羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 結局一日寝っぱなしで、風呂だけ入ってロクに食うものも食わず寝た。暁人はちゃんとトイレットペーパーを買ってきてくれていたらしい。夕方目が覚めて、トイレの収納スペースに雑に積まれたそれを見て思わず笑った。ぼんやりと、そういえば学校から帰ってきた暁人に「何か食えよ」と言われたかも……と思い出す。仕事休みなのに飯作れなくてごめんと言ったら、「バッカじゃね」と言われたのは鮮明に覚えてる。暁人はおかゆを作ってくれようとしたんだろうけど、いらないって言っちゃったんだよな。
 絶食のせいで逆に胃が痛いしますます食べる気にならない。でも熱は下がってるし、治ったと言っても過言ではないだろう。半日でここまで回復したなら上々だ。
 顔を洗って歯を磨いて、一日横になっていたせいで軋んだ体を伸ばす。うん、割とすっきりしたかも。
「兄貴。起きた? 体調どう、飯作る?」
「もう平気。でも食欲はねーわ。ありがと」
「ん……そ、っか」
 なんだか珍しく歯切れの悪い様子だった。暁人はこちらをじっと見て、けれど黙っている。「……今ちょっといい?」ソファに座る。そいつの口から発せられたのは、今一番話題にしたくないことだった。
「なあ、お前万里と何かあったの」
 きゅっ、と胃が縮む思いがする。疑問という体裁をとってはいたもののそれは確信に満ちた口ぶりだった。「別に……何も」と咄嗟に言ったけど、言い終わるより先に「誤魔化すんじゃねーっつの」と言われてしまう。
「……万里がさ、落ち込んでるんだよ。最近あんま話できないって言って。今日も、『お見舞い行きたいけれど、迷惑かもしれない』っつってたよ」
「そんな……それはただ、普通にタイミング合わなくて」
「だから、言い訳もやめろ。あいつそういうの気付くよ。知らない間にお前を傷つけたり、嫌がられるようなことしたりしたかもって悩んでる。なんでほったらかしにしてんだよ」
 そんな責めるようなこと言わなくてもいいだろ。病み上がりだぞ。いや、責められるようなことはそりゃしてしまったかもだけど、自分以外にまで責められると俺が悪いって分かっててもつらいんだよ。
 黙ったままの俺に痺れを切らしたのか、暁人は舌打ちをした。そうだ、こいつもかなり短気なんだよな、俺と同じで。でも今はその舌打ちにすら勝手に心が傷付いてしまう。俺だって望んでこんなことやってるわけじゃない。もっと話をしたいのに、俺のこの気持ちがもしバレてしまったらマリちゃんを困らせてしまうだろうから、申し訳なくて身動きがとれない。
 ――違う。本当は拒否されるのが怖いだけだ。
「なあ、お前おかしいよ。……いや、もうずっと前からおかしかった」
「何、が」
「お前そんなんじゃなかっただろ。人から物貰ってきたりとか絶対しなかったじゃん。自分の部屋に他人入れたことなんてなかったし、プライベート用の番号教えるとかも、そんな……違うじゃん」
 違うって、何がだ。たぶんこいつは何かを必死で俺に伝えようとしてくれてる。でも、分からない。正しいとか違うとか、そういう問題? やっぱりこんなのおかしいって思う? 年下の、弟と同い年のおまけに同性に恋とかしちゃってんのは間違ってる?
「他人に借り作るとか死んでも嫌だっつってたじゃん。あんまり深い部分まで知られるのは気持ち悪いって言ってた。でも万里にはそういうの、許してるみたいに見える」
 こいつは、俺のことをよく見ている。俺も、こいつのことはなるべくちゃんと、気をつけて見てるけど。こいつも同じだったってこと?
