羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 風の音が何かの鳴き声にも聞こえるそんな季節に、俺は手をポケットに突っ込んだままの拓海をちょっとだけ心配しつつその声に耳を傾けていた。
「さっみ! あーマジで最近寒くなってきたよな」
「拓海、手、危ないぞ。こけたら大変だろ」
「んだよ、そこまでどんくさくねえって……じゃあお前があっためて」
 悪戯っぽく笑う拓海はかわいい。言われたとおりに差し出された手を握ってみるとまさか本当にされるとは思ってなかったみたいで、僅かに焦ったような表情をする。自分から言っておいていざそうされると恥ずかしがるの、相変わらずだなあ。
 冷えた指先を包んで、「確かに冷たいな……」と思わず心配しているのが丸分かりの声になってしまった。案の定、「お前大げさ」と拓海が笑顔になる。
 少し前までだったら、じゃあ続きはどちらかの家でゆっくり……となっていたんだけど、最近はそうもいかない。なんと言っても今は冬で、俺たちは受験生だからだ。正確に言うと受験生は俺だけなんだけど。
 拓海は秋のはじめに、指定校推薦で大学に合格している。元々成績は進学にまったく問題ないレベルだったのと、途中から俺もびっくりするくらい真面目に勉強をするようになったからおかしいことだとは思わない。当時、面接があるからと言ってピアスを外し髪を短く黒くした拓海がなんだか新鮮で、写真に撮っておきたかったのに恥ずかしいと拒否された。今ではまた、明るめのオレンジがかった茶髪に戻っている。
 そんなわけで進路が不確定なのは俺の方だ。とは言っても、普段からある程度きちんと勉強するようにはしていたし付け焼刃的なことは不要だ。油断も慢心も無いけれど、取り沙汰するほどの焦りやストレスは感じていなかった。
 寧ろ俺より拓海の方が不安がってしまって、「俺と一緒にいたせいでお前が大学落ちたりしたら絶対やだ」となかなか二人の時間を作ってもらえないのだった。俺としてはそっちの方がストレスを感じるんだけどなあ。
 大学が離れてしまっても、家が近いというのは嬉しいことだ。
「拓海」
「ん? なに」
「俺の受験が終わってからさ、卒業まではたくさん一緒にいような」
 拓海はちょっと寂しそうな顔で笑う。「合格発表から卒業までって、二週間もねえじゃん」じゃあ訂正。大学入学までは休みだからもっと長い時間二人っきりだろ。それでも一ヶ月あるかないかだけど。
「センター利用で受かればもう一ヶ月早まるんだけどな、合格発表」
「え、出願してんの?」
「一応。担任に出した方がいいって言われた」
 俺は、天井知らずに難しい問題がすらすら解けるわけではないけれど、ケアレスミスがかなり少ない方らしい。ある程度のレベルの問題を高精度で解く必要があるセンター入試はお前に合ってるはずだと勧められた。これまで意識したことはなかったが、受験が早く終わるなら悪くない。拓海との時間が増える。まだ拓海と一緒に行きたいところも見たいものも沢山あるのだ。
「ああ、そういえば結局鍾乳洞も行けてないな……行かないと」
「は? お前それまだ狙ってたのかよ!? 行くとしても来年の夏だろ、雰囲気的に」
「冬の鍾乳洞ってあったかいらしいぞ」
「行くまでがさみーだろ!」
 俺は冬の海とか雪山とか嫌いじゃないよ。山登りもいいなあ。拓海が当たり前に「来年の夏」のことを話題にしてくれるのが嬉しい。卒業したらそれで終わりじゃない、って実感できる。
「鍾乳洞もいいけど、やっぱ卒業旅行したくね? 四月に入って、ちゃんと十八歳以上ですってできるようになってから」
「旅行か、それもいいな。俺、一度西の方に行ってみたいんだ」
「四国とか九州とか?」
「うん。一度も行ったことないから」
 拓海は嬉しそうにして、「じゃあ泊まりになるよな、遠いし」とはずんだ声をあげる。ここからだと飛行機だしなと普通に返事をしかけて、泊まりだと部屋で一晩中二人っきり、ということに思い至る。
