羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 その日の夕飯は、ミートソースのスパゲッティだった。
 キッチンに立ったそいつがごきげんで「パスタパスターおいしいよー」と謎のメロディに乗せた歌を歌っていたので思わず笑ってしまった。俺はというと、パスタとスパゲッティの違いも分からない。美味いからそれでいい。
 食事のときは俺がコップと麦茶を用意するのももう完全に習慣化していて、それがどうにもくすぐったい。いつものようにいただきますと手を合わせ、今日もそいつが隣にいることに安心しながらフォークを取る。
 食事の時間はコミュニケーションの時間でもあった。食事が冷めない程度に、お互いに今日あったことを話すのだ。スーパーで卵が安かったとか、通勤途中にある銀杏並木が綺麗に色づいているとか。
 もう随分長い間一緒にいる気がするのに、未だにこいつと話すことは当たり障りのないことばかりだ。どこまで踏み込むことを許されるのか、ずっと手さぐりで生活している。俺のちょっとした一言でこいつの笑顔を曇らせてしまいはしないかと、そんな風に思っている。
 実は俺がまだ個人的に戸籍の取得方法について調べていたりだとか、そんなことは間違っても言えなかった。
「今日も美味いな。お前、料理上手くなってきてるんじゃねえの?」
「そお? うれしいー。やっぱ美味しく食べてくれるひとがいるとやる気が出るよね」
 きっとこいつは俺がミートソースを好きだと言ったのを覚えてくれているのだろう。嬉しいな、と思う。こいつの好きなものとか好きなこととか、ひとつでも多く知りたいし覚えておきたい。
「そういえばね、今日買い物から帰ってくるときに部活帰りっぽい子たち見ちゃった! ビニールのおっきなバッグ持っててさぁ、運動部かな?」
「そうじゃねえの? ちょっと前まで暑かったから、涼しくなってきて嬉しいだろうな。夏の部活ってキツいし」
「え、なんか実感こもってるね。孝成さんって運動部? 部活入ったりしてた?」
 一瞬、目の前のそいつが学校生活を経験していないことに思い至りどう答えるべきか迷ったが、結局正直に「……まあ、運動部っちゃ運動部だったかもしんねえ」と言う。
「そうなの!? ね、ね、どんな部活やってたの? 野球? サッカー?」
 瞳をきらきらさせて聞いてくるそいつに言いにくさが募った。俺のやっていたのはそんな上等なものではない。
「んなガチの運動部じゃねえって。週二くらいのゆるい部活」
「? ゆるい運動部……?」
「あー、分かんねえよな。あれだよあれ、射撃部だったんだ」
 あれだよあれ、なんて言ってしまったが、ライフル射撃がメジャーな部活ではないことは承知している。高校に入学してすぐの部活の体験入部期間のとき、物珍しさに惹かれ試しにやってみたところ的を狙う感