羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 二年ぶりくらいに会う両親は、生きがいである仕事が日々充実しているからか子供の俺から見ても快活で、生き生きしているように見えた。五十をとうに過ぎた歳だというのに未だ働き盛りといった風だ。実年齢よりも若く見られるだろう。
 どんなに気に食わなくてもやはり親なので出迎えるにあたって最低限のことはしようと思って、弟と一緒に部屋の掃除をした。夕飯の買い物をした。俺の作った夕飯を、両親は喜んで食べた。きっと傍目から見ればこれは家族団欒に映るのだろう。元気そうで安心した、というようなことを両親は口々に言って、その様子は偽り無く嬉しそうだった。
 俺は少し寂しくなる。こいつらに悪気は無いのだ。悪意も無い。ただ望む『家族』としてのかたちが違っただけ。
 実際、周囲から羨まれる要素だっていくらでもあるのだろう。若く体力のあるうちに第一子をつくって、公共サービスをフル活用し母親の仕事復帰はなるべく早く。二馬力でバリバリ稼いで二十代で一軒家を買い、ボーナスでローンを繰り上げ返済する。若干落ち着いた頃に産んだ第二子は第一子の協力があり子育てもスムーズ――子供が二人、持ち家あり、仕事は順調で金にもまったく困ってない。
 俺は、狭いアパート暮らしでもいいから休みの日に一緒にいてほしかったし、授業参観を観に来てほしかったし、宿題しなさい食べた後の食器は片付けなさい、とか注意されて口答え、なんてことをしてみたかった。
 俺はそんなに高望みだっただろうか?
 親なんて嫌いだと見限ったはずなのにまだ悲しくなるのだから不思議だ。そんなことを考える俺に母親が切り出したのは、予想通り金の話だった。
「生活費を振り込んでいるのに全然使っていないでしょう? 前に帰ってきたときも言ったけど、いい加減意地を張るのはよしてちょうだい」
 この家のローンはもう残っていない。家賃がかからないから俺の稼ぎでも暁人の学費が出せるし、二人分の生活費だって余裕だ。前話したときと大体同じようなことを返す。母親は海外赴任が長いせいで、日本人であるはずが日本語の発音が若干怪しくなっていた。さ行とた行が英語のように聞こえる。まるで宇宙人のように思えてしまう。
「あなたに働かせなければならないほど、うちは困ってないのよ? 大学だってあなたさえ行きたいと言えば私立でもよかったのに」
 確かにこれは俺の意地だ。ハウスキーパーを嫌がったのも弟の学費を払うと決めたのも俺。手が足りないなら金で解決するしかなくて、親はそれを持っていて、俺がそれを拒否した。こいつらにしてみれば、何故だか子供が無駄な苦労を背負って外聞が悪い、といった感じだろう。
 やっぱりこいつらと喋るのは嫌だ。みじめになる。
 母親は更に、「もう暁人も高校二年生でしょう。進路の話をしておきたくて」と言った。口には出さないけれど、俺のことは失敗だったと思ってるんだろうな。失敗を繰り返さないために、今日は帰って来たのだろう。
 鼻がつんとした。爪が手のひらに食い込む。痛いな、と他人事のように思った。
 すると、それまで黙っていた暁人が軽い調子で口を開いた。「俺、大学とか行く気ねーけど?」何を今更とでも言いたげな暁人は、呆れたような口ぶりだ。
「大学行ってまで勉強したいこととかねーもん。どっちかっつーと早く働きたいし。遊ぶのは高校までで十分」
 高校も別に遊ぶために行かせてるわけじゃねーよと突っ込みたくなったけれど、あまりにも当然みたいな態度でそんなことを言うので驚いてしまった。暁人と将来の話なんてしたことなかったな、と思い至る。きちんと考えてたのか、こいつも。
 けれど両親は納得いかないらしく、就職するにしたってせめて大学くらいは行っていないと、とか、もう少しじっくり考えても、とか、いかにも子供を心配する親のような顔をしてみせる。
 俺はもう蚊帳の外か、とぼんやり思っていたら、予想外の方向から刺された。
「ほら、お兄ちゃんみたいなお仕事にしか就けないのは困るでしょう。人様においそれと公言できる仕事でもないし」
 ざっくりと抉られた。他人に言われるのはいいけど、やっぱり家族に言われたくはなかった。俺だって分かってる。どんなに自分の気に入った仕事でも、プライドがあっても、こういう仕事に眉をひそめる人はいる。でも、だからと言って親にまで否定されたくはなかった。
 身内がこういう仕事だと、やっぱり恥ずかしいよな。半ば諦めの気持ちで俯いた。言い返す気力も無かった。けれど突然胸倉を掴まれて、無理やり上を向かされる。「おい、なに下向いてんだバカ」僅かに滲んだ視界に入ってきた弟が、俺のことを見ていた。
「なあ、あんたら俺の兄貴いじめて楽しい?」
 妙に静かな声だけど、分かる。今、こいつは怒ってる。感情を爆発させるような怒り方が常の弟が、こんな風になるのは珍しかった。珍しいというか、もしかしてこんなの初めて見るかもしれない。
「俺をダシに兄貴をコケにすんのをやめろ。俺はこいつの職業を周りに隠したことなんてない。恥ずかしいと思ったこともない。んなくだらねーことでバカにしてくる奴がもしいたら俺が殴ってやる」
