羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 遼夜が松葉杖をついて登校してきたのは、あいつが毎日一粒ずつ食べていたチョコレートがまだなくならないうちのことだった。
 普段だったら朝練に出ているはずの遼夜の荷物が教室に無くて、風邪でもひいたかと若干心配していたら教室の後ろの方から「えっ……津軽くんどうしたのそれ! 大丈夫!?」と女子の声が聞こえてきて思わず勢いよく立ち上がってしまう。
 大丈夫だよありがとう、と穏やかに返答している遼夜の足はギプスで固定されていて、その下は包帯でぐるぐる巻きになっているのが分かった。
「遼夜」
「うわっ……びっくりした。おはよう、奥」
「お前それ、どうした。折れてんのか?」
 ああ、挨拶を返しそびれてしまった、と後悔する暇も無い。問い詰めるような口調になってしまって慌てて深呼吸する。落ち着け。
「お、折れてなんていないよ……お医者さまがおおげさに固定してくださっただけだ。大会前だし、なるべく早く治さないとと思って……ただの軽い捻挫だから、大丈夫」
「捻挫ってお前、何したんだよ……」
 遼夜は迷うように口ごもって、小さく「……階段から、落ちた」と内緒話のように言う。
 おかしい、と直感的に思った。確かに遼夜は普段の動作はゆっくりだけど、身体能力は高い。けっしてどんくさいわけではないのだ。何も無いところで転ぶとかましてや足を踏み外すとか、それはちょっと違和感を覚える。
「……本当に大丈夫か?」
 色々な意味を込めて言う。遼夜は微笑んだ。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
 あんまり優しい声だったので、俺は黙るしかない。こいつが大丈夫だと言うのなら、と、深入りしたい気持ちを必死で飲み込んだ。数日後にその我慢が水の泡になろうとは、このときの俺はまだ知らなかったのだ。


 虫の知らせ、というやつだろうか。その日は本当だったら珍しく早く帰る日で、けれどなんとなく、遼夜のことが気になったのもあっていつもとは違うルートで教室を出た。最短距離ではなく、グラウンド横のロータリーを通って校舎裏から門に抜ける道だ。これなら陸上部の練習の様子がちらっとでも見られるだろうと思って。遼夜は怪我をしていたけれど、部活には出席してマネージャーの仕事を手伝っているようだった。
 遼夜の言った通り、怪我はそこまで酷いものではなかったらしく三日も経つ頃には松葉杖を必要とはしなくなっていた。ただ、やはりまだ走ることは許可されていないらしい。確か大会まであとひと月も無かったと思うのだが、間に合うのだろうか。そんなことを考えつつ門の方へ向かおうと校舎裏へ続く道を曲がったところで、俺はつい最近見かけた顔ぶれに再会する。
「――は? なんでお前らがこの学校にいるんだよ」
 陵栄東の、陸上部員。そいつらは嫌な笑みを浮かべて、「この間の続きしてやろうと思って来てやったんじゃん」と言った。
 電車で二駅分は離れたところなのに、わざわざ来たのか。
「やっぱり暇人かよ。お前らも大会前だろ、練習しなくていいわけ」
「いやぁ……お怪我の具合はどうかと思って?」
 意図的に含みを持たせた響きだった。俺は怪我なんてしていない。こいつら、まさか。
「っつーかあいつ、お前に何も言ってないの? 信用されてないんだね」
 にしても練習できねえのに部活出てるとか聖人気取りかよ、とそいつらの口から吐き捨てられる。ぐつぐつと、血が煮え立っているかのような錯覚を覚えながら俺は声をあげた。
「……お前らあいつに何した?」
「何って分かってるくせに聞くなよ。ちょっとの間すっこんでてほしいだけだっつの、どうせ大した怪我じゃねえんだし――――」
 俺がそいつの言葉を最後まで聞くことは無かった。複数人でいたからか完全に油断しきっていたそいつらの、一番近くにいた奴を三歩踏み込んで殴り飛ばす。加減ができなかったせいで衝撃が肘の辺りまで走った。鞄は邪魔なのでとっくに投げ捨てている。こめかみの辺りが熱くて、それなのに頭の芯はとても冷え切っていて、妙な感じだった。
 視界が狭くなっている気がするけれど構わない。今はただ目の前でぎゃあぎゃあ喚いているこいつらをどうにかできれば、それで。
 俺は、きっと心配させまいとして笑ってくれたのだろう遼夜に心の中で謝った。
「――ぶっ殺してやる」
 こいつらは俺の大切な奴を傷つけたのだ。喧嘩を買う理由なんて、それだけで十分だった。

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