羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 十五夜だから月見酒をしよう、と同居の友人から誘われたので、ちょっと奮発してコンビニとかではなくきちんとした酒屋で酒を買って帰った。
「わ、随分しっかりしたの買ってきてくれたんだね」
「たまにはな……特別な感じしていいだろ」
 二人分の酒を注ぐのは、以前買い物に出たときに露店で売られていた江戸切子だ。透き通った硝子に青と緑の差し色が入った模様が太陽の光を反射してとても綺麗で、買う予定なんて無かったのについ手に取ってしまった。
 セール品、との文字がちらりと見えたがそれでも衝動買いするには少し悩む値段で、しかし「あらぁ! 若い子が見にきてくれるなんて珍しい!」と店番をしているらしき婦人が大層喜んだ様子で更なる値引きまでしてくれたので、思い切って買ってきたのだった。
 割らないように、といつもより慎重な足取りで帰る途中、自分が当たり前のように二人分の商品を購入してしまったことに気付いて少し寒気がしたのも記憶に新しい。
 行祓は「わー、きれいだね」とまたいつもの掴みどころのない笑顔で江戸切子の模様を眺めている。酒が並々と入ったそれは光の加減でゆらゆらと揺らめいて、店頭で見たときよりも一層綺麗に見えた。
 最近は、何を買うにも何をするにも、「二人分」を考えることが多くなった。
 ルームシェアを始めてからもう二年近く経つのだから、そんな感覚も特別おかしいことではないのかもしれない。けれど、以前なら絶対に断らなかったような女子からの誘いに、あまり気乗りしなくなったのもまた事実だ。
 こいつと二人で過ごす時間は、とても貴重で、穏やかで、優しい。
「ねぇまゆみちゃん。酒のつまみこんなもんでいい?」
「ん、十分。うまいよ」
 行祓は俺が言葉を尽くさなくても笑ってくれるし、無理してテンションを高く保っていなくても許してくれる。自然のままでいられるこいつの隣は、心地よかった。


 このくらいの季節になると蝉の声はすっかり鈴虫やこおろぎの声に変わる。ベランダの窓を網戸までまとめて開け放った。吹き込む風がひんやりと気持ちいい。ぼんやりと白く淡く空に浮かぶ月は、心なしかいつもより大きく見えた。
「んー、涼しい。こないだまであんな暑かったのに」
「気が付いたら寒くなってんだよな」
「すぐ洗濯物が乾きづらい季節になっちゃうね」
「まあそればっかりは仕方ねえよ」
 ルームシェア中の家事の分担は、こいつが料理で俺が掃除と洗濯。料理を毎日作るのはとても大変だろうと思うから、この分担に不満は無かった。掃除は好きだし、洗濯物を干すときに皺を伸ばしながらハンガーにかけていくあの地味な作業も好きだ。
 それに、行祓の料理が毎日食べられるのはこれ以上ない役得だと思っている。
 恥ずかしいことを考えながらも着々と月見酒の準備を進めていく。とは言っても俺がするのは配膳くらいのものなのだが。今日は日本酒がメインなので、つまみは魚が多めだ。
 全てが綺麗に整って、そいつが珍しくそわそわした様子で江戸切子の模様を指先でなぞる。そんなに早く飲みたかったのだろうか、と思いグラスを軽く持ち上げて「乾杯」と言うと、眉が下がった笑顔と共に「乾杯……と、お誕生日おめでとう」なんて返ってきた。
「……え、」
「二十歳でしょ。おめでとう、まゆみちゃん。ちょっと遅れちゃったけど」
 去年は祝えなかったから、と控えめに笑う行祓。そうだ、去年は大学でよくつるむ奴らに祝ってもらって帰りが遅くなって、家に着いたのは日付が変わってからだった。誕生日を祝ってもらってた、と言ったときに、「来年はおれにも祝わせてね」と残念そうにこいつは言ったのだ。こんな些細なことを一年経っても覚えてくれていたとは思わなかった。
「おれ、誰かを祝ったりとか結構好きでさ。……にしても月を見ながらっていうのは、ちょっと張り切りすぎたかも」
 珍しく気恥ずかしげな様子の行祓。こんな風に祝ってもらえるとは思っていなかった俺は、なんというか普通に感動していた。祝うのがちょっと遅れた、というのだって、きっとこいつは気を遣って日をずらしてくれたに違いない。現に俺は、誕生日当日に去年よりも更に人数の増えた面子に祝ってもらって、また日付が変わる頃まで帰ってこなかったのだから。