 きっぱりとした声だった。両親も流石にまずいことを言ったと思ったみたいで、一般論として仕方ないことだからと言葉を濁す。暁人はそれに舌打ちをして、言い足りないのか大きく息を吸った。
「こいつは、少なくとも俺にとってはかっこよくて優しくておまけに酒まで作れるすげー兄貴なの。遠足の日の弁当作ってくれたのも授業参観に来てくれたのも入学式の準備一緒にしてくれたのも全部兄貴だった。一般論なんざ犬にでも食わせとけよ」
 腕を引かれる。いつの間にか暁人は立ち上がっていて、その足は玄関に向いていた。「ちょっと、どこに行くの!」母親の声を煩いと一蹴して、暁人は最後に心底愉快そうな声をあげる。
「いい機会だから言っとくけど! 俺はな、あんたらが他人に一切自慢できねーような、兄貴と同じ職業に就きたいって思ってんだよ!」
 ざまーみろ、という捨て台詞が聞こえていたかどうかは分からない。玄関の扉が大きな音を立てて閉まったからだ。俺はただ、弟の後をついていくことしかできなかった。いつもちょこまか俺の足元にまとわりついていたのが何十年も昔のことのようだ。弟はもう、俺と背丈もそう変わらないくらいに成長していた。
 俺たちはしばらく無言で歩いた。誰かが追いかけてくる気配は無い。五分ほど歩いて到着したのは公園で、夜ということもあって人っ子一人いなかった。そういえばここは昔、暁人がまだ小学生にもならないような頃によく一緒に遊びに来た公園だということを思い出す。
「……感動しちゃった? 泣いてもいいぜ」
 どかっとベンチに腰を下ろして笑った弟に、やっとの思いで「な――泣くわけねーだろ、子供じゃないんだから」と呟く。「あっそ」と軽く相槌を打った弟は、少し残念そうに見えた。
 本当はちょっとでも油断すると涙がこぼれそうだったけど、そこは兄の矜持がある。かっこつけさせてほしい。こんな俺のことを「かっこいい」と言ってくれた弟の前くらいでは。
「し……知らなかったんだけど。お前が、バーテンダーやりたいとか」
「言ってねーもん。でもほら、兄貴の店の店長さんには前から言ってた。高校卒業したら修行させて、って」
「聞いてねーけど!?」
「だーから言ってねーっつってんだろポンコツ」
 まあもうちょいちゃんと考えろとは言われたけど、となんでもない風に笑う弟。俺は心の中でオーナーに感謝した。よかった、いいよいいよって簡単に言うひとじゃなくて。
 俺はこの仕事が好きだけど、弟に勧められるかと言ったら正直微妙だ。世間の目が厳しい仕事だから。
「お前……なんつーか、金のこととか気にしてるんだったらそういうのやめろよ。別にあいつらの肩持つわけじゃねーけど、大学くらい行かせてやれるし」
「大学行っても勉強したいことねーんだってば。俺は大学に行きたくないわけじゃなくて、仕事がしたいの」
「いやでも、なんでわざわざ水商とか……」
 自分で自分の仕事を貶めるようなことを言ってしまって少し後悔。弟はバシッと俺の背中を叩いて、「聞きたい?」と目を細めた。小さく頷く。
「お前がさ、しんどい眠い言いながら毎日楽しそーに働いてるから。だからいいなって思ったんだよ」
 ああでもずっと雇われてんのもイヤだからいつか店持ちたいよなあ、なんて気軽な調子で言う暁人。なんだろう、今すごく『報われた』って思ってる。頑張ってきてよかったって思ってる。そんな風に思わせてくれた弟の頭をそっと撫でた。髪が乱れるだろと怒られるかと思ったのに、そいつは満足そうに俺の手を受け入れた。
「自分の店欲しいとか、ますます勉強できねーと無理だろ……」
「え、マジで?」
「経営とか税金とか色々、あるじゃん」
「はー。まあそういう勉強ならやるのもいいなって思う。なんだろ、経理ってやつ?」
 ふわふわかよ。そんな認識で自営業目指してたとか恐ろしいな。
「兄貴は? 自分の店持ちたいとか思わねーの?」
「それは、まあ……」
 思わなかったわけじゃない。でも、商売は博打だ。大学に進学するかもしれない弟がいるのに、何のセーフティネットも無しに始められることではなかった。別に諦めたというわけではないから、この生活が落ち着いたらいつか俺も、とは思っていたのだ。やっぱり、自分の城を持つのはこの世界の人間にとって夢みたいなものだと思うから。
「一人じゃ大変だろうしさ、人雇ったら売上パクられるかもしんねーし、お前が店やるときは俺が手伝ってもいいよ」
 感極まってしまって、言葉が喉に詰まって出てこない。今までやってきたことは無駄じゃなかったって思っていいよな? だって俺の弟、こんなに立派に育ってる。
「お前は……お前のことだけ、考えてればいいんだよ」
 ようやく絞り出せた言葉は強がりのように聞こえてしまって、弟はそれに「いや、俺はいつでも俺中心だからな? 言われなくても」と笑う。その笑顔に安心した。
 突然飛び出してきて親は心配してるかもしれないけれど、もうちょっとだけ、この幸せを家族の隣で実感していたいな、と思う。
 夏の夜は蒸し暑かったけれど、それでも穏やかに過ぎていった。

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