 恥ずかしくて頬が熱くなった。「ん? なんだよ、エロいことでも想像した?」と妖しげな笑みを浮かべる拓海に焦る。そういうことばかり考えていると思われてしまうのは、ちょっと嫌だな。勿論考えることだってやっぱりあるけれど、一緒にいられるのが一番だから。
「ま、全部お前が合格してからの話だけど!」
「……ああ。頑張る」
「うん……俺、ちゃんと待ってるから」
 なんだかしんみりしてしまった。拓海に寂しそうな顔をさせないためにも、俺は頑張らないとな。


 とまあ、そんな話をしたのが三ヶ月くらい前。拓海は今、俺の隣で「ん! 割と美味いじゃん」と自分の作ったチョコレートを味見している。
 俺の合否を分けたのはたぶんセンター試験の日の朝の出来事だった。自宅の最寄り駅のホームに入った俺は、そこに見慣れた明るい茶髪を見つけて大層驚いた。拓海ははにかんで、「なんか……じっとしてらんなかったから、応援」と囁いたのだが、その手があまりにも冷たくて焦ってしまったのを今でも覚えている。一体いつから待ってたんだ、メールしてくれればよかったのに、と言った俺に、朝倉は「邪魔したくなかったから……」とだけ返した。
 歩いているときは流石に勉強してないだろう、と思ったから駅で待っていたんだそうだ。あまりにも嬉しかった俺は、結局拓海に会場までついてきてもらってしまった。電車の中で勉強しないの、と聞かれたけれど、会場までの道のりが、ちょっと電車に乗って乗り換えてまたちょっと電車に乗って……という感じだったので、教科書を開いてもあまり意味が無いからと説き伏せた。特にどういうことを喋った、というのはもう忘れてしまったけれど、試験会場に入る前、拓海が「……幸助、頑張って」と手を握ってくれたのは記憶に鮮明だ。部活を引退してから、こんな風に改まって言われることもそういえばなくなっていた、と拓海の気遣いに感動を覚えた俺が、センター試験で自己ベストをたたき出した――というのは、まあ、そこまでおかしくもない話だと思っている。
 試験後の登校日に自己採点をしながら、あまりに出来がいいので自分でも震えた。担任にもこれなら大丈夫だと言われて思わず親より先に拓海に報告してしまったものだから散々に笑われてしまったけれど、後悔はしていない。
 余談だが、もし本試験を受けていたら合格していたかちょっと怪しい。というのも、突然問題傾向ががらりと変わったばかりか理数科目の難易度が悪趣味レベルに高かったらしくて、阿鼻叫喚だったのだ。俺はまさに理数科目で得点を稼ぐタイプだったから、その話を聞いて少し寒気がした。拓海には秘密にしていようと思う。
「拓海チョコ作れるんだな。やっぱり器用だ」
「ふふん、初めてにしてはいい感じじゃね? 店員さんに色々聞いた」
「この時期に勇気あるな……」
 バレンタインシーズン真っ盛りだっただろうに。詳しく聞いてみるとどうやら拓海は架空の姉を作り出して、いかにもおつかいですという感じで買い物を完遂したらしい。女性の店員さんと盛り上がる拓海の姿は容易に想像できた。ちょっと妬けるけれど、全部俺のためだと思うと嬉しい。確かに拓海の作ってくれたチョコレートはとても美味しかった。家に器具が揃ってたから、と笑った拓海は永久保存版だ。
「……まあ、ほんとはチョコとか口実。久々に幸助とゆっくりしたかった」
 つい数日前に合格発表があったばかりでクラスでも明暗分かれているので、学校であまり手放しにはしゃぐ気にはなれない。やっぱり人目を気にせずに過ごせるから家はいいな。たぶん、拓海も合格祝いみたいな気持ちでいてくれるんだろうと思う。「ケーキは流石に無理」とはっきり言っていた。気持ちだけで十分だし、チョコレートも美味しかったんだから十二分だ。
「たくさん我慢した。だから今日はたくさん構え」
 にっ、と笑う拓海の笑顔は無邪気だ。大人びた顔つきとのアンバランスさがかわいい。俺だってたくさん我慢したよ、と囁いて、甘い匂いのするリビングでチョコレート味のキスをした。

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