羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 肩のギプスは怪我をしてからひと月後に取ることができた。まだ激しく動かすのは無理だけど、まあ許容範囲内。右手のギプスはもうちょい時間がかかりそうだ。修学旅行前には取れる予定だから気長に待とう。
「奥。怪我はだいぶんよくなってきたみたいだね」
「おー。これ以上体育休めねえしな」
 今の単元がマラソンでよかった。ほぼ徒歩みたいな速さでゆっくり走って出席扱いにしてもらっているのだ。怪我をしてすぐの頃は単元がバレーボールだったから、授業で一番面白い試合形式の部分だけ見学する羽目になってしまった。ぼーっとつっ立ってボール拾いをするのにも飽きたので、少しでも参加できる単元になってほっとしている。
 そこまで考えて、俺はふと遼夜の机の上に置いてある可愛らしいラッピングの箱が目に留まった。あー、そういや……。
「今日、バレンタインか」
「うん? ああ……これか。朝練が終わったときにね、もらったんだよ」
 同じ短距離種目のひとたちだよ、と微笑むそいつ。いくつかあるチョコレートの箱を、遼夜は丁寧に揃えて鞄にしまった。と、「奥! 津軽くんも! ハッピーバレンタイーン」なんて声と共にクラスの女子からチョコレートを貰う。毎年全員に渡してるタイプの奴だな。律儀なことで。
「……なんかお前嬉しそうじゃねえ?」
「甘いものはすきだからね。それに、どんなかたちであれ好意を示してもらえるのは嬉しいだろう」
 伝えるというのは大事なことだよね、と穏やかに笑っているそいつからは特別な感情は読み取れなかった。うーん、マジで単純にチョコレートが好きなんだろうな……。こいつ、かなり甘党だ。激しい運動をしてるとエネルギーが大量に必要なのかもしれない。
 俺もなんだかんだ、部活や委員会が女所帯なので毎年割と貰う方だ。別にチョコレート自体はめちゃくちゃ好きってわけでもねえけど、美味いとは思う。コンビニ以外のチョコってこういう機会じゃねえと食わないしな。
 この学校は男女関係なく仲がいいので、いわゆる友チョコとかいうやつを貰うことが多いのだ。まあ、その中でもぶっちぎりにチョコレート貰うやつは決まってるんだけど。
 俺はちらりとまだ登校してきてない奴らの机を見る。後ろから見ていると引き出しの中に何か入ってるなくらいは分かるのだが、高槻の引き出しあれ教科書とかノートとか入る隙間無いんじゃねえの? 笑える。机の上にも積まれてて祭壇みてえになってるし。呪術でも始めるのかよ。
 高槻は、対面で手渡しなんてとてもじゃないけどできませんみたいな女が勝手に置いていくパターンが多いのだろう。お返しは不要ですってやつだ。もっと近くで、ちゃんと本性見てやればいいのにな。あいつ自身が取り繕ってるから仕方ねえけど。
「……高槻の机、すごいね」
「ん? あー、だな」
 俺の視線の先に気付いたのか、遼夜は「誰にお返しすればいいか分からなくて、あれでは困るだろうなあ……」なんてしみじみとした口調で言っている。そうだな、っつーか誰が持ってきたか分かんねえ食い物って普通に怖い。
「まあでも、誰にお返しするか全部分かっててもそれはそれで大変じゃねえ? 数が多いと」
「確かに……ああ、噂をすれば」
 ガラリと教室後方の扉が開いて、「待って! せめてメモさせて、流石に数十人単位で完璧に把握すんのはムリだから!」という叫び声が聞こえる。そいつはたぶん俺たちの学年で一番チョコを貰ってる奴で、ほっそい体でよたよたと大量の箱を抱えているのはちょっとした名物になりつつある。
「おっ、八代今年もモテモテじゃーん。誕生日おめでと!」
「あたしもあげるよー、心して食え!」
「おめでとう。にしてもお返しの数エグそー」
「私だったらめんどくさくて絶対投げてるわ。はい、義理」
 女子に好き勝手なことを言われまくってるそいつは、「オレの誕生日四日後なんだけど!? ありがとう!!」とヤケクソ気味にお礼を言っていた。そう、義理チョコ獲得数ナンバーワンという名誉なんだか不名誉なんだか分からない称号を持っているのは八代だった。あいつ確か甘いものそんな得意じゃなかったはずなんだけど、量が少なければ普通に食うってのもあってその事実はあまり知られていないらしい。「嫌いじゃないし少量ならむしろ美味しいと思うけど沢山は食べられない」っての、なかなか理解されづらいよな。
