羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「お前それ、息苦しくねえの?」
 俺の問いかけにそいつは緩やかに首を傾げた。衣擦れが静かな店内に小さく聞こえた。
 灰緑の着物はシンプルだけれどとても仕立てのいいのが分かる。産まれた瞬間から今までずっと裕福であったことがうかがえるような奴だった。身なりはいいけれどそれに頓着していないというか、「当たり前」に豊かだ。いつだったか代々続く地主の家系なのだと小耳に挟んだことがあるが、なるほど、と思った。金持ちにも種類がある。こいつの家は成金とか、商売で財を築いたタイプとかではない。
 今も昔も、俺のこいつに対するイメージは「金持ち」ではなく「育ちのいい奴」だ。
「和装のことか? 慣れればそう大変でもないよ。帯は少し面倒だけれど」
 こいつはいつも、口調も表情も穏やかだ。あんまりそんな、話しかけられて嬉しいですって顔をしないでほしい。高校時代の前半できつい態度をとりまくっていたことが思い出されていたたまれない気持ちになる。俺の自業自得だけど。あの頃は、怒らないこいつが怖かった。俺だったらキレるだろうなってことを誰かから言われても、悲しそうに笑うのが不思議だった。今でも実は少しだけ怖い。絶対に本人には言わないが。
 こいつは誰かに好意を示すのが上手だと思う。表向きは仲良くしておいて実は、みたいなのが一切無い。言葉に偽りが無いのが雰囲気で分かるから、本心で言ってくれているのだろうことが分かるから、こいつは他人に慕われる。他人にやっかまれやすい立ち位置にいるけれど、少しでもこいつときちんと関わった奴で、こいつのことを悪く言う奴に俺は会ったことがない。純粋に、すごいな、と思う。
 そういう生き方、疲れないんだろうか。俺はあいにく育ちが悪いのでよく分からない。
「いや、服のことじゃねえよ……なんかこう、もっと、色々」
「うん?」
「気詰まりしねえのかと思って」
 自分の言葉選びの下手さがうらめしいが、そいつは汲み取ってくれたようだった。「外でもある程度きちんとしていないと、家でぼろが出るからなあ」と笑って言った。やっぱりこいつは少し変だ。
「普通逆だろ、それ」
「そうかもしれないね。……未だに親の前に出るときがいちばん緊張するよ」
 学校はいい息抜きだった、と事も無げに言われて微妙な気分だ。自宅でリラックスできないってどんな感じなんだろうな。俺の親は……いや、あんなの親と呼称するのも嫌だが、中学辺りから殆ど顔を合わせることもなくなったのでいまいち想像はできない。
「高校のときなんて随分と好き勝手してしまったと思うよ。それこそいろいろあったからなあ」
「あー……最初の方はもう覚えてねえわ」
「おまえ、高校の前半はあまり学校にいなかったからじゃないか?」
「……そうかも」
 っつーかお前一年のときは別のクラスだっただろ。なんで知ってんだよ。喉まで出掛かって、そういえばこいつは八代と同じ部活だったかと思い出した。どうせあいつが情報源だ。人の出席状況ぺらぺら喋りやがって。
「言っておくけれど八代のせいではないよ。おまえが来ているときは女子が浮き立っていたから」
「べ……つに、あいつのせいだとは思ってねえけど」
 やばい、ばれてる。ほんとなんなんだよこいつは。
 そいつは妙に機嫌がよさそうにコーヒーを飲んだ。俺が淹れたやつ。同窓会で会ってから、こいつは平日の夕方以降の一番暇な時間帯を選んで時折店に来るようになった。和服にコーヒーカップというのが妙にアンバランスだ。
 こいつの弟だか従弟だかもたまに来る。家でいくらでも上等な食事が出てくるだろうになんでわざわざ、と思う。実はとても嬉しいというのは秘密だ。恥ずかしいから。とりあえず、専属の調理師がいるような家の奴のお眼鏡にかなう料理が作れているということなので、安心する。
「まあ、八代におまえの話はよく聞いていたけれど」
「あ?」
「仲良くできると思う、と言われたよ。あいつはおまえに男友達がいないのを気にしていた」
