羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 安芸の体温が薬指と小指から離れていって、それをとても残念に思った。こんなに嬉しいことを言われて、外なのに思い切り抱き締めたくなってしまったけど今は我慢。今日は俺の家に遊びに来てくれる日だから、せめて玄関までは我慢しないと。
 安芸は歩くのがゆっくりだって分かっているのに、つい気が急いてしまう。俺は気持ちを落ち着けるために、さっきの安芸の言葉について考えながら返事をした。
「俺、単純だからさ」
「うん」
「嫌なことあっても、安芸の顔見ると忘れちゃうんだよな」
「はは、なんだよそれ」
「いやマジなんだって。お前本気にしてないだろ」
 ほんとに、声を聞くだけで元気になれるんだ。安芸の言ったことで一喜一憂できるし、どきどきするし、毎日楽しい。
 ……安芸もそうだったらいいのにな。
「なあ、アンタって割と分かりやすいよな」
「えっ」
「おれも、アンタと一緒だと楽しい」
 風にさらわれそうな囁き声だった。もう一回言ってもらおうと思ったのに安芸は恥ずかしかったみたいで、「ちょっと待ってて」と言って小走りにコンビニへと入っていってしまう。かと思えば真っ直ぐレジに向かうのが見えた。店内には入らず外で待つことに決める。
 時間帯がよかったのか一分と経たずに安芸はコンビニから出てきた。手にはテープで留められたお馴染みの包み紙。安芸がその紙を捲って台紙を剥がして、慎重に中の肉まんを半分に割るのを俺は黙って見ていた。
「こんな風に簡単に分けられればいいんだろうけど……なあ、一緒に食お?」
 包み紙のある方を俺に差し出してくれる安芸はやっぱりとても優しい奴なんだと思う。肉まんをこんなにきれいに半分こするのだって、きっと言うほど簡単なことではない。安芸が俺を思い遣ってくれているから、簡単だと思えるだけなのだ。
 安芸の指先が赤くなっている。俺は慌てて半分の肉まんを受け取ってかぶりつくと、包装紙を表側だけ破って安芸に差し出した。
「べつに火傷とかしてねえって」
「俺が心配なんだよ」
「はは、過保護」
 はにかむように笑った安芸に満足する。お互いの思っていることが全部齟齬なく伝わるわけはないけれど、それでもなるべく伝えたいし、伝えてくれればと思う。
 安芸は、もう後悔したくない、と言った。
 俺だって、今までもこれからも後悔なんかする気は無い。
 ほかほかと湯気を出す肉まんが外気に晒されて、飲み込むのにちょうどいい温かさだ。隣をうかがうと安芸はまだ肉まん相手に悪戦苦闘していた。安芸って、口が小さいからこういうの食べるの下手なんだよな。ほっぺたが膨らんでいるのがなんだか可愛い。普段のイメージとは違って幼く見える。
 うっすら出た安芸の喉仏が上下するのを見て、不意打ちでどきりとさせられた。安芸は全然意識してないんだろうな、って部分に反応してしまう自分が少しだけ悔しくて、俺はぼそりと呟く。
「……早く家着かねえかな」
 すかさず横から「なに、やらしーこと考えてる?」と言われて驚いた。独り言のつもりだったのに。でもよく考えたら俺だって安芸の声は小さくてもちゃんと耳に届くから、これが安芸も同じように思ってくれていることの結果なのだとしたらとても嬉しい。
 だから俺は、否定せずに安芸を見つめる。
「そうだって言ったら?」
「……おれも、って言っとく」
 とりあえず今は早くくっつきたい、と安芸はまた笑った。たくさん笑ってくれるようになったよな、と思う。きっと勘違いではない。冷めてるように見える目元とかももちろん好きだけど、ふにゃっと笑っているところがいっとう好きだ。好きなのに、他の奴にはあまり見せたくないと思ってしまう俺はあまり性格がよろしくないかもしれない。
 安芸はいい奴。誤解されがち、とか、みんな分かってない、とか、いかにも知った風な口をきいて、安芸のいいところを独り占めしたいと思ってしまう。みんなに知ってほしいはずなのに、分かっているのは俺だけでいい、なんて。矛盾している。
 そんな矛盾を抱えた自分も嫌いではない。だって、安芸のいいところをみんなに知ってほしいと思うのも、俺だけがいいと思うのも、こいつのことが好きだからだ。
「安芸、家に着いたら俺の話聞いてくれよ」
「は? 今じゃなくて?」
「ああ。聞きたいって言ってくれただろ」
 悪いことっていうか、俺の悪いところっていうか。ずるいところ、くらいのマイルドな表現にしても許されるかなと思うんだけど。
 俺が言葉足らずだったせいで、安芸が「何かあったの」と僅かに不安そうな顔をしている。いやいや、俺がどれだけ安芸のこと好きか聞いてほしいだけだから。あれ? これは全然悪いことじゃないな。やっぱりこいつと一緒にいるときに、悪いこととか嫌なこととかって思い出せない。
「ごめん、そういうんじゃねえから。とりあえず家着いたら安芸のこと思いっきり抱きしめる。そのつもりでよろしく」
「よ、よろしく……?」
 首を傾げる安芸に思わず顔がほころんだ。可愛すぎ。あと、手に持ってる肉まんもう冷めてそう。早く食えって。
 急かすのもな、と思ったので少し考えて「安芸、俺手繋ぎたいんだけど」とお願いしてみる。すると安芸は残っていた肉まんを口に放り込んでぱたぱたと手を払った。
 再び触れた手のひらはさっきよりも少しだけ温かい。
 周りに人がいないのをいいことに指を絡ませて、少しだけ速足になる。頑張ってついてこようとする安芸はやっぱり可愛い。また自分の悪癖をひとつ自覚する。
 お前のさ、俺のせいでいろんな反応してくれるとこ、マジで好きだよ。
 家に着くまでのあと五分、はたして俺はきちんと我慢ができるのだろうか、なんて思いつつ、こんなことをしている時点でもうまったく我慢なんてできていないのだと、当たり前のことに気付いて俺はにやける顔を抑えようと内頬を噛んだ。

prev / back / next


- ナノ -