 今年度はクラス替えをしてるから特に多そうだ。あいつが甘いものをそこまで多く食わないってのを分かってる女子も、「ねえこれハバネロ味のチョコなんだって……自分で食べる勇気無いからあんたにあげる……」とか言っている。
 挙句の果てには男にチロルを積まれて「これで次の期末の予想問題作ってくれよー! 頼むよ義理チョコ大臣様ー!」と言われて「バカじゃねーの!? 男からのチョコは受け付けてません! しっし!」なんて漫才みたいなことをしていた。
 八代は自分の席にどうにか辿りつくと高槻の机の惨状に気付いたらしく、「うっわ高槻の机やべーな、何か祭ってんの?」と呆れた声をあげる。
「モテない奴らの生霊でも慰めてるんじゃねえの。文化祭のせいで余計に量多いんだと思うけどな」
「あー、確かに去年はこんなんじゃなかったし中三のときも酷かったっけ……? っつーかこんなんで慰められるの? 地縛霊になりそう」
「確かに。でもお前のだってあれ以上に多いだろ」
「いやこれ全部義理だし……なんで女子って余分にチョコ持ってるんだろ。『誕生日なの? じゃあチョコあげるよ』ってみんな言うんだけど『じゃあ』って何さ……有難いですけど……四日後ですけど……」
 八代はなんだかんだお返しをきっちりするタイプなので、誰に貰ったか律儀にメモしている。賞味期限の早いものと遅いものとで仕分けして袋に入れるさまが慣れを感じさせてちょっと面白い。そんなことをしているうちに、予鈴まであと五分も無いというような時間になってようやく高槻が教室に入ってきた。
 既にいくつかチョコレートを貰っているらしいそいつは一瞬足を止めて、「うわー……」みたいな顔をした。んなことしても現実は変わらないぞ。
「おはよ高槻。今日遅かったじゃん」
「近くの女子校の奴らに捕まった。これお返しどうすりゃいいんだよ……」
「名前も分からないんじゃどうしようもないんじゃない? 相手も期待してないでしょお返しなんて。渡せるだけでよかったんだよきっと」
「それはそれでなんか悪いことしてる気分になるな……今日学校休めばよかった」
「お前たまに素で敵を作る発言するよね」
 どんな理由にせよ好かれてるって有難いことでしょ、と八代は言った。こいつはなー……こういうことを言うんだよな。俺は到底そうは思えない。たぶん高槻も俺と同じタイプ。遼夜に関しては言わずもがなだ。
 案の定高槻はいまいち納得してない風な顔で首を傾げたが、予鈴が鳴ったことでこのままではまともに授業も受けられないであろう机をどうにかしなければと思い至ったらしい。バレンタインの浮かれた空気も教室から薄れていくのを感じる。
 さて、俺も席に戻るか――と思ったところに、さっきからずっと黙っていた遼夜がちょんちょんと腕をつついてきた。
「ん? どした?」
「ええと、大したものではないのだけれど……これ、おまえに」
 そっと手のひらの上に乗せられたのは小さな箱だった。「ほら、以前チョコレートをくれたことがあっただろう。お返しみたいなものだよ」その台詞の意味を認識するまでに数秒かかった。……え、これもしかして。
「チョコ? 俺にくれんの?」
「うん。きれいだったからつい取り寄せてしまったのだけど、自分で食べるにはもったいなくて……誰かにあげるなら、おまえかなと思ったんだ」
 男に貰っても嬉しくないかもしれないね、と恥ずかしそうに小さく囁くそいつ。思わず「神……」と呟いてしまって不審がられたりしたものの、どうにか慌てて首を振って「ありがとう」とだけ言うことができた。
 まだ伝えたいことは沢山あったのに、チャイムが鳴ってしまう。遼夜はやっぱり恥ずかしかったみたいでそそくさと自分の席に戻っていってしまった。
 手のひらに余裕を持って収まるくらいの小さな箱を見て、柄にもなく耳元が熱くなるのを感じる。
 ……やべえ、俺も祀らなきゃなんねえチョコできたかも。

prev / back / next


- ナノ -