「……すっげえ余計なお世話」
「嬉しいくせに」
 からかわれているのだと気付くのに少し時間がかかった。悪意とか敵意とかが見えないから、つい見逃してしまう。
「あの頃はすまなかったね。必要以上に怖がってしまって、嫌な思いをしたんじゃないか」
「いや……それは、俺のせいだし」
「もっと早くに気付いていれば、もう少し仲良くなれたと思うか?」
「気付くって何にだよ」
「流石にもう時効だと思うから言うけれど、あの頃おまえがおれに対して当たりがきつかったのは、おれが八代と同じ部活だったからだろう」
 こいつやっぱり怖いな、こういうとこが。察しがよすぎて怖い。何より恥ずかしい。
 今でも覚えている。八代は高校に進学して数日後、部活動の体験期間にこいつがグラウンドで走っているのを見て、「なにあれすごくない!? オレ部活ここにするわ、もっと近くで見たいし」と二秒で陸上部への入部を決めたのだ。ミーハーか? と思った。同時に、ああきっと俺より速いなあいつ、って会話もしてないのに勝手に負けた気分になった。そういう意味でこいつは八代にとって他の奴らとはちょっと違う。俺は自分で言うのもなんだが当時本当に同性の友達が少なかったので、それがなんとなく危機感だったというか、なんというか。あー、マジで恥ずかしいな。思い出さなきゃよかった。
「……知らねえよばーか。頼むから黙秘させろ」
「ふふ、心配しなくてもあいつはおまえにべた惚れだから大丈夫だよ」
「どういう意味での『大丈夫』だよそれは……っつーかべた惚れって」
「あいつが自分で言っていたな」
「だろうな……」
 八代は、上に姉貴ばっかり三人もいるせいか言葉の選び方が若干女寄りだ。女の感性に毒されている部分がある。具体的に言うと「かわいい」が褒め言葉だと思ってる辺りとか、外食したときに食いたいものが絞れなくてこっちとシェアしたがる辺りとか。たぶん女同士とか恋人とかなら許容範囲で、男の感覚だとちょっと恥ずかしい、くらいのことを普通にする。そのくせ自分が「かわいい」と言われるとむっとしている。ほんっとばか。
 小さい頃は、周囲に四姉妹だと思われていたらしい。まあ、文化祭のときの女装は引くほど似合ってたから分からないでもない。黒歴史の一部だな、あれも。
「っつーか、んなこと言ったらお前も俺と一緒だろ。あれだよ、才能に惚れ込んで? とかいうやつ」
 そう、あいつは人の才能に惚れるのだ。それこそこいつに対してなら「一目惚れ」ってとこだろうか。
 八代が大学在学中に会社を興したと言うから一体何をしてるんだと思ったけれど、人材の斡旋と説明されてすぐ納得した。何かしら優れている人間を見つけてきて、正当な報酬が受け取れるように場を整えるのが主な仕事だそうだ。一芸に秀でた人間をプロデュースする――だったか。「埋もれるには惜しい才能が多すぎる」とあいつは常々言っていたから、きっとなるべくしてなった会社なのだろう。
 そんなことを思いながら、コーヒーをゆっくり飲んでいるそいつの反応をうかがってみる。そいつが小さなフォークを綺麗に操ってケーキを口に運ぶと、喉仏が上下するのすらお行儀よく見えるのがなんだか不思議だった。
「八代は確かにおまえの才能に惚れたのかもしれないけれど、あいつはおまえのことをちゃんとすきだよ」
 おれのと一緒にしてしまってはあいつに怒られる、と嗜めるようなことを穏やかな笑顔で言って、またコーヒーカップに口をつけたそいつ。俺が不安に思っている部分を馬鹿にしたりしないし、変に避けたりもしないこいつはきっと本当に性格がいいのだ。怖くなるほどに。俺は素直に頷いておく。
「流石に、嫌われてるとは思わねえけどよ……」
「おまえくらいになると過小評価は逆に厭味だろうに。きっと自分で思っているよりも人に好かれるたちだよ、おまえは」
「本気で言ってるんだとしたらお前色々やばいぞ……俺のどこを見てその評価だよ」
 生まれてこのかた生来のスペック以外で他人に好かれた覚えが無い。っつーか八代なんて俺の顔大好きだからなあいつ。「美人は三日で飽きるとか完全に嘘だよね……」って俺を見ながら真顔で言うぞ。あいつ以上に俺の顔が好きな奴いないんじゃねえのかとすら思う。
