羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 どうして嫌だと思ったんだろう。
 これまで、家のしきたりやしがらみに対してはある程度割り切ってこられたと思っている。聞き分けも悪い方ではないはずだ。真希さんに「あなたがわたしの提案に否と言ったのは初めてですね」と何故か嬉しそうに言われてしまうくらいには。
 ずっと、家にふさわしい人間であるよう努めてきた。
 別に現在恋人がいるわけでもなし、ましてやこんなことでだだをこねるような年齢でもない。
「遼夜、どした?」
「え、いや……なんでもない。すまない、ぼうっとしていて」
 奥に『好きな人はいるのか』と聞かれて動揺してしまった。別に図星だったからではない。おれに好きなひとがいるのかどうかむしろこっちが教えてほしいくらいだ。好きなひとがいるなら、嫌だと思ったちゃんとした理由になるから。訳も分からないままただ嫌だというだけなら、そんなの、つまらない反抗期じゃないか。
 このまま、あの家で生きていくための振る舞いができなくなってしまったらどうしよう。
 あまりこの生き方に疑問を持ったことはなかったのだ。誰だって生まれは選べないし、おれは家族のことが好きだったから。父も母も尊敬している。かわいいいとこもいる。おれの近しいひとたちは素晴らしいひとばかりだったから、それに報いたい気持ちがあった。
 高校のことにしても自分で決めたことだし、入学前は「残念だな」とほんの少しだけ思うこともあったけれど不満に思ったことはなかった。あの高校は、やはり偏差値の高さも手伝ってか治安がよく、穏やかだった。何よりみんな仲がいい。今となってはあの高校を選んでよかったと思う。
 おれは自分なりに後悔の無い選択をしてきた。でも今回のは、問題を先延ばしにしただけ。
 ふと視線を奥に向けると、心配そうな表情で見つめられていた。申し訳ない気持ちになる。こいつには心配をかけてばかりだな。
「なあ、奥」
「ん? なんだよ」
「おまえは好きなひとっているのか?」
 尋ねると、奥は笑って「さっきの話の続き?」と言った。うん、と頷く。
「いるよ。もう一年くらい前から」
 即答された。流石にちょっと驚いた。一年のときから同じクラスだったのに、気付かなかったなあ。奥には、好きなひとがいるのかと聞かれてこんな風に即答できるくらいの想い人がいるのだ。どんなひとだろう。不思議とすごく気になったけれど、これ以上詮索はできないなと思って黙る。けれど奥は呆れたような声でおれに言った。
「は、何、終わり? お前話広げる気ゼロか?」
「え、でも……ほら、プライベートなことだろう? おまえにだって言いたくないことはあるだろうし……ごめん、軽率に聞いてしまって」
「お前に謝られちまったら俺の立場ねえだろ、俺が先に聞いたんだぞ。っつーか」
 頬を軽くつねられた。思わず立ち止まるとかなりの至近距離に奥がいる。
 どきっと、した。
「プライバシーがどうこうとか聞き分けのいい一般論いらねえから。お前はどうしたいわけ」
「どう、って」
「ちょっとは気になってる? 俺の好きな奴が誰なのか」
 それは、まあ、もちろん。人の気持ちに踏み込むのはなんだか下世話な気がして苦手なのだけれど、奥の好きなひとのことは気になる。奥は前、どんなひとが好きだと言っていたかな。確か大和撫子がいいと言ってクラスの女子に「夢を見すぎだ」なんて笑われていた気がする。ということは、きっとおしとやかで優しい女性なのだろう。奥はあまり背の高い方ではないから、相手も小柄だろうか。
 ぐるぐる考えてしまってきりがなかったので観念して頷くと、どうしてだか奥はとても満足そうにした。
「ちょっとは気にしてくれてるんだな、俺のこと」
「え、それは……当たり前、だろう」
「そっか。……そっか、うん」
 奥は何度かおれの言葉を吟味するかのように頷いて、「俺のこと見てればすぐ分かると思う。俺の好きな奴」と囁く。
「だから、もっとちゃんと俺のこと見て」
 まあるい、きらきらした瞳がおれのことを見つめている。よく中学生に間違われると言って憤っているけれどおれは奥のこのまあるい瞳が好きだ。澄んでいて迷いが無いのが分かる。自分の中にきっちりと、譲れないものがあるというのが分かる。そんな瞳に見つめられているのはちょっと恥ずかしくて、思わず目を逸らしてしまいそうになる。
