羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 清水は俺の煙草を吸って一口目でむせた。けほけほと咳き込んで、「まっずい」と失礼すぎることを言った。勿体ねえ。やらなきゃよかった。
「文句あんなら返せテメー」
「もんくじゃなくて感想」
 死に急いでるあじがする、とため息をついてそいつは笑った。今度は嫌味っぽくない笑い方だった。
「返せっつーなら返すけど、他人の吸いかけとかいやでしょ。代わりにチロルチョコ買ってこようか?」
「なんでこのクソ暑いのにチョコ食わなきゃなんねーんだよ」
「たばこ一本ぶんのもの、ほかに思い浮かばなかった」
 そいつはもう一度煙草を咥え直して目を伏せる。暫く考え込むようにしていたが、「やっぱまずい」とまた空咳をした。俺は仕方なく、ポケットから携帯灰皿を取り出してそいつに示す。ふらふらとした頼りない足取りで近づいてきたそいつは、つまみ上げた灰皿を物珍しそうに見た。
「ごめん、ありがとう」
「むやみに灰落とされたくねーだけだし。不味そうに吸うくらいならさっさと消せ」
「アハハ」
 おいなんで笑った? 喧嘩売ってんのかこいつは。
 抑揚のない笑い声は無感情にも、必死で感情を押し殺そうとしているようにも聞こえた。あー、こんなこと考えてる自分が嫌だ。俺、実は割と繊細な心を持ってっからね。こういうのはどうしても気分が沈む。だからと言って黙って話を聞いたり優しく慰めたりすんのもガラじゃねーし。ちなみに前者は万里で後者は大牙だ。
 ぐっ、と煙草を灰皿に押し付ける仕草がそいつは妙に丁寧で、おかしな奴だなと場違いなことを思う。
「ほんと、突然ごめん。ここで会ったのは偶然なんだけど、由良なら色々おしえてくれるかもって思って声かけた」
「は? 何が」
「授業のサボり方とか……?」
「んなことにもハウツー欲しいのかよ、ゼータクだな」
 悪い子ってやつになってみたいお年頃なんだよとそいつは笑って、ああ待って、由良が悪いってわけじゃなくて、と雑なフォローを入れてきた。心底いらねーわそのフォロー。
 まあ、煩くはないので追い払おうとは思わない。俺が危害を加えたりしないという当たり前の事実にそいつは今更気付いたのか、俺が灰皿をしまった後も離れていくことはなかった。お互いに手を伸ばせば物の受け渡しができるくらいの距離を保って、俺と同じように校舎に体を預けている。
「……嘘をつきました」
「なんだよ突然……」
「だからさっき『突然ごめん』って言ったじゃん」
「今のとさっきのとじゃ意味が違うだろーがハゲいい加減にしろよ」
 のらりくらりとしたつかみどころの無い態度に、やっぱり追い払ってやろうかこいつ、と考えを改めかけたところで清水は言いにくそうに口を開いた。
「はずかしながら、疎外感に耐えられなかった、ので」
 沈黙。嘘をついた、つまり、耐えられなかったっつーのがほんと? 何が嘘? 頭の中でそいつの言葉を咀嚼していると、「悪い子になってみたいお年頃ってのが嘘。由良が悪いとか言いたかったわけじゃないっていうのはほんと。ついでに言うと偶然会ったのもほんと。でも、授業のサボり方教えてもらいたくて声かけたってのは嘘」とご丁寧に解説してくれる。
「……別に恥ずかしくはねーだろ」
「え?」
「耐える必要無いんじゃね。知らねーけど」
 昼休みが終わるチャイムが鳴った。そいつは気だるげに笑って「なぐさめてくれんの。ありがと」と言った。教室に戻る様子は無い。……確か授業って三分の一以上欠席でダブるんだったか。二学期始まったばっかだしまだセーフだろ。
「授業出ないの?」
 少しだけ意外そうな表情だった。俺ってば雨の日に捨てられた子犬を無視できねータイプなんだよね。まあ冗談だし、未だかつてそんな状況お目にかかったことは無いが。その場に座り込んで、無言で五限は諦めたアピールをすると清水も同じようにコンクリートの地面に座った。日が翳ってきていい感じだ。
「ごめん、つきあわせて」
「いちいち謝んなウゼェから。暑くて授業出る気失せたんだよ」
 こいつは三日耐えて、四日目の今日で色々なことが無理になったのだろう。ちょっとくらいなら捌け口になってやってもいい。一人で抱えるのはしんどい。はっきり言って三日前まで名前も覚えてなかったようなクラスメイトだけど、そういう奴のが清水も後腐れ無いはずだ。