「兄貴は変わった。たくさん変わった。いいことだと思ってた。……気付いてる? 俺ら、もうしばらくガチの喧嘩してないよ」
 気付いてるよ。怒鳴りあいとか割と頻繁にしてたもんな、前は。でもそれは俺が変わったからってだけじゃねーよ。お前も、ちゃんといい方向に変わってるからだろ。心の中ではいくらでも受け答えできるのに、俺の口は相変わらずだんまりだ。
「俺、兄貴が変わったのって『マリちゃん』に会ったからだと思ってたんだよ。最初にちらっと話聞いたときから、ただの客って扱いじゃねーなって思ってた。他とは違うと思ってた」
 兄貴のこと幸せにしてくれるひとなんだと思ってた、と暁人は言った。大当たりじゃん。ほんと、よく見てるね。
「なんで万里と会ってやんねーの」
「それは……」
 言えるわけない。そう思った俺だけど、続く暁人の言葉で頭が真っ白になる。
「……また、鬱陶しくなったからってこれまでの女と同じように切るのかよ」
 気付いたら立ち上がっていて、辛うじて手をあげることは堪えたけれど怒りで手が震えた。指先が冷たくなっていくのが分かる。足も、唇も、どこもかしこも震えがおさまらない。
「な、なにも、知らないくせに」
 途切れ途切れになった言葉は、けれど不思議なことに震えてはいなかった。暁人の表情が強張っている。こんな顔弟にさせたくなかった。何も知らないくせにって、何も教えてないんだから当たり前なのにな。ごめん。でも今お前に優しくできない。
 たぶん、俺が病み上がりじゃなかったらこんなことにはならなかった。暁人もきっと、病人のくせに飯も食わないでいる俺に若干イラついていたんだと思う。朝もあんなに心配されてたのに結局ずっと寝てるだけだったから。いつもよりちょっと暁人の言い方がきつくなって、俺もそれを流せるほど余裕が無かった。
 だから、言ってしまった。
「ッ……なんでって、そんなに知りたきゃ教えてやるよ! ――好きだからだよ! 俺が! あの子を!」
 暁人の顔から血の気が引くのが分かった。気持ち悪い? いいよ、気持ち悪いって言っても。どんなにぼろくそ言われても、きっとこの気持ちは変えられない。大声をあげてしまった自分をまるで他人みたいに感じて、言葉は勢いのままに溢れてくる。
「あ――兄貴、待って」
「はあ!? お前が聞いたんだろ! そうだよ、他人に借り作るのも深入りされるのも嫌だったけどあの子なら大丈夫なんだよ、好きだから!」
 まさかこんなかたちで暴露することになるとは思ってなかったけどもう止まらない。勝手に口は動いて、俺の気持ちをぼろぼろこぼしていく。
「会うたびに優しくしてくれて、綺麗なものいっぱい教えてくれてっ……こんなひとほんとにいるんだって思った。こんな、当たり前みたいに誰かに優しくできて、周りのこと、大切にしてて、そういうのぜんぶ不思議で、」
 どうやったらあんなに優しくなれるんだろう。俺みたいなのにまで笑顔を向けてくれるんだろう。全部好きだった。優しい言葉選びも姿勢がいいところも綺麗な字も、好きだった。俺のことを蔑ろにしたりしないで、俺の作ったものとか言ったこととか、全部に丁寧な反応をくれるとこ、大好きだった。
「いつの間にか本気で好きになってて、本気に、なったから、いい加減なことすんのやめようって、あの子の傍にいても恥ずかしくない自分がよくて、女遊び全部やめたしっ……俺なんかでも変われるかもって、思って、でもこんなん誰にも言えないし、おかしい、こんな、八つも年下の男のことマジで好きとか」
 だんだん支離滅裂になっていく言葉にどうすればいいか分からない。暁人はさっきからしきりに「待って」と言ってくる。何を、待てばいいんだよ。いつまで待てばこの気持ちは消化できる? 苦しくなくなる?
「こんなの絶対知られたくない。拒絶されたらどうしようってずっと思ってた。最近はもうまともに喋ってられないんだよ、いつボロが出るか不安で、会いたいのに、声が聞きたいのに、そういうことばっか考えてる自分も嫌で」
 暁人がこちらに手を伸ばしてくる。思わずその手を振り払ってしまった。暁人が痛みに眉根を寄せて、そのことにいたたまれなくなった俺はこれが最後だと思って声を絞り出す。
「――っこんなんバレたらもう無理なんだよ、どうしろっつーんだよ俺に! どうやったら、……どうやったら、これ以上好きになったりしなくて済むの……」
 どうやったら嫌いになれるの、とは、言えなかった。暁人が近付いてくる。もう、振り払う気力も無い。
 青い顔のそいつは、「ごめん、もう何も言わないで、頼むから」と言った。そいつは珍しく、本当に珍しくもう何年も聞いてないような泣きだす直前の声で「ごめん」と再び言った。はたしてそれは何に対する謝罪だろうか。マリちゃんに対して、切る、という表現を使ったことか――と思ったら、全然違った。もっと、全て終わってしまうくらいに悪いことだった。
 なんでこいつが途中、俺の言葉をひたすら遮ろうとしてたのか。正解に思い至る前に、誰も居ないはずの暁人の部屋から壁に向かって延びる人影に気付く。暁人が掠れた声をあげるのと、それはほぼ同時だった。
「ごめん……万里、呼んでたんだ。今そこにいるんだよ……」
 ぎしっ、とフローリングの床が踏みしめられて軋む音がする。体温が下がる。「そ……そこに、いるの。マリちゃん」
 手に、力が入らなくなっていた。

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