 言葉が胸につっかえてなかなか出てこない。元々喋るのはあまり得意な方ではないけれど、親しい友人に対してこんな風になってしまうのは初めてだった。
 もっと、ちゃんと。おれは奥のことをちゃんと見ていないのだろうか? そんなことはない……と思うのだけれど、奥としてはどうやらそう思ってはいないらしい。ちょっとショックだ。
 奥は後輩に人気がある。中学の頃からずっと委員会も部活も同じだったようで縦の繋がりが厚いのだ。「トモちゃん先輩」とやけにかわいらしい呼び方で奥を呼ぶ後輩が、教室の入り口に立っているのを何度も見る。きっぱりした性格をしていて、ちょっと口が悪いけれどそんなこと気にならないくらいには優しい。一人っ子だと言っていたけれど、きっと下にきょうだいがいたら面倒見のいいタイプだと思う。
「おれ、ちゃんと見ているよ……」
「……ふは、めっちゃ不満そうな声」
「だって学校で一番長い時間一緒にいるのはおまえだし」
 部活は? と聞かれたけれど、あれは同じ場所で練習しているだけであって一緒に練習しているわけではない。リレーのような競技ならともかく、陸上は基本的に個人で成立するのだから。大会で先頭を走っているといつも思う。前に誰も見えなくて、まるで一人で走っているみたいだ、と。
 それがどうしようもなく、高揚する。
 まあ、気持ちよく走っているときに視界に他の人間が入るのって正直邪魔だしなあ。誰にも言ったことはないけれど。
 話が逸れてしまった。奥に関しては、食事を共にしているというのも大きい。家の食卓はおそらく静かな方なので、奥の話を聞きつつ、たまにこちらも言葉を継ぎつつ食事をするのは楽しい。
 そんな風に伝えてみると、「お前、あんま喋るの得意じゃないくせに頑張って話そうとしてくれんの嬉しい」と言われる。
「まあ、お前が書いてるもん読めばお前のことはちゃんと分かるけどさ。たぶん能力のリソースそっちに割いてるんだろうな遼夜は」
「えっ……何か分かるのか、そんなに」
「とりあえずお前が学校帰りの寄り道にめちゃくちゃ夢を見てることは分かる」
「いいだろ別に……コンビニとかチェーン店とかに行ってみたいんだよ……」
「いつか俺が一緒に行ってやるって」
「ほんとうか?」
 思わず勢いこんで聞いてしまう。だって、今まで何度も一緒に帰っていたけれど一度もそういう話になったことがなかったから、奥はそういうお店が好きではないのだと思っていた。
「おまっ、随分食いつくな……ごめん、別に意地悪でそういうのに付き合わなかったわけじゃなくて、勿体なくて」
「勿体ない?」
「お前の歳でそういうの未経験ってかなりレアだろ。俺がその記録の邪魔しちまっていいのかなって」
「別におれはギネスに挑戦しているわけではないよ……」
 というか、そういう店に行くのを禁じられているわけでもない。ただ機会が無かっただけだ。ノートとかの日用品はなくなる前にお手伝いさんが用意してくれるし、買い食い……は、あまりにもハードルが高いし。買ったあとどこで食べればいいんだよあれは。一人でお店に腰を落ち着けるほど放課後の時間が有り余っているわけでもない。
 ……まあ、色々理由を並べてはみたけれど。要は人生初の体験を一人でするにはちょっと怖い。それだけだ。
「じゃあ、約束。今度お前が時間あるときは一緒に寄り道して帰ろうな」
「あ、ありがとう」
「……お前ここまで期待させといて他の奴と先にコンビニデビューとかするんじゃねえぞ、流石に怒り狂うからな」
「そこまで不義理じゃないよ……というか沸点が低いなおまえ……」
 奥の怒りどころは時々よく分からない。言っていることも時々よく分からない。でもそういうところもいやじゃない。だって、たぶんおれのことを考えてくれているんだろうというのはなんとなく分かるから。
 そこまで考えて、おれはうまく話をはぐらかされたのに気付く。気付いたけれど、嬉しい約束ができたから深追いはしないでおこう。
 ……やっぱり、おまえのことはたくさん見ているし、考えていると思うんだけどなあ。

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