 と、ここまで話をしていて気付いた。さりげなく話題が変えられている。たぶんこいつは、俺の振った話題から家族の、というか親の話になりかけたので高校のときの話にシフトさせてくれたのだろう。俺はあまり身内の話をしないし、できないから。にしても、こいつには何も言ってないはずなのにやっぱなんとなく分かるもんなのか。
 あまりにも自然に話題が移ったから危うく気付かないところだった。優しくされたことに対して鈍感な人間ではありたくない。
 俺はそこそこ察しがいいし気が回る方だと思っている。よく気がつく方だと思う。きっとこいつのさりげない優しさは、他人には殆ど気付いてもらえないままなんだろうな、ということも分かる。まあ、気遣いとしては相手に悟られない、というのが正しいあり方なのかもしれない。でも、流石にその気遣いを当たり前のものだと周囲に受け取られ続けてしまうのはあんまりなので、他の大多数より少しだけ長い付き合いの俺たちくらいは気付いてもいいだろう。
「……。お前って、よく分かんねえけど常に他人に対してべた褒めだよな。誰かにムカつくことってねえの? 修行でもしてんのか?」
「ん、ん。それこそおまえはおれに対して夢を見すぎだと思うよ。というか修行ってなんなんだ……そんなご大層な生き方はしていないし、おれだって腹が立つことくらいある」
「えっ」
「だからなんでそんな驚いた顔をするんだよ……」
「いや、お前も人間なんだなと思って。怒ったとこ見たことねえけど」
「おまえのように優しいやつには怒る理由が無いだろう。それに、そういうときがあればおれより八代が先に怒ってくれるさ」
「あいつキレると容赦ねえし色々エグいから勘弁」
「へえ。歴代一温情処分な風紀委員長だったと聞いたけれど」
「どこの誰が流したデマだよそれ」
「本人が自称していた」
「あいつマジか……流石に引く……」
 自称はねえよ自称は。でもまあ、そんな半分冗談みたいな言い分を受け入れてにこにこしているこいつは割といいな、と思うのでそれ以上は言わないでおく。
 これはもうしばらく伝えられないことだと思うが、俺は実を言うとこいつのことがかなり好きだ。
 あの口の悪いチビがこいつにご執心なの、めちゃくちゃ分かる。高校のときもうちょい素直に「仲良くしてください」って言っておけばよかった。たぶん高校生活を百回やり直しても言えねえけど。
 自慢みたいに聞こえたら嫌なのだが、俺にとって妬み嫉み僻みその他諸々抜きで接してくれる同性はそれだけで貴重だ。こいつはいちいち所作が綺麗でそれが全然嫌味じゃなくて、いつも優しい。面と向かっては言えないけれど、俺はこいつのそういうとこがすごいと思うし尊敬している。
「まあ、家が気詰まりでどうにもならなくなったら外に出ろよ。……別にここに来てもいいし」
「そういうことを言われるとますます通いつめたくなってしまうなあ」
 こくり、とまた喉仏が上下してカップが空になった。コーヒーのおかわりはいらない。あまり飲むと眠れなくなってしまうから、と前に言っていた。アルコールだけじゃなくてカフェインも効きすぎるらしい。難儀な話だ。
 こいつはいつも、ミルクを入れてコーヒーを飲んでいる。ウーロン茶もジュースもあるのに、と俺が言ったとき、「この店、コーヒーだけは豆から挽いているみたいだからね。おいしいと飲みたくなるんだよ」と返されて驚いた。本当に、よく見ているなと思った。こちらが手間をかけている部分をさりげなく大切にしてくれる。こいつの従弟もそういうところはよく似ていて、つい一年前に中学生だったなんて嘘みたいだ。いとこの兄貴に憧れているのであろうことが分かって微笑ましく感じた。
 ケーキの最後のひとくちがそいつの口の中に消えて、綺麗に完食された皿の上にそっとフォークが置かれる。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
「お粗末様でした。美味かったならよかった」
「そろそろお暇するよ。おれのためだけに店を開けておいてもらうのも悪いしね」
「平日の夜なんざいつもこんな感じだっつの。気にすんな」
 着物の裾を慣れた風に捌いて席を立ったそいつに、「この後は『奥さん』のとこにでも行くわけ?」と聞いてみた。ほんの冗談。勝手な意趣返しのようなものだ。俺もこいつにべた惚れな奴の話を振ってみようと思っただけ。「奥さん」という部分にイントネーションを置くと、そいつは少しだけ恥ずかしそうに「その呼び方をすると、怒られるよ」と言った。
 いつも穏やかそうにしているこいつが分かりやすく表情を変えるのは愉快だ。こうしてこいつで遊んでいることがあのチビにバレたらやばそうだが、きっと黙っててくれるだろう。こいつに関することだとあいつは沸点がエベレスト並に低いから、キレてこの店に乗り込んでこられても困る。
 そして気付く。これから行くのか、っていうの、否定しなかったな。
 自分の勘のよさがうらめしい。だってこの時間から行くってそういうことだろ。あーはいはいお幸せに、って感じだ。俺なんかに言われなくても幸せだろうけど。
 高校のときからだから、結構長い。こいつも厄介なのに捕まったよな。だって地獄まで追いかけてきそうじゃねえ? 絶対にやばい。でも、そのやばい奴と一緒にいるのがこいつは嬉しいんだろうし、それならせいぜい添い遂げればいいんじゃねえの、って思う。
「高槻? どうかしたか?」
 俺があまりにも無言でいたものだから心配されてしまったらしい。どう返そうか少しだけ悩んで、俺は口を開く。
「お前、あいつのどこに惚れたわけ」
 あのやばい奴はどういうところがいいのだろう。別に貶してるとかじゃなくて純粋に疑問だったから聞いた。そしたらそいつはほんのり目元を赤くして、本当にしあわせそうに笑って答えた。
「あいつは、おれと一緒になら死んでもいいと言ってくれたから」
 前言撤回。こいつも十分やべえわ。お似合いじゃねえかよ。
 こいつらは根本的に、俺とは違う価値観で生きてるんだろうと思った。八代だったらこれを聞いてなんと言うだろうか。笑って「いいじゃんそれ」って言いそうな気もする。
 俺は会計を終えたそいつを店の下まで出て見送った。会話の内容はとっ散らかっていたしろくでもない話ばかりしていたようにも思うが、それでも沢山喋ることができてよかった。実はずっと仲良くなるきっかけを探ってるんだよ。別に冗談とか笑い話とかではない。
 去り際にそいつが、「ところで。おれはいつかおまえに名前を呼んでもらえるのを楽しみにしているのだけれど」と言ってきた。俺は一瞬言葉に詰まって、「……もうちょい待って」とだけ呟く。「いくらでも待つよ」と笑われて、それがその日最後の会話だった。
 小さくなっていく姿勢のいい背中をなんとなく階段の手すりにもたれながら眺める。
 俺、同年代の奴の名前呼ぶの苦手なんだよ。距離感が掴めないから。名前っつーか要するに名字なんだけど、八代くらいしかまともに呼べる気がしない。
 せっかくだからちゃんと呼びたい、という気持ちと、ただでさえ三年ぶりくらいに会ったばかりなのだしもう少し、という気持ちがいい勝負だった。
 とりあえず素面の状態で呼ぶのは無理だろうなと早々に判断して、店仕舞いをするべく「OPEN」と書かれた看板を裏向きにする。ふと思い立って八代に連絡してみた。『夕飯食いにくる?』とメールするとタイミングがよかったのか即座に『肉じゃが食べたい!』と返信。だからうちは定食屋じゃねえっつってんのに。
 まあいい。聞いてほしい話も色々あるし、肉じゃがくらいなら作ってやろう。
 せめていい酒買ってこいよと返信して、俺は野菜の下ごしらえをするべく店の中へと戻る。自分でも足取りが軽いのが分かって面白いやら恥ずかしいやら、この歳で友達づくりなんて人生何が起こるか分かんねえもんだな、と少しだけ笑った。

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