羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 その日は飲み会で、けれど気乗りしなかったものだから一次会で早々に帰宅した。「敦帰っちゃうのー?」という女子の甘ったるい声を適当に聞き流し、「今度はもっと少人数で飲もう」なんて思ってもいないことを耳打ちし、酒で僅かに火照った体が夜風に吹かれる心地よさを感じながら玄関に到着する。
「ただいま」
「おかえりー。まゆみちゃん今日早くない? どうしたの、具合悪くなっちゃった?」
 行祓はいつも通り穏やかな笑みで俺を出迎えてくれた。僅かな心配が滲むその表情に、「そんなんじゃねえって。今日はちょっと気分アガらなかったから途中で切り上げてきた」と素直に理由を話す。
 まあ、早く帰ってきた理由はそれだけじゃないんだけど。
「まゆみちゃん、ご飯ちゃんと食べてきた? 栗ご飯食べない?」
「食う。ありがと」
 そう、本当の目的はこれ。今日の夕飯は栗ご飯だったのだ。飲み会の予定が入ってから、行祓にメールで『今日は栗ご飯作ったよ』と言われたときは己のタイミングの悪さを呪った。今更先約の方を断るわけにもいかず行祓に謝り倒して、別にいいのにと返信がきたにもかかわらず結局諦めきれなくて帰ってきてしまったのだ。
 今日のメニューは、栗ご飯に具だくさんの豚汁、そして茄子の揚げびたしだった。飲み会の後だというのに普通に一食分用意されているし、余裕で食えそうだし、俺の胃袋はこいつの料理を前にするとちょっとおかしくなる気がする。旬のもので季節を感じる生活はとても贅沢だ。せめてもの感謝の表現で今日もきちんと手を合わせてから箸を取った。
 今日もこいつの作る飯は美味い。
 せっかくだから一緒に食べたかった、と僅かに残念な気持ちになる。行祓は自分が飯を食っていない時間も、俺が食事をしているときは食卓にいてくれるから余計にそう思った。
 行祓はいつも、俺が食事をしている傍で笑っている。最初の頃は居心地が悪く感じることもあったのに、今はもう隣にいないと落ち着かない。
「美味しい?」
「うん。美味いよ」
 もう何度も交わしたやりとりだ。それでも飽きない。いいことだと思った。
「まゆみちゃん、今日早く帰ってきてくれてありがとね」
「ん?」
「美味しそうな栗見つけたからさ、まゆみちゃん喜ぶかなって……びっくりさせたくて突然になっちゃったでしょ。まゆみちゃんすごい謝ってくれたし、今日早く帰ってきてくれたのってこのためでもあったんじゃない?」
 ばれてた。まあ仕方ないか、ばれるよなそりゃ。こんなにあからさまなんだから。
「まあ正直お前の料理のため……だし、お前のためだけど。お前のせいじゃねえから」
「うん。だからごめんねじゃなくてありがとうって言うよ」
 こんなことならまゆみちゃんが帰ってくるの待ってればよかったなあと行祓が言うものだから、こいつもちょっとは俺と同じように残念な気持ちを感じてくれているのかと嬉しくなる。
「こんな、夕飯楽しみで早く帰ってくるとか小学生のときだって無かった」
「あはは……そんなおれのこと喜ばせてどうするの」
「責任とって」
「明日も気合い入れて夕飯作ればいい?」
「模範解答じゃねえか」
 美味いものを食べながら軽口を叩くのはしあわせだった。胃が温まったことで体中ぽかぽかしていて、酒との相乗効果でじわりと汗が滲むほどだった。今日は気持ちよく風呂に入って眠れそうだ。
 明日はいつもより時間をかけて掃除をしようか。換気扇や電子レンジの中を綺麗にしたら行祓は喜ぶだろうか。そんなことを考えて、俺はまた一口豚汁をすするのだった。

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