羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「潤! 悪い、待ったか?」
「んーん、へいきだよ。お仕事お疲れ様!」
 年度末はやはり仕事が忙しい。バレンタインに潤手作りのチョコレートを貰った俺はどんなお返しをしようかなんて年甲斐も無くはしゃいだ気持ちだったのだが、三月半ばの繁忙期に殺されホワイトデー当日は仕事が終わった時点で日付が変わる十五分前という悲惨な状況。翌日も似たようなもので、ホワイトデーが終了して二日経った本日ようやくまだ常識的な時間に帰ってくることができた。とは言っても、帰宅は午後九時を回ってはいたのだが。
 そもそもここ数日ちょっとおかしいくらいに帰宅が遅かったのは、販社からクレームが出たからだ。別に誰が悪いわけでもない、理不尽と言っても差し支えないものだった。けれどたまたまそれが俺の担当している案件で、だったら俺が対応しなくちゃしょうがない。上司も「お前は悪くないから気にするな」と言って一緒に後始末をしてくれた。
 ここ数日怒鳴り声で頭が痛くて、何かと謝りっぱなしで、正直ちょっと凹んでいる。仕事は嫌いじゃないがサンドバッグみたいな扱いをされるときつい。これが大人というやつなのか。
 俺は目の前で柔らかく笑っている潤の髪を撫でる。指通りのいい髪だ。
 守るべき家族がいると、少々きついことがあっても頑張れる気がする。こいつが家で待っていてくれるんだ、と思うから、早く仕事を終わらせて帰ろうという気持ちになれる。
 潤は俺の手に自分の手を重ねてはにかんだ。
「……ほんと、お疲れ。ほら、まずはご飯にしようよ! 今日は揚げ出し豆腐と麻婆茄子です」
「おー美味そう……着替えてくる」
「手洗いうがいもするんだよー」
「はいはい」
 はいは一回でしょー、と楽しげな声が背後から追いかけてくる。こんな小言は小中学生のときぶりくらいだけど、潤が言うなら小言すら可愛いなと思ってしまうから不思議だ。
 着替えて手を洗ってうがいもして、リビングに戻るとすっかり食卓の準備がされていた。「孝成さん最近ずっと遅くて疲れてるでしょ。おれが運ぶから座ってて」普段だったら、いやいやそういうわけにもいかないぜと何かしら手伝いをするのだが、いかんせん本当に疲れた。申し訳ないと思いつつ有難く任せることにする。あとは飲み物を運ぶだけだったらしく、潤はすぐ戻ってきた。
 ありがとう。いただきます。
 潤と暮らすようになってから、家にいるときもきちんと挨拶を声に出すようになった。いってきます、とか。ただいま、とか。いただきます、とか。ごちそうさま、とか。一人のときは虚しく響くばかりだったそれも、二人なら聞いてくれる人がいる。
 炊きたての米がつやつやしていることに感謝しつつ料理を口に運んだ。潤はというと、揚げ出し豆腐が熱かったらしく一生懸命息を吹きかけてさましている。尖った唇が可愛い。さらりと髪が頬にかかってそれを慌てて耳にかける仕草がなんとなく、ああ、好きだなあ……と思う。
「孝成さん、この豆腐めちゃくちゃ熱いよ……火傷しないようにね」
「ん? 火傷したのか」
「ちょっとだけ。あ、でも全然へいきだよこれくらい」
「お茶飲むか? 気をつけろよ、お前皮膚薄いんだから」
 潤の肌はあまり丈夫ではないらしくすぐ草に負けたり紙で切ったりするので心配だ。熱いものを口に入れるとすぐ上あごの皮膚がめくれるし、フランスパンで咥内を傷つける。たまーにしかならないよ、と潤はあまり気にしていない様子だけれど、俺は気になるのだ。
「孝成さんって心配性だよねえ。おれ男だし、ちょっと怪我したくらいじゃなんともないよ」
「男とか女とかじゃなくて、家族がどっか痛がってたら心配するだろ」
「んんー……うん」
「分かればよろしい」
 潤は俺の喋り方が面白かったのか噴き出した。「孝成さん、学校の先生みたい」いや、こんな喋り方する教師いるか……? 潤の中のステレオタイプな教師がこんな口調なのだろうか。
「あんまり心配してもらい慣れてなかったから照れ隠ししちゃった」
「……、潤」
「あ、違うよ! そーいう意味じゃなくて、んーと……昔は滅多に隙を見せないおれだったから?」
「ふは、信じらんねえな。今こんなふにゃふにゃなのに」
「ううー、おれがこんなふにゃったのは半分以上孝成さんのせいだからね」
 それはなんとなく分かる。こいつ、俺の前だと口調も行動もなんか幼くて可愛い感じだけど人前だとそうでもない。寧ろちょっと冷めた雰囲気すらある。人当たりはいいけどむやみやたらと笑顔を振りまくタイプではないし、そういう部分から察せられることも、まあ、いくつか。
 そういえば初めて会ったときのこいつの表情は、冷たくも感じた。今となってはもうまったくそんなことは思えないから思わず笑ってしまう。すると、潤が安心したように「よかった」と言った。
「ん? どうかしたか?」
「孝成さん笑ってくれたから。よかったなぁって思って」
 あんまり元気なかったでしょ? と静かな声で言われて黙るしかなかった。表に出したつもりはなかったんだけどな。家の中で仕事に関して愚痴っぽくなるのは嫌だし、潤に無駄な気を遣わせたくもなかった。けれどどうやら潤には全部お見通しらしい。これなら逆に、はじめから正直に言っていた方がよかったかもしれない。心配させてしまったのだろう。
「悪い、そんな湿っぽかったか」
「ううん。違うよ。……でも、ちょっとは愚痴ってくれてもいいのにって思うよ。孝成さんがいやじゃなければ、だけど……」
 潤は俯きがちに言う。「ほら……家族が、元気なかったら心配……でしょ」たどたどしいけれど、はっきりとそう口にして微かに笑った。
「あー……飯食い終わったら、話聞いてほしい」
「話してくれるの? ありがとう! おれ難しいことはよく分かんないかもだけど、孝成さんの話してくれることだったらなんでも聞きたいよ」
 じわり、と胸が温かくなる。家族がいるってこういうことだ。自分の心を預ける場所があるってこと。
 潤の優しさを米の甘さと一緒に噛みしめる。弱っていることを指摘されるなんてカッコ悪いけれど、心配してもらえるのはやっぱり嬉しくて困った。せめて仕事をしているときの俺様子がカッコよく聞こえるように伝えたい、と悪あがきを考えてみたりする。
 疲労感がすっかり和らいでいて、こいつと一緒にいることが栄養ドリンクなんかよりもよほど効果があるという事実にまた笑った。

prev / back / next


- ナノ -