羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 今日はおそらく、おれにとって厄日だったのだろう。
 きっかけは体育教師とクラスメイトとの言い争いだった。体育教師は今年赴任してきたばかりの新人で、男子バスケ部顧問を受け持つ女性。そして、その体育教師と諍いを起こしたのは、クラスきっての問題児。
「高槻! もっと真面目に走れ!」
「走ってます」
「いーやお前はもっと速く走れるはず! 見れば分かる!」
「平均以上だから別にいいと思います」
 淡々とした敬語でそんなことを言う、淡いミルクティーのような髪色に両耳ピアスのそいつ。――高槻、は、煩そうに眉をしかめていて、ああ、元々の顔が整っているとこんな表情でも様になるものだなと妙に感心してしまった。
 今日は学年が変わって二回目の体育の授業で、体力テストなのであった。先週は室内での種目――反復横跳びや長座体前屈、握力など――を測定し、今週は屋外。先程ソフトボール投げを測定し終わり、最後の種目である五十メートル走の順番待ちをしているところだった。
 出席番号順でおれの前が高槻なのだが、どうやらそこで教師に見とがめられたらしい。記録係に高槻のタイムを聞いてみると、確かにもっと速いイメージがあったんだがな、と少しだけ疑問に思うタイムだった。まあ、疲れるのが嫌とかそういう理由かもしれないし、目立つのが嫌なのかもしれない。あいつ、外見だけで大層目立つからな。そんな風に思っていたら、思わぬところから背中を撃たれた。
「津軽! お前、ちょっとこいつと一緒に走ってやれ」
 おれのこのときの気持ちは筆舌に尽くしがたい。が、一言で言うと「帰りたい」だった。なんでおれが。率直に言おう。おれはこのクラスメイト、高槻敬吾のことが苦手だ。なぜなら。
「――――はあ?」
 一体何が気に食わないのか、まるで親の仇みたいな目で睨まれるからだ。
「せ、先生……測定は一人ずつでは」
「離れて走ればいい。もー、こいつが真面目にやらないからお前がばしっと言ってやって。陸上部だよね?」
 確かにおれは陸上部だけれどそういう問題じゃない。絶対に。おれは心の中で周りにSOSを求める。ちょっとあの、高槻の顔見てみてほしい。物凄く不愉快そうな顔をしている。恐ろしすぎる。八代と目が合ったので必死にアイコンタクトをとってみたものの、「面白そうじゃん、やってみなよ」と言われた。鬼だ。
「確かに、何事も真面目にやらないとダメだよねー。高槻、一緒に走ってもらいなよ」
「八代……お前まで」
「ほんとはオレより速いくせに」
 こいつは中学から高槻と同じ学校だったということだから、色々知っているのかもしれない。いや、それにしてもおれが巻き込まれる意味が分からなすぎるだろう。
 きっと不満が顔に出ていたのだと思う。八代が笑いながら、とんでもないフォローを入れてきた。
「いやー、多分ね、お前も驚くと思うよ? たぶん高槻より足が速いの、学年でお前くらいだし」
「えっ、そんなに速いのか」
「はは、物は試し」
 オレがストップウォッチ持つよ、と八代はあっという間にゴール地点まで行ってしまった。体育教師も既におれたちが走ることは決定事項だと考えているのか八代の後に続いて「準備できたら合図するからー! あ、高槻、本気でやらないと授業の後居残りで片付けやらせるからな!」と行ってしまった。
 なんだろう、この外堀から埋められていっている感じ。
 仕舞には奥が「テメェ……遼夜に無駄な怪我負わせるんじゃねえぞ」などと高槻に喧嘩を売り始めたので慌てて止める。物凄く大きな舌打ちが聞こえた。泣きそうになる。なんでおれの周りにはこんなに血の気の多い奴ばかりなのだろうか。八代が最後の良心である。本当に。
「くそ……勝手なことばっか言いやがって」
「えっと、高槻」
「ああ?」
「そ、そんなに怒ることないだろう……コースの右側と左側、どちらがいいかな」
「……別にどっちでも。お前の好きにしろ」