 俺も兄貴以外との家族仲はビミョーだし、家族に対する『違和感』みたいなものを持て余しているのは事実だから、あまり邪険にできないっつーのもここに残った理由だけど。ダチと話してるときとか、ふとした瞬間に話が噛み合わないことがある。他の奴らが当たり前に経験しているはずのことが自分の記憶から抜け落ちているのを実感する。俺は基本的に、親と何かをやったとか、そういう経験が希薄だ。
 別にそれを不幸だとか可哀想だとか思ったことは一度も無い。これはマジな話。兄貴がいたから大丈夫だった。その分兄貴は山ほど何かを犠牲にしたんだろうと思うけどそれを俺には絶対言わないから、俺は毎日楽しいですってツラで生きてく。そういう風に決めた。
 あいつが帰ってきたとき用に甘い物でも買っておくか、なんて考えていると、静かだった隣から小さい声が聞こえる。
「由良は、どうでもよさそうだったじゃん」
 隣を見たが、目は合わなかった。そいつは自分の上履きの爪先をじっと見つめていた。
「何がだよ。お前さっきから説明不足すぎるだろ、コミュ障か?」
「よく言われるわ。……ええと、俺の名字が変わったの、全然興味なさそうだったじゃん」
 いや実際興味ねーし。っつーか俺には無関係だし。
「だから、いいな、って」
 ダメだ、さっぱり分からん。というか伝える気あんのかこいつは? いくら温厚で有名な由良くんといえど限界もある。俺は苛立ちを隠すことなく、「清水は何が言いたいんだよ」とそいつの靴を軽く蹴った。わざと、名字で呼んだ。
「……そういうとこがいい。俺のこと名字で呼んでくれるとこ。変に気を遣われてもこまるから。なんだか悪いことしてる気分になる」
「言っとくけど俺がお前の名前ちゃんと認識したの三日前だぞ。だから今の名字で呼ぶのに抵抗無いだけじゃねーの」
「アハハ。そうかな。俺は由良の名前、入学式の日から知ってたけどね」
「へー。なんで」
「ゆら、って名字、いいなと思って」
 舌にやさしい、と訳の分からないことを言ったそいつは、満足そうに笑う。ちょっと得意気にも見えた。
「ワッケ分かんね……」
「発音がまろやかでしょ」
 耳にもやさしいねと呟いたそいつ。もう何もかも分からないがこいつが満足しているなら勝手にそうさせておけばいいだろう。俺も大概マイペースで大牙に呆れられることがよくあるけど、こいつも俺とは別ベクトルでマイペースだ。
「自分のはどうなんだよ」
「自分の?」
「名字」
「割とすきだよ。清らかな水ってマイナスイオンたっぷりで健康によさそう」
 自分の名字、と言われて迷わず今のものを答えるあたり、何度も何度もその名前を自分の中で消化しようとしたんだろうな、と感じた。俺としては清水より能登のがなんか珍しくてかっこよさげに思えるけど、確かにマイナスイオンなら清水の方が出ている……いや、やっぱよく分かんねえな。
 清水は何故か今の会話で気持ちが上向きになったらしく、表情が明るく見える。よし、これ以上こいつに対してムカつく必要はなさそうだ。毎日この世の終わりみたいな顔で教室にいられても気が滅入るしな。
「元気になった」
「そうかよ。オメデトーゴザイマス」
「由良のおかげ」
「それはたぶん違うだろ」
 勝手に俺の手柄にするんじゃねーよ。お前がお前の力で立ち直った。それだけの話だ。
 その後、せっかくサボったしぎりぎりまで何か話そう、と言った清水になんとなく付き合って三十分ほど過ごした。そいつのあまり抑揚のない喋り方は気分の浮き沈みとは関係ない部分だったらしく、それが物珍しくてもっぱら聞き役にまわった。どうやら外部生で、髪は名字が変わった記念に色を抜いたのだということが分かった。冗談みたいな本当の話だ。
「俺としては、『よーしがんばるぞ』って気持ちだったんだよね。心機一転ってやつ。名字も新しくなったし髪の色も新しくするかーって……まあ思いの外色が抜けすぎちゃったんだけど」
「はしゃぎすぎだろ。元々黒かったんだとしたらグレたとしか思えねー」
「アハハ。言われた言われた、母親に。んで新しい父親にそのことで謝ってんのも聞いた」
 こいつなんで反応に困ることばっかりガンガン言ってくるんだ? これなんて返事するのが正解だよ。万里辺りに教えてほしい。
「『あの子は昔から何を考えてるのか、母親の私にもよく分からないことがあって……』だってさ」
「だ……から、反応に困るんだっつの……」
「俺、この夏休みで兄と弟が一人ずつ増えたんだけど、その二人がなかよしでさ。父親から名前の漢字一文字もらってるんだって。家族の名前ぜんぶ並べたとき、間違い探しかな? って思った。自分の名前が」
「おい、お前わざとか? わざとだろ?」
 やばいのに捕まってしまった。なんで赤の他人の家庭事情、しかもかなりデリケートな部分に詳しくならなきゃなんねーんだよ。もし不幸自慢のつもりなら俺は今すぐ教室に帰るぞ。
「いや、周囲のひとが思ってるほど俺はかわいそうな状況なんかじゃないんだけど、一番身近なはずの家族に『よく分からない』とか言われる俺はそこそこかわいそうだなーと思うって話」
「お前夢見すぎ。家族だから何でも分かってくれるわけじゃねーだろ。血ィ繋がってなくても分かってくれる奴とかいたりするし。っつーかお前はまず突飛な行動をやめろよ、誤解されたくないなら」
「うわ、刺さるね」
「何がだバカ。分かってほしけりゃ努力しろ。ワケ分かんねー行動して『分かってもらえない』って当たり前だろとしか言えねーわ」
 言い切ってから後悔する。だってそれは俺にもできていないことだったから。俺は――まあ兄貴もなんだけど、俺たちは親との関係を放棄している。努力なんて最初からしていない。幸い、俺のことを適度な距離で分かってくれる奴が家族以外にいたってだけ。そんな奴が他人に説教ってドン引きだろ。あーあー、サイアクだ。
「……悪い、言いすぎた。っつーか俺が言えた話じゃなかった」
「なんで謝るの、かっこよかったのに」
「やめろ。あー、マジでやめて。自己嫌悪」
 もうダメだ、なんか調子が狂う。このまま午後全部フケて帰ってしまおうか。
 いやいや、何事も逃げてばかりなのはよくない、とすぐに思い直した。もしかしたら俺も、ちゃんと家族に向き合う必要があるのかもしれない。両親に対して何の感慨も無いと思っていたし兄貴にもそう言ったけれど、実は違ったのだろうか。
 俺はやっぱり兄貴のことが好きだし大切だから、その兄貴のあったかもしれない自由とか可能性とかを狭めてしまったであろう自分に対して思うところが無いわけではない。兄貴はそれもこれもひっくるめて、俺じゃなくて親に責任があると言ってくれてはいるが。
 きちんと聞いたことはないものの、もしかしたら大学に行きたかったかもしれないし、他になりたい職業があったかもしれない。あいつが水商売を選んだのは、きっと大学卒業まで待たなくても俺を養う費用が捻出できるようになるからなんだと思う。俺の面倒を見なきゃってことで特定の恋人は作ってないし、現時点で結婚はもっと無理。子供も無理。
 なんで八歳も離れてるんだろう、と思うことはある。この年齢差のせいで、あいつは一方的に俺の面倒を見ないとって考えてるふしがあるから。
「あー……なんだこれ。俺が落ち込んできたっつーの……」
「泣かないで」
「いや泣いてはいねーよ」
「先手必勝」
「だから意味分かんねーんだよお前は!」
 叫んだところで五限終了のチャイムが鳴る。なんだか凄まじく疲れた。にしても恐ろしいなこいつ、殴る気力も失せる。俺がこんな、他人の話おとなしく聞き続けるのって珍しいぞ。
「ほんとありがとう。もう元気。だいじょうぶ」
「あっそう……」
「由良は? だいじょうぶ?」
「あんまり大丈夫じゃねー……けど、大丈夫」
 俺は教室でのこいつを見ているときに、「自分が一番可哀想ですってツラしやがって」みたいなことを思ってしまったが、あいつみたいに自分の置かれた状況を見ないようにしているよりは大分マシなのかもしれない。それに何より、今はそんな目をしていないから本当に大丈夫そうだ。
 次の授業が科学だということを思い出し、どうにか少しだけ気分を持ち直した。学ランの汚れを払っている清水に、ふと気になって問いかける。
「なあ。その新しい兄貴と弟っつーのはお前といくつ違うの」
「えーと、兄が五こ上で弟が三つ下、かな」
 偶然にも、それは俺のところと同じく八歳差の兄弟だった。
 まあ、だからどうということはないんだけどな。

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