羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「万里、土曜休んだんだってね。体調悪かった? 大丈夫?」
 休み明けの月曜日、おれは登校早々そんな声によって呼び止められた。振り向くと、そこには竹刀袋を肩から提げた人物がひとり。
 彼は城里大牙といって、同じクラスの友人だ。幼い頃からずっと剣道を続けているらしく、まだ一年生ながら部活の団体戦ではメンバーに選ばれるほどの腕前である。おれの所属する弓道部とは練習場所が隣同士で、入学して初めての席替えで座席が近くなったのをきっかけに仲良くしていた。
「体調不良……かな、うん。ちょっと色々あって。初めて部活休んだよ」
「そっか……皆勤だったのにね。まあ、ちょっともったいないけど体調の方が大事だって。安静にしなよ?」
 雄雄しい名前のイメージに似合わず、大牙はとても柔らかい喋り方をする。争いごとが嫌いで、喧嘩が嫌いな優しい奴だ。今みたいに、人を気遣う言葉をさらりと口にできるところがとても素敵だなといつも思う。
「ありがとう。心配かけちゃったかな」
「いつもいる奴がいないと気になるんだよ。特に万里は真面目だから、サボりじゃないだろうしね」
 問題ないみたいでよかった、と笑顔を浮かべる大牙。笑った拍子に少しだけ八重歯が見えた。
 ここでは大牙みたいな奴は貴重だ。血の気の多い奴が少なくないこの学校に入学して早三ヶ月、夏休みを目前にして、おれが安心して対話のできるようになった友人の一人である。
 在学生が全体で千人を超えるこの学校――私立陵栄東高等学校は、世間にはスポーツの名門校で通っている。入学条件が緩く受験日が他の学校に比べて早いこともあり、スポーツ特待や進学校の滑り止め、はたまたきちんと授業を受ける気があるのかという素行不良児まで幅広い層の需要を抱えていた。
 おれは弓道のための設備が大学並みに整っていることに惹かれて受験したが、廊下で時折すれ違う脱色した頭は普通に怖いのでなるべく近寄りたくない。幸い部活内でそういう奴を見ることはなかったので、おれの安寧は保たれている。
 この平穏な生活が、できるだけ長く続けばいいな、と思っている。小中と地元の私立に通っていたせいで、身元がばれていて……と言うと聞こえが悪いが、ともかく大変だったのだ。兄さんも姉さんも皆同じ学校だったから、家からの学校への寄付金の額も他の家庭と比べて多かったのだろう。あの九年間でありとあらゆる差別と区別を受けた気がする。教師からも、生徒からも。
 姉さんはその過程でグレるし、兄さんは必要以上に責任を感じてしまうし、散々な思いをした。
 本当ならその地元の私立校で高校までエスカレーター進学の予定だったらしいのだが、兄さんが中学生のとき、「あいつらには自由に学校を選ばせてやってほしい」と言ってくれた。おれと姉さんは、高校から自由な進路を選ぶことを許されたのだ。兄さん自身はそれと交換条件のように自分の父親から提示された、この辺りでは一番偏差値が高く、歴史の古い高校に自力で入学した。
 おれがあの学校に通えているのはそんな、兄さんの努力が陰にある。けれどおれは知っているのだ。兄さんこそ、今おれの通っている陵栄東に行きたがっていた。推薦も何の問題もなく取れるし、なんなら特待でも、なんて言われるくらいだったのに。陵栄東の教師が、わざわざ兄さんを見にこちらの中学まで来ることすらあったのに。
 今でも思い出せる。姉さんが、「……兄さんから弱音を吐いてもらえるくらいに強くなりたい」と言って静かに泣いていたことを。
 何の因果か、おれたち姉弟は二人とも陵栄東に進学した。とは言っても、姉さんとは三つ違いだから、おれが入学するときには既に姉さんは卒業していたけれど。きっと、おれが毎日平和に学校生活を送ることができれば兄さんは喜んでくれるのだろうと思う。それくらいは、思い上がっていたい。
 兄さんの努力は無駄ではなかったのだと証明したい。
「万里、大丈夫? なんか上の空だけど」
「あ、ごめん。大丈夫だよ。今日って一限数学だっけ」
「そうだねー。俺もしかしたら今日当たる日かも」
「じゃあ朝練の後は急がないとなあ」
 そうして校舎裏までとりとめのない話をしながら歩いて、右手側の剣道場、左手側の弓道場へと分かれる。三日ぶりの弓の感触に気持ちが上向きになった。今日も頑張ろう。
 遠くグラウンドから聞こえる陸上部のものであろう声に、おれは僅かに感じた苦い思いをそっと心の奥にしまった。

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