羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 それから、三十分ほどかけて皿の上を綺麗にする。空腹も満たされて、まだ日付が変わる時間には程遠いもののそろそろ帰った方がいいだろうか……と思い始めた頃、おれはふと誰かの視線を感じた。
「……?」
「万里どしたの? あー、ワックス殆ど取れかけてんね。お前髪質しっかりしてっからなー」
 言われてみれば、確かに暁人が整えてくれていた髪は元通りになっている。が、おれが今気になっているのはそこではない。一体なんなんだ、と思っていると、タイミングを見計らったかのように店の奥へと続く半開きになっていた扉がこちら側に向かって開く。
「え、けい兄ちゃんどうしたの。いつもは絶対出てこないのに」
「ああ? 人を引きこもりみたいに言ってんじゃねえよ。食後の飲み物いるかと思って来てやったんだろうが」
 大牙の声につられて今しがた扉を開けた人物を見上げると、びっくりするくらい恰好いいひとがそこにいた。
 暁人も、珍しく口をつぐんでそのひとのことを見ている。服装は、店の制服なのだろう、大牙とほぼ変わらない。白いシャツに黒いベストにスラックス、腰から足元までのエプロンだ。ただ、腰の位置が高いのか若干エプロンが寸足らずになっている。
 淡い、ミルクティーにキャラメルを溶かしたかのような色合いの茶髪にメープルシロップ色の瞳。くっきりと行儀よく並んだ睫毛に縁どられた目元はほんの少しだけ印象がきつめで、それがそのひとの柔らかな色合いにアクセントを加えていた。
 神様が、顔のパーツひとつひとつをどう並べようか昼夜悩み抜いたのではないだろうかと思ってしまうほどに、ぴったりのものがぴったりの場所に配置されている。
 明らかに、飲食店よりはモデル事務所にでも居た方がしっくりくる。そのひとの、こちらを見る瞳が細められて僅かばかり悩ましげに寄った眉がまた、なんとも言えずうつくしい表情を作り出しているなと思った。
「――なあ、お前」
 低く、口に含めばきっと甘そうだと思える声だ。けれど不思議と近寄りがたい雰囲気がある。甘くて柔らかいものだけで構成されているのに、完成したものは鋭い刃物だった――というような、絶妙な危うさがそこにはあった。
「……おい、聞こえてるか?」
 おれは、その言葉の意味にようやく思い至る。
 ――待ってくれ。今、呼びかけられたのはおれなのか?
「えっ、す、すみません。あの」
 何か気付かないうちに失礼をはたらいていただろうか。食事のマナーは、恥ずかしくない程度に躾けられているはずなのだが。
 狼狽えているおれを見てその人はどう思ったのだか、言葉を選ぶのに悩んだ様子だった。ふう、と軽くため息をついて、「あー……悪い、なんでもねえ」と声を落とす。
「……。お飲み物はいかがなさいますか?」
「嘘でしょ、この流れでなんで突然敬語? ぜんっぜん意味無いよけい兄ちゃん」
「うるせえな、予定が狂ったんだよ」
「さっきまで思いっきりタメ口だったじゃん……兄ちゃんってたまに変だよね、基本的に変わってるけど」
 どうやら、おれが大牙の友人だからというわけではなく、他に何かあの呼びかけの理由はあったらしい。気になるが、きっと今日はもう言う気は無いのだろうな、とも思う。
 すると、珍しくずっと黙っていた暁人がようやく動きだした。「ねえ、ケイ――お兄さん? ケイさん?」と僅かにその名を呼びあぐねた様子で声をあげる。
「あ? なんだよ」
「給食のおばさんって言ってごめんなさい」
「給食……?」
 首を傾げている店長さんと、謝ったことで満足したらしい暁人。どうやらここの店長さんは些細なことなら流してくれるひとだったようで、「……高槻」とだけ短く言った。
「たかつき?」
「名前。高槻敬吾」
 好きに呼べ、とまた端的に言葉を並べて、その視線がちらりとこちらを向いた気がして緊張する。心臓に悪いひとだ。
「好きに呼んでいーんすか」
「気に食わなかったら直させるからな。お前ら大牙の友達だろ」
「そっすね。俺は幼馴染でもありますけど。じゃあどーしよっかな……高槻サン、で」
「……男相手じゃどう呼ばれようが大して変わんねえな」
「あはは! 確かにそーかも。俺は、暁人です。由良暁人」
 暁人のとってつけたような敬語は早々に崩れかけていたが、使おうと思えば使えたんだな……ということに失礼ながらまず驚いてしまっておれは沈黙する。というか、出会って三秒で問題なく喋れるのが凄い。
「おい、飲み物何がいい?」
「酒で!」
「あと四年待てよクソガキ」
「ここの店員サン揃いも揃って客に暴言吐いてくんだけど……」
 大牙の服の裾を引っ張る暁人を見て、店長さん――高槻さんは、「今日は飯代いらねえ。ジュース飲んで早めに帰れ、奢ってやるから」と微かに笑って暁人の髪をくしゃりと撫でた。笑うと、厳しそうな雰囲気が一気に和らぐ。
