羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 行祓は最近忙しい。試験前にレポートの提出も重なっているとかで、夜遅くまで起きていることが多い。ちょっと疲れているように見えるから心配だ。
 その日も行祓は日付が変わる直前まで書き物をしていた。俺は明日の授業三限からだけど、こいつは一限からだったはず。ここ数日でいきなり寒くなったし、あんまり根を詰めると体調を崩してしまうんじゃないだろうか。そんなことを思う。
 女が相手なら適当に気遣う言葉でもかけるのだけれど、行祓にそんなことをするのもなんだかおかしい気がしてしまう。引かれたりしないだろうか。友達なら、ましてやルームシェアまでしているのだから心配くらいしてもいいだろと思うものの、今まで一歩踏み出せずにいた。
「――まゆみちゃん? どうしたの、そんなとこ立って」
「え、いや……別に」
「そう? あ、もしかしていつまでも明るいから気になる? ごめんね、明かり漏れてたかな」
 違う、そういうんじゃない。慌てて首を振って「……明日、一限からだろ」と言うと、「心配してくれてるの? ありがとう。もうちょっとやったら寝るね」と俺の心理をきっちりと汲み取った返答がきた。……なんか、負けた気がして微妙な感じ。
 自宅という個人的な空間の中に他人がいる状況にもようやく慣れてきていて、それはきっと相手がこいつだからなのだと思う。行祓は俺のことを気遣ってくれるし、受け答えはいつも柔らかい。そういう気遣いや優しさ含めいつも何かを貰ってばかりなので、たまには俺も何か、こいつを喜ばせるような優しいことをしてみたかった。
 俺は逃げるようにキッチンに入って、戸棚から小さな手鍋を取り出す。背後から「え、夜食? 夕飯足りなかった?」と声がかかったけれど、「……ちょっと待ってて」とだけ言う。
 牛乳を鍋に入れて火にかけた。ほどなくして薄く膜が張ってきたので、スプーンを差し込むとそれはぺたりと貼りつく。今日は寒いから、いつもより熱めにしよう。
 火を止めると独特な匂いと共に湯気が立ち上った。マグカップに注いで、スプーン一杯分のはちみつを入れて混ぜる。ぐるぐるかき回している途中で、行祓の分は少しはちみつを少なめにした方がよかったかもしれない……と僅かな後悔。つい自分の分と同じように作ってしまった。行祓ならこんな失敗はしないだろうな、と落ち込む。
 だからと言って今更やり直すこともできないので、俺は行祓のいるちゃぶ台の方へマグカップを二つ持っていき腰を下ろした。ちゃぶ台の上の紙類の邪魔にならないよう慎重にマグカップを置く。
「ホットミルク作ってくれたの?」
「寒いから」
「うわぁ、ありがとう。いただきます。なんか甘い匂いするね」
「はちみつ……ごめん、入れすぎたかも」
「正直ちょっと疲れてたから、甘いもの欲しかったんだ。ちょうどよかったよ」
 カップに口をつけて、「あ、おいしいー。ありがとうまゆみちゃん、おいしいよ」とふんわり笑う行祓に、俺はなんとなく居心地が悪いような複雑な気持ちを抱えていた。俺がやったのはたかだか牛乳を温めただけ。普段行祓がやってくれていることに比べたら小指の爪の先ほどの労力しかかかっていない。それなのにこいつはこんなに喜んで、お礼まで言ってくれるのかと思うとどうしようもなく恥ずかしかった。
 こくり、と俺もホットミルクを一口飲む。甘くて安心する味だ。また膜が張ってきていたのでスプーンで隅によける。
「……あんま、無理すんなよ」
「え、どしたのいきなり」
「俺はこのくらいしかできねえから……お前も、自分が体調崩したときに食うもんが不味かったら嫌だろ」
 行祓は俺の言葉を聞いて何故か声をあげて笑った。何がおかしいんだよ。
「あはは、笑ってごめんね。だってまゆみちゃん、自分じゃなくておれのご飯の心配してるから」
 どういう意味だ。お前が倒れたら誰が俺の飯を用意するんだ、とか、そういうことを言う奴だと思われてたのか? 心外すぎる。抗議してみると、行祓は再度俺に謝ってきた。そういうつもりじゃないよ、と言って。
「まゆみちゃんはやっぱり優しいひとだなあって思ったから、それが嬉しくて笑っちゃったんだよ」
「な……何がやっぱりだよ何が。調子のいいこと言ってんじゃねえって」
「ずっと前から思ってたよ? へへ、おいしかった。ごちそうさまでした」
 行祓は笑顔で手を合わせた。牛乳を温めただけのものにも、手を合わせてくれた。嬉しいのに、それ以上に恥ずかしい。俺も料理を勉強するべきだろうか。行祓に習うべき? 実家を離れたら否が応でも最低限はできるようになるだろうと思っていたのに、行祓と一緒にいるともしかしたら実家にいるときよりも上げ膳据え膳かもしれない。
 そんな俺の危機感をよそに、行祓は「テスト週間終わったら打ち上げの意味も込めて気合入れて夕飯作るからね!」と言っていて。俺は自分の欲望に逆らえず、「すげえ楽しみ……」とせめて素直に気持ちを口にした。
 ホットミルクはまだ、あたたかい。

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