、完成間際に母親が帰ってきた。今日はまた、随分と早い。
「智久、おかえり」
「ただいま。おふくろもおかえり」
「うん、ただいま。やっぱりいいね、帰ったら家族がいるっていうのは」
 今日の夕飯はなんだろな、と機嫌よさそうに歌っているので仕事でいいことでもあったのかもしれない。定年退職したら抜け殻みたいになってしまわないか実は少し心配なので、それまでに趣味を見つけてほしいと思っている。
「ああ、そういえば。次の休みは家を空けるよ」
「おー、いってらっしゃい。買い物? 荷物持ちいる?」
「いや大丈夫。遼夜くんのお母様と遊びに行くだけだから」
「は?」
 なんか今聞き流せねえワードが聞こえたぞ。
「あんたが停学になった辺りから仲良くなったんだよ」
「な、仲良く……?」
 やべえ、まったく想像できねえ。そういえば会って話をしたとか言ってたんだっけか。
 遼夜の母親と遊ぶって、なんか……何するんだ? 美術館巡り? 茶会に出席するとか?
「……何して遊ぶの?」
「登山」
「登山!?」
 驚いて思わず大声をあげてしまった。登山って……。
「本当は家でじっとしているよりも外で体を動かす方がお好きらしいよ。中高と陸上部だったんだとか」
 遼夜のあの身体能力の高さは母親譲りかよ!
「私も近頃運動不足だからね。デトックスしてくるよ」
「はあ……急に激しい運動して体調崩したりしないように気をつけな」
「大丈夫、途中まではリフトを使うし。あんたこそ運動不足には気をつけなさい。遼夜くんと運動でもしに行けば?」
「いや俺があいつに合わせるのは絶対無理……かと言って合わせてもらうのもちょっと申し訳ないだろ……」
 いくら遼夜が短距離専門で持久力にステ振りしていないとはいえ、体力面に関しても俺じゃ逆立ちしたって敵わない。別に俺も運動音痴ってわけじゃねえんだけどな。万年文化部だけど一応体力テストは平均より上だ。あとはソフトボール投げとかの記録は遼夜に勝てる……くらい。あいつ基本的にあんまり器用じゃねえから、道具使うスポーツは全然駄目なんだよ。
 バレーとかバスケとか、『ボールが飛んでくると反射的に避けそうになってしまう……痛そうで……』らしい。身ひとつでやる運動がいいっぽい。……海行くか?
 色々考えをめぐらせている間に手が止まっていたようで、ばあちゃんに「ご飯のおかわりは?」と聞かれてしまった。今日はもういいや。
 どうやらばあちゃんも老人会のみんなでピクニックだか何だかに行くらしくなんとなく取り残された気分である。俺よりよっぽどアクティブだ、この人ら。
「……遼夜にメールしてみようかな」
「ふふ、仲良しだね」
「まあ確かに仲はいいけど」
 ちょっと悔しくなったとかじゃねえからな。
 茶碗と味噌汁椀を重ねてシンクに運び、洗いながらメールの文面を考える。そうだな……とりあえず。
 次の休み、暇? って、聞いてみよう。

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