羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「――でね、最後のシーンの歌がほんとにすごくて!」
 全ての演目が終わって、俺たちは近くのレストランで夕飯を食べていた。せめて食事代くらいは出させてほしいとお願いして、ちょっといいとこのイタリアン。マリちゃんは箸遣いだけじゃなくナイフとフォークの扱いも綺麗だ。スズカさんに最低限のテーブルマナー教えてもらっといてよかった。俺だけならまだしも一緒にいるマリちゃんに恥をかかせるわけにはいかない。
 俺がどれだけミュージカルを楽しんだかというと、売店で記念にパンフレットを買ってしまうくらいには……という感じだ。影響されやすいんだよこういうの。自覚はしてる。
 元々、映画とかを観た後に誰かと感想を言い合ったりするのが好きだった。まあ語彙力は無いんだけど、それでも色々なことを思いつくままに喋るのは楽しいと思うから。なんかこう、同じものに対する感想がちょっとずつ違ってたりとか、なんだか不思議な感じだよね。
 マリちゃんはにこにこしながら俺の話を聞いてくれる。ミュージカルの内容について自身の感想を交えつつ相槌を打ってくれるマリちゃんは、俺とは違って感想を言うのが上手い。読書量の違いだろうなあ。……そういえば俺のあげたブックカバー、使ってくれてるみたいだ。劇場で鞄にチケットの半券をしまっていたときにちらっと見えた。嬉しい。
 パスタを器用にくるくる巻いて口に運ぶマリちゃんに、俺は思う存分どこが楽しかったとか、かっこよかったとか、綺麗だったとか、そういうことを言った。やっぱりこういう映画とかって女の子と来ることばっかりだったから普段は基本聞き役に徹してたんだけど、俺も大概話したがりなんだよね。
 楽しい、って思った。この子と一緒だと素のままで楽しい。それはきっととても貴重なことだ。
「――ミュージカル、お誘いしてよかったです。こんなに楽しんでいただけるなんて」
「えっ。楽しかったよ! いや、一目瞭然って感じだけど……」
「おれも楽しかったですよ。好きなひとと一緒だから尚更そうだったのかもしれないですね」
 さらりとそんな風に言ってくれるマリちゃんに気の利いた返事でもしてみたいのに、俺は「そ、そう……だね」としどろもどろなことしか言えない。一滴も酒飲んでないのに顔が熱いって、どういうことなんだよ。
 たぶんどろどろに蕩けた表情してるんだろうな……と、この場に鏡が無いことに感謝しながら僅かに俯く。でもすぐ我慢できなくなってマリちゃんの方を向いてしまった。マリちゃんも恥ずかしそうに笑いかけてくれたから、心臓がきゅうっと縮まる感じがする。俺の体、幸せを処理しきれてないみたい。途中でウェイターが何度かテーブルまで来たはずなんだけど何も覚えてなかった。覚えてなくてよかったかもしれない。だってこんなに恥ずかしいんだから。


 ドルチェと食後の飲み物までしっかり堪能して、俺たちはイルミネーションの輝く街へと繰り出した。とは言ってももうすぐお別れの時間なんだけど。このイルミネーションが楽しめるのは、駅に着くまでの間だけだ。
 正直名残惜しい。でも、「きっと暁人も待ってますよ」と言われてしまっては帰るしかないだろう。マリちゃんは、俺たち兄弟の時間も大切にしてくれる。
「そういえば、セツさん今年はあまり手が荒れていませんね」
 さっき手がふれたときに気付きました、と微笑むマリちゃんに、俺はちょっと誇らしい気持ちで「ちゃんとケアしてるからね! マリちゃんが心配してくれるから、クリーム塗るの続いてるよ。ありがとう」と返す。面倒くさがって荒れるままに放置していた手は、しかしマリちゃんに出会った年の冬からケアをするようになって随分とよくなった。手入れすれば症状もマシになるもんなんだな、と感心したくらいだ。あかぎれとささくれも、今ではもう注意深く見ないと発見できないくらいには和らいでいる。
「セツさんは……おれの言ったこと、いつもまっすぐ受け止めてくれますね」
「え……それはまあなんというか、マリちゃんが本気で心配してくれたりとか、俺のこと考えて言ってくれるんだなとか、思うから……ほ、ほら、マリちゃんが優しいお陰だよ」
「ふふ。ありがとうございます。でも、あなたがとても誠実な方だから、そういう風に言ってくださるんだなっておれは思っています」
 俺はマリちゃんのお陰だと思ってるけど、マリちゃんは俺に理由があるって思ってるの? それってすごくない? お互いがお互いに、そう思ってるんだよ。すごいよ。またひとつ温かい気持ちを貰ってしまった。マリちゃんが俺にくれるのは温かいものばかり。それは既に両手いっぱいで、溢れてしまいそうだと思うのにまだいくらでも積もっていく。柔らかく俺の中に入ってくる。
 もしかして俺は、もうマリちゃんから離れられないんじゃないだろうかと思うことがある。
 こんなに優しくされて、この優しさ無しでは生きていけなくなってしまったらどうしよう。マリちゃんは「ずっと一緒にいますよ」なんて言ってくれそうなところが尚更怖い。冗談半分でそんなことは言わないと分かってしまうからこそ、本気だと信じられるからこそ不安になったりする。
 無性にマリちゃんを抱きしめたくなってしまって、でも外だから必死に我慢した。こういうとき、男同士って周りの目が厳しいと実感する。男女なら別れ際にちょっとキスしたり、歩くときに手を繋いだりしてもそれは取り立てて騒がれることではないだろう。でも俺たちは違う。
 俺としては、マリちゃんが隣にいて俺を好きでいてくれるってだけでおつりがくるくらいの奇跡だと思ってるけどね。俺贅沢病だから、今でも十分恵まれてるのにもっと欲しくなってしまう。
 マリちゃんに性欲を向けたくないって思ってるのは本当。でも同じくらい、キスしたいし抱きしめたいと思ってるのも、本当。
「……すき」
 口の中だけで呟く。
 聞こえないようにそうしたのに、いざ本当に気付かれないと残念な気持ちになってしまう自分にちょっと呆れた。
 手が触れるか触れないかくらいの距離感で歩いて、帰りの電車では流石に二人並んでは座れなかったから開く扉とは反対側のポールの辺りに寄りかかってまた話をした。俺はなるべく、今日という日がどれだけ楽しくて、自分にとって嬉しいものであったかを時間の許す限りマリちゃんに伝えた。
 あっという間に降りる駅が近づいてしまう。あと三分もしないうちにさよなら。そんなことを考えていると、マリちゃんがふと「……名残惜しいですね」と囁く。
「けど、ちょっと足りないくらいがちょうどいいって聞いたことがあります。名残惜しいから次の約束ができるんだなって、思うことにしますね」
 また近いうちにお会いできると思っていていいですか、と笑顔で言われて食い気味に頷いた。
「あの、今日はほんとにありがとう。言葉で表現できないくらいに素敵な一日だったよ。たくさん嬉しかった」
「よかったです。今日もあなたの笑顔をたくさん見ることができました」
「大袈裟だって。俺もマリちゃんの誕生日に何するか今から考えようかなあ」
「ふふ、気が早いですね。半年も後のことですよ」
「だってお祝いするのは確定なんだし、考えるだけでもしとかないと! 大事なイベントだからちょっと早めに準備するのもきっと楽しいよ」
 マリちゃんが俺のことをとても柔らかい目つきで見ていることに気付いてちょっと恥ずかしい気持ちにもなったけれど、マリちゃんだってきっと自分の誕生日のときには既に俺の誕生日のこと少しは考えててくれたんじゃないかな、って思うからこれでいいんだ。
 と、電車が減速していく。駅に到着したのだ。
「じゃあ……またね。おやすみ」
「おやすみなさい。今日はありがとうございました」
「うん。ありがとう、ゆっくり休んでね――――」
 手が、触れた。
 俺が反対側の扉の近くに行こうと一歩身を引きかけたその刹那のこと。体とポールの間に滑り込んできたマリちゃんの手は、俺の手をぎゅっと握ってすぐ離れていった。優しく、撫でるような手つきだった。きっと周りからは体に隠れて何をやっているのか見えなかったはずだ。俺は口を開いて、けど何も言えなくて、とりあえず電車から降りないと、なんて思いながら扉をくぐる。
 ふわりと花が綻ぶように笑ってこちらへと手を振ってくるマリちゃんに、俺はどうにか手を振り返すことしかできなかった。マリちゃんは俺がホームに降りてもまだ手を振っている。
 扉が閉まる合図の音楽が鳴って、ゆっくりと電車がホームから遠ざかっていくのを俺は手を振りながら見送った。心臓の音がうるさい。破裂しそうだ。
 体が熱い。
 まるで指先を愛撫するような触れ方だった。マリちゃん本人にその気は無くとも、あれは確実に愛情を伝えるための触れ方だったと俺は感じ取っていた。
「さ、最後の最後に、とんでもないプレゼント……」
 呆然と立ち尽くす。急がないと次の電車がまたホームに入ってきてしまうのに。
 俺はどうにか方向転換して歩き出した。外に出ると冷たい風が体温を奪おうとしてくる。ちょっぴり肩を竦めて一歩ずつ進んでいく。
 ここから家まで十五分もかからないくらいだ。とりあえず歩いている間にこの体の熱が収まってくれ、と、俺は空にひときわ明るく見える星へと祈った。自分の手の指先をそっと握り込むと、風に吹かれて冷たいはずなのにやけに熱く感じられる。
 冬の寒さが、今だけは少し有難かった。

prev / back / next


- ナノ -