羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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(中学三年生)

 この家のお手伝いさんたちは時間に正確だ。
「――失礼致します。遼夜坊ちゃん、お夕飯の支度ができておりますよ」
「ああ……ありがとう。すぐ行きます」
 今日も、自室までお手伝いさんがおれを呼びにきてくれる。「遼夜坊ちゃん」という呼びかけは若干恥ずかしくもあるけれど、「遼夜様」と呼ばれるよりは随分ましなのでこれ以上は望んでいない。
 そして、彼女たちの仕事ぶりはいつも惚れ惚れするほどにうつくしい。おれが普段家事というものを一切したことがない、と言えばその仕事ぶりの素晴らしさは分かってもらえるだろうか。おれとしては自分の身の回りのことくらいは自分でやりたくもあるのだけれど……お手伝いさんたち曰く、「これ以上仕事を減らされてしまってはお給金を頂くのも忍びないですよ」とのことだ。
 お手伝いさんは正座のままおれが立ち上がるのを待っている。おれは、彼女――吉野さんに、「いつもありがとうございます」と言った。
「? 何がでしょうか?」
「お掃除とか、いろいろと……すべてお任せしているので」
 おれが食事をしている間に部屋は隅々まで掃除をされて、それが夕食時なら自室に戻ってくると布団や風呂の準備も済んでいる。例えるなら、毎日旅館に泊まっているような感覚――だろうか。足りないものはいつの間にか補充され、ゴミ箱の中は一日一度空にされ、本棚のガラス戸はいつもぴかぴかに磨かれている。
 ちなみに、おれが勝手に磨くとばれる。どうしてだろう……。随分昔に、朝起きて布団を畳んでおこうとしたらやんわり止められてしまったし。
 吉野さんはおれの言葉に柔らかく微笑んだ。「とんでもないことでございます。わたくし共はこの家に人生をお任せしているのですから」どういう意味かと尋ねると、吉野さんは少し悩んだような口ぶりでゆっくりと言う。
「この家のみなさまの身の回りのお世話をお預かりする代わりに、わたくしの人生をお預けしているということ……でしょうか。つまらぬ身の上話になってしまいますけれども、わたくしが実家を頼らず公的支援も受けず子供を養えるのは、この家にお仕えしているからなのですよ」
 実はわたくしシングルマザーというやつなのです、と吉野さんはちょっぴり砕けた口調で笑う。幼い子供を抱え身寄りもなく夫は借金を残して蒸発し、藁にも縋る思いでこの家に辿りついたらしい。吉野さんはおれが小学校にあがる前からずっとこの家で働いてくれているひとだけれど、そんな事情があっただなんて知らなかった。
「……私にとって途方も無い額の借金は、この家の門扉を叩いたその日にすっかり無くなりました。奇跡かと思いました。奥様が、『このくらいの額、あなたがここで十年働けばおつりがきますよ』と――あれは一生忘れないだろうと思います」
 何も言えないでいるおれに、「私のような人間は多いですよ、この家の使用人には」と微笑む吉野さん。どうして話をしてくれたのかとそれだけようやく聞くことができたのだが、答えはシンプルだった。
「ええ、今年で十年目なので」
 お話は終わりにしましょう、せっかくのお夕飯が冷めてしまってはわたくしが料理長に叱られてしまいます――と、吉野さんは最後まで微笑んでいた。
 そういえば彼女のお子さんは今年で小学校を卒業するのだったか。
 母一人子一人の家族が、今日も明日も何の不安も抱かず生活できることはとても喜ばしいことだと、そう思った。


「――という話を聞いたのだけれど」
「あら。そんな昔のこと、まだ覚えていただなんて律儀な方ですね」
 真希さんは、「別に慈善事業をやっているわけではないですよ。彼女は優秀でしょう?」と、吉野さんの働きぶりを誇るように笑う。
「そうだね。おれのやることが何も無くなってしまうくらいには」
「気にすることはありませんよ。この家くらいの規模になってしまうと、何もしないのも仕事のうちですからね」
 何もしないのも仕事のうち、という表現が不思議だった。真希さんはこういうとき、質問をすればきちんと答えてくれるひとだ。具体的にはどういうことか聞いてみると、やはりおれにも分かるように説明をしてくれる。
「例えばあなたが将来、車の免許を取得したとします。この家には専属の運転手が数人おりますが、仮にわたしたちが全員自分で車の運転をするようになれば、運転手は不要ということになりますね?」
 なるほど。ここまで説明されればさすがにぴんとくる。
「おれたちが何もしないことで雇用が生まれる……ということ」
「その通り。一家庭を問題無く養える程度のお給金は払っていますから、それがなくなると困る方々もいます。雇い主の立場に胡坐をかいてはいけませんが、あなたも彼女たちの仕事をみだりに奪うのはおよしなさいね」
「はい、真希さん」
「ふふ……それに、この家の使用人の仕事ぶりは一流です。素人のわたしたちが手出しするなんて、無礼だとは思いませんか?」
 そういう考え方もあるのか。確かに、彼女たちは自分の仕事に誇りを持っているのだろうと思う。感謝の気持ちを忘れないことが、彼女たちにとって一番の「お手伝い」なのかもしれない。
 ……そういえばもうずっと昔、障子紙の張替を手伝おうとして余計に破るなんてことをしでかした記憶がうっすらと……ある……。
 うう、思い出せてよかった。おれは何もしない方がいいんだろうな。本当に。
「……ところで。遼夜さん、ついでに相談が」
「そ、相談? おれでよければ……」
 真希さんが妙に真剣な顔をしていたものだから心臓が嫌な感じにどきどきしたけれど、次いで紡がれたのはなんてことはない、優しいものだった。
「――優秀な方ばかりなのは結構なのだけど、住み込みの方がなかなか休暇をとってくれなくて。やはり気を遣うのかしら。企業によくあるリフレッシュ休暇とか、無理にでも用意すべきかしら。あなた、さりげなく皆に聞いてみてくれると嬉しいわ」
「ああ……そういう。おれが聞いて答えてくれるかな」
「そこはあなた、子供の立場を利用してうまくやってくださいよ」
「真希さんはたまに無茶を言う……それなら万里の方が適任だろうに」
「自分の子供にだから無茶も言えるということを理解してくれてもいい歳では? わたし、人に使われたことが無いのでこういうのには疎くて」
 真希さんも真希さんで悩むことがあるのだな、と意外に思った。何でもきっぱりと決められる、竹を割ったような性格のひと……というイメージだったから。
「……何ですかその顔は。いえ、自分に似た顔にけちをつけても仕方ないですね。この家は使用人だけでなくその家族の生活にも責任がありますから、わたしだってきちんと考えますよ。やはり、仕えてよかったと思える家でなければね」
 それには同意だ。おおげさではなく彼女たちも家族のようなものだと思っているから、毎日笑顔で過ごしてほしい。
 きっと吉野さんは明日もまた、おれに夕飯の時間を知らせにきてくれるのだろう。そのとき、「ありがとう」を忘れずに伝えることが彼女たちの仕事に対する尊敬の証だ。

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