羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 今日は早く帰ってこられる? と聞かれて、ちょっと難しいなと返すと少しだけ残念そうな顔をされた。じゃあ、明日は? と聞かれて、それなら大丈夫だと返すとたちまち嬉しそうな顔をされた。
 なので、俺はその日出社してすぐ、上司に拝み倒す勢いで「時間休を取得させてください」と言いに行った。実は早く帰れる保証なんて無かったというオチである。なんせ、潤があんな風に言ってくるのは今でも珍しいのだ。ああもあからさまに「早く帰ってきてほしいです」という顔をされると、どうにかして叶えてやりたくなる。
 直前の有給申請で、おまけに十七時半から十八時というふざけた時間を所望してしまったのだが、「残業がしたくないと素直に言え。明日以降で埋め合わせしろよ」と許可されたので上司の後ろ姿にこっそり手を合わせておいた。
 そして次の日。俺は、少しばかりそわそわしながら定時より三十分早い電車に乗って帰宅しているというわけだ。
 会社を出た直後潤に電話をしたときは、『あれっ想像してたよりずっと早い! もしかして無理させちゃった……?』と言われてしまって誤解を解くのに二分ほどかかったが。
 無理をしたというか、あいつの喜ぶ顔が見たかったというか。
 そんなわけであっという間に玄関前だ。鍵を開けて「ただいま」と言いながら扉を開けると、目の前に潤がいたので本当に驚いた。なんなんだ、もしかしてスタンバイしてたのか。いつからだ。
 潤はにこにこ機嫌よさそうに笑っていて、「おかえり」といつもより僅かに甘そうな声音で言う。いつもならここで一旦帰宅後の定番のやりとりは終わるのだが、今日はまだ続きがあった。
「えーと、えーと、……ご飯にする? お風呂にする? それとも……おれのこと選んでくれる?」
 なんだこいつ今すぐ抱きしめてやろうか。
 ああ、これがやりたかったんだな、と俺は合点がいった。と同時に、こんな台詞ひとつ取っても個性というか、性格が出るなと感心してしまった。ほんのりと耳元を赤くさせて、自分で言ったくせに既に恥ずかしさで後悔していそうな表情だ。でも、言ってみたかったんだろうなあ。語尾にかけて声が弱弱しくなっていってしまったところなんて、いじらしいにも程があるだろ。
「……な、何か反応してよ孝成さん……おれ、かなり恥ずかしい思いをしてるよ。今すぐ逃げたいくらいだよ」
「あ、悪い。可愛くて驚いただけだから逃げんなよ」
「うぅぅ、調子に乗らなきゃよかった」
 どんどん調子に乗ってくれていいぞ、こういうのなら。
 とまあ、流石にそれは口に出すのは堪えたが、俺はさてどうしようかと逡巡する。こいつのことだから、料理も風呂も準備万端なはずだ。となると。
「最初は飯だな。一緒に食おうぜ」
「ん、うん」
「で……次は風呂。久々に二人で入るか」
「え? えっと」
「最後はお前」
「うぇ!? え、孝成さん」
「最後までとっとくといいことありそうじゃねえ? 違ったか?」
 潤が俺のためにしてくれること、ひとつも取りこぼしたくねえしな。それに、こういう言い方をされて、期待をするなというのも無体な話だ。俺は思う存分期待してていいんだろ、きっと。まあ、今の反応を見る限り、本当に言ってみたかっただけでその後の展開は想像もしていなかった可能性も無きにしも非ずだが。
 潤は顔を赤くして狼狽えたものの、物理的に逃げ場が無いことを悟ったのだろう。恥ずかしそうに唇を尖らせて「今日はチーズハンバーグ……」と言う。
「いいな。ほら、行くぞ」
「ん……孝成さん、変なことしてごめん」
「なんで謝るんだよ。俺、かなり嬉しかったぜ。ベタだけどいいよな」
 頭を撫でてやると、潤はおかしそうに笑って体の半分をこちらにくっつけてきた。
「よく考えたらこれ、選ぶようなものじゃないね。お風呂だけじゃお腹すくし、汗かいたまま寝るのやだし」
「それもそうだな。じゃあ全部選んだ俺も、怒られたりはしないだろ」
「うん。……孝成さんは、おれが考えてたのよりずっと嬉しいこと言ってくれる」
 嬉しい、の内容が聞きたくて続きを促してみると、潤はまた気恥ずかしそうな様子を見せながらもぽつぽつと喋る。
「おれのおふざけに付き合ってくれるだけでも嬉しかったし、おれのこと選んでくれるかなってちょっと期待してた、から」
 その後のことは考えてなかったからびっくりしちゃった、とそいつがへらりと照れ笑いする。俺はいよいよたまらなくなって、「今なら『その後のこと』も想像つくだろ?」とからかってみた。すると、また赤くなるかなという俺の予想は見事に外れて、潤は悪戯に成功したような顔をして俺の耳元で囁く。
「――嘘。ほんとは、やらしーことちょっと考えてた」
 してやられた。今度は俺が照れる番だったらしい。
 想像しててもいざさっきみたいに言われると頭真っ白になっちゃうね、と同意を求められたので、そうだな仕方ないよな、と深く頷く。俺たちはキッチンへの短い道のりを、存分にいちゃいちゃしながら歩いたのだった。


「そういえば、なんで昨日だったんだ?」
「え?」
 早く帰れるか聞いたのが昨日だったのには何か理由があったのか気になって、俺は湯船の中から潤にそう問いかけた。潤特製のチーズハンバーグは、綺麗に胃の中に収まって幸福感を与えてくれる。
 ボディソープを泡立てていた潤はほんのわずかに言いよどんで、「あの、ほら、昨日はいい夫婦の日だってテレビで言ってたから……」と小さな声で言う。風呂場の中なので、小さい声も十分すぎるくらいに反響して耳に届いた。
 二人用の広い部屋に引っ越してきてから、潤は昼間の時間を時折テレビを観るのに使っているようだった。おそらく、昼のワイドショーか何かで特集されていたのだろう。
「でもね、今日でよかったなーと思って。ほら、今日は勤労感謝の日だから。孝成さんに改めて、いつもお仕事ありがとうって感じで。夕飯いつもより一品多かったでしょ?」
「確かに。っつーかマジかよ、ありがとう。どっちにせよめちゃくちゃ嬉しい」
「えへへ……よかった。日頃の疲れを癒さなくちゃね」
 なるほど、だから今日は色々なところで少しずつグレードが高かったのか。今俺が浸かっている湯船も、ゆずが浮かんでいてとてもいい香りがするのだ。いつもより体がぽかぽかしている。
「この後は何があるんだ?」
「んー、それはお風呂あがってからのお楽しみ?」
 潤が浴槽の縁に肘をかけて、ちゅ、と頬にキスしてくる。半ば分かっていて聞いた俺も意地が悪かったが、こいつもこうやって生殺しにする気ならおあいこだろう。楽しそうで何よりだ。
 とはいえキスまでされてこのまま、というのも男として大いに試されている気がする。俺は今まさに体を洗い始めるかという潤の腕を肘から上にそっと撫でて、「洗ってやろうか?」と言ってみた。
「…………孝成さんのえっちー」
 ふにゃふにゃした笑い方とくすぐったそうな幸せそうな表情に俺はとても満ち足りた気分になって、「まあ、俺も男だからな」なんて適当なことを言いつつ、体を肩まで湯船に沈めた。
 ベッドの上ではどんな表情を見せてくれるのだろう、なんて、思春期のガキみたいにどきどきしながら。

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