 さっき走ったばっかなのに、とぶつぶつ言っている高槻はどうやら本当に一緒に走るらしい。居残りはな、嫌だよな。職権乱用な気がしないでもないが。
 それに、八代が言っていたことも気になる。自分で言うのもなんだがおれは足が速い。まあ、曲がりなりにも大会の記録持ちだ。少しは自慢してもいいだろう。数字が明白に出る競技で謙遜しても仕方ないので言うが、おれは学年で、いや、この学校で一番足が速い。そんなおれでないと勝てない、とまで言わしめる高槻の実力が純粋に気になる。
 スタート位置について、構える。クラウチングスタートではないからいつもと少し勝手が違うな。隣の高槻を見ると同じように走るための姿勢になっていて、帰宅部のくせにそれがやけに綺麗だった。
 スタートの合図をする生徒が、勢いよく腕を振り上げた。

 おれは走るのが好きだ。月並みだが、風になった気がするから。周りの景色がどんどん後ろに流れていって、風をきって進む。気持ちいいと思う。全てを振り切ってただ前に、というのが好きだった。
 今日は視界の端に、あのミルクティー色の髪が見えた。
「――――高槻お前!! やっぱり手抜きしてたな!」
 っつーか津軽やっぱり足速いなあ! と八代から手渡されたストップウォッチを手にはしゃいでいる体育教師。新に読み上げられた高槻のタイムは――おれのものとコンマ二秒しか変わらなかった。百メートルならもっと差が開くだろうが、そんなことを抜きにしてもびっくりするくらい速い。こいつ、帰宅部だよな?
 おれのタイムも手動計測のせいで耳を疑う数値が出ているけれど、まあ、これは仕方ないか。やっぱり電動で計りたいなあ。
 高槻はというと、軽く息を整えながらすごい目付きでこちらを睨んできた。おまえ本当に、手抜きをしすぎだろう。何をどうやったら推定一秒近くタイムが縮むんだよ。というか、帰宅部のくせに陸上部のスプリンターに短距離走のタイムで肉薄しないでほしい。心臓に悪い。
「お疲れ津軽ー! ごめん、気を付けたつもりだったんだけどやっぱストップウォッチ難しかった。でも高槻速かっただろ?」
「手測は仕方ないさ。うん、高槻はな……ちょっと理不尽に思うくらいには速かったよ」
「ふは、なんだよそれ」
「あいつ、本当になんでもできるんだなあ」
 きちんとトレーニングをしたりコーチがついたりすればきっともっと速くなる。勿体ないな、と思う。陸上部に入部してほしいくらいだ。高槻は、己のタイムを書き換えている教師を見つつ未だ少しだけ不満そうな表情をしていた。
「はぁ……これでいいですか」
「おー、来年もちゃんと本気で走れよー」
「来年は怪我しておきます」
「そこまで走りたくない!? あっ、さては体育祭の選抜リレーが嫌なんだな。残念だけどこのタイムだと確実にメンバー入りだろうなあ」
「最悪だ……」
 教師とそんな会話をしていた高槻はぱたぱたと手で顔を扇いで、おれの方を見た。
「……速かった」
「えっ。あ、ありがとう……」
 まあ一応陸上部だし、とかなんとかもごもご言っていると舌打ちをされた。なんなんだ、怖いから舌打ちはやめてくれ。八代は楽しそうに笑うばかりだし、奥はまた放っておくと喧嘩を売り始めそうだし、勘弁してほしい。
 おれは静かに深呼吸した。久々にこんな、学校内でまともに競えた気がする。この学校はあまり部活動が盛んではないから、大会以外でおれのすぐ後ろを誰かが走っているという感覚は久しぶりだ。
 単純と言われてしまうかもしれないけれど、一緒に走るとなんとなく仲良くなれた気になってしまうんだよなあ。高槻のことはまだ少し怖い。でも、悪い奴ではないと思うし、今日は少し話せたし、よかった。
 もしかして来年もまた一緒に走れるかもしれないな、と思いながら、おれは一人でそっと笑う。八代が「機嫌よさそうじゃん」とからかってきたので「まあね」とだけ返して、グラウンドの土埃が風で舞い上がるのを遠目に見ながら充足感に身を浸すのだった。

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