「あ――ありがとう。俺、覚えててもらえると思ってなかった」
「普通に覚えてるって。忘れるわけないじゃん」
 なんでもないことのように「忘れるわけない」なんて言えるこいつはすごい奴だ。いつもこいつには嬉しいことを貰ってばかりで、これまでに降り積もったそういう「嬉しいこと」のお返しをできていない気がして申し訳ない気持ちになる。
 なんとなくそれを誤魔化すように酒に口をつけると、ふわりと柔らかい香りが鼻を通り抜けていって、なるほど高いだけあるといった味がした。居酒屋で飲むようなものとは違う。行祓も、「あ、これおいしいね」なんて笑っている。
「……来年は、まっすぐ帰ってくるから」
「え?」
「来年の誕生日は、当日に祝って」
 だめ? と言うと、行祓は嬉しそうな困ったような、なんとも言えない表情をしてみせた。
「まゆみちゃんの友達に妬かれちゃうね」
「なんだよそれ」
「女の子に怒られちゃうかも。『敦を独り占めするなんてずるい』とか言って」
 鯖の西京焼きを箸で丁寧にほぐして口に運ぶそいつ。俺は、ああこいつは俺の下の名前もちゃんと覚えてるんだな、なんて場違いなことを思っていた。初めて聞いたかもしれない、行祓の舌に乗った自分の名前はなんだかくすぐったい。
「お前が逆に気を遣うっつーなら、別に当日じゃなくていいけど……」
「や、正直嬉しいから当日祝わせて。ありがとう」
「祝う側がなんでお礼言ってんだ」
「だってまゆみちゃんがこういうこと言ってくるのってレアだよ。いいことありそう」
「ばかじゃねーの……」
 いいことありそう、なんて。俺は現在進行形でいいことばかりだ。
「あ、やばい月隠れそう」
「えっ」
 見上げると確かに、どこからか流れてきた雲に月の光が翳っていた。
「月に叢雲って言うもんねぇ」
「まあ、今日は結構風強いし……そのうちまた見えるようになるだろ」
「そうだね。じゃあしばらく食べることに集中しよっか」
 来年の約束なんてばかばかしい。確かに、いつもの俺ならそんな風に思っていただろう。けれど、こいつだったら遠い約束でも大事に持っていてくれるような気がして、俺はそれに賭けてみたくなった。
 料理を口に運ぶと、白味噌の甘さが舌に優しい。当たり前みたいにこいつと一緒に食事を共にするのもようやく慣れた。
「……俺もお前の誕生日祝っていい?」
「あはは、なにそれいちいち許可いるの? 祝ってもらえるなんて嬉しい」
「俺は、お前みたいにこんな、ちゃんと料理作ってお祝いとかはできねえけど……」
「まゆみちゃんが料理までできるようになっちゃったらおれのすること無いじゃん! いいんだよ、祝いたいって思ってくれただけでおれは嬉しいんだから」
 そいつはにこにこと嬉しそうに笑って、ちびり、と酒を飲む。
 それからは暫く静かに酒と料理を味わって、けれどその沈黙はけっして嫌なものではなくて。無理して喋らなくてもいいのだと思えるこの空間がとても大切だということを改めて実感する。
 半分ほど料理を食べ進めたとき、俺は肝心なことを行祓に伝えていないということに気付いた。慌てて顔を上げて、そいつも何故か俺を見ていたようで目が合ったのでその勢いのままに言う。
「俺も、お前に祝ってもらえるの嬉しい」
 言い切って、見つめ合っているのが恥ずかしくて窓の外に視線を逸らすと雲に隠れていた月がまた姿を現したところだった。「やっぱりきれいだ」月に対する言葉だろう囁きが落ちたので、何が「やっぱり」なのだろう、と思ってそいつをちらりと見たのだけれど。
 ふわふわとあまりにもそいつが嬉しそうにしているものだから、そんな些細な疑問はまあいいか、と俺は夜空に浮かぶ月を横目に食事を再開させる。
 江戸切子の中の水面がまぁるく蛍光灯の光を反射していて、ここにも月があったんだな、と俺はそれを一気に飲み干した。

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