「ちょっ、崩れる! 完璧なセットが崩れる! でもあざっす、ごちそーさまです!」
「どうせ明日には持ち越せねえやつだし気にすんな。それより、早く飲み物選ばねえと強制的にオレンジジュースになるぞ」
「待って! りんごジュースにしてください!」
 ドリンクカウンター下の冷蔵スペースからパックのジュースを取り出して、氷の入ったコップに並々と注ぐ高槻さん。なんというか、年下の扱いに手慣れている感じがする。弟か妹でもいるのかもしれない。
 ぼんやりしていると、「お前は?」と聞かれたので「……ウーロン茶があれば、それでお願いします」とおそるおそる返す。完全に自己紹介をするタイミングを見失ったのだが、高槻さんはまた、少し間を置いて不思議なことを言ってきた。
「……お前は特に早く帰れよ」
「え?」
「心配するから」
「は、はあ……」
 どうしよう、言葉少なでうまく意図が読み取れない。一体誰が心配するという話だろう。家族を指しているのなら、おれだけ言及されるのは変に思える。
 どこかで会ったことがあるだろうか、と考えてみても、こんなひと一度会ったら余程のことが無い限り忘れないだろう。なんとなく怖そうな雰囲気が伝わってきて思わず萎縮してしまう。おれはあまり喋るのが得意ではないので、相手も口数が少ないようなひとだとどうすればいいか悩んでしまうのだ。
「あの……お気遣いいただきありがとうございます」
「別に」
「それと、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
 高槻さんはおれの言葉に嬉しそうに笑ってくれて、そのことに内心ほっとする。せっかく気遣ってもらったのだからと、おれはコップを空にしたら早々にお暇しようと席を立った。


 どうやら暁人は駅までついてきてくれるつもりらしく、大牙が「珍しいね」と驚いていた。高槻さんに改めてお礼を言って店の外に出ると、暁人は扉が完全に閉まった音を聞くやいなや「すごかったなーさっきのイケメン」と階段を一足飛ばしに下りながら言う。
「あー、まあ、けい兄ちゃんが面倒臭がって人前に出てこないのって、応対が嫌だかららしいし」
「うわ、確かにあの顔じゃ周りに色々湧きそー。なんだろ、美形とかともちょっと違う感じ。『女うけよさそう』な顔だよな」
 おれは無意識のうちに深く頷いていた。あのひとの外見をどう表現すればいいか迷ったのだが、「女性に好かれそうなルックス」というのが一番ぴったり当てはまる気がする。対異性特化というやつ。天照大神って、女のひとだったんだっけ? ああいう顔が好きなんだろうか、神様も。
「っつーか万里、あの人と知り合い? なーんか向こう、お前のこと知ってそうだったけど」
「いや、それがまったく心当たりが無くて……」
「万里のお家ってこの辺りじゃないから、近所で見かけたってこともなさそうだしね……気になるなら俺が聞いとこうか?」
「うーん、大丈夫。ありがとう。今日のお礼も改めてしたいし、自分で聞いてみるよ」
 駅前で二人にも今日のお礼を言って別れる。夏休み初日は、とても濃い一日となった。念のため母親に連絡をすると、『気をつけて帰っていらっしゃいな』となんともあっさりしたもの。おれが言うのもなんだが、大丈夫だろうかこのひと。
『随分と嬉しそうだけれど、何かそんなにいいことがあったのかしら』
「そ、そんなに分かりやすかった? うん、いいことばかりだったよ」
『それはよかった。迎えは要るかしら? 要るなら車を一台出すけれど』
「電車で帰ります。大丈夫」
 声だけではしゃいでいるのがばれてしまって恥ずかしかったので、会話もそこそこに電話を切った。夜になってもまだじっとりと暑かったが、それとは関係なく興奮で頬が火照るのを感じる。
 知らない世界だった。初めてのことばかりだった。
 特に、セツさんと言葉を交わしたあの数分は心が浮き立つのを自分でも感じた。どうしてだろう。セツさんの言っていた通り、いけないことをするのは楽しいのだろうか。そう考えると少しだけ怖くもある。
 けれど。おれのためにグラスやシロップを選ぶ指先や真剣な横顔が鮮明に思い出されて、心地よさと気恥ずかしさで口元が緩んでしまう。あの数分間はおれのためだけにセツさんの腕がふるわれたのだと思うと、自慢してしまいたくなるほどだ。
 いつか彼のつくったお酒を飲んでみたい。
 そんな思いあがった願望を抱いてしまう程度には、すっかり浮かれてしまっていた。セツさんなら「いいよ」と笑って許してくれそうな気もして、そんな風に勝手な想像をしてしまうことすら、今のおれにとっては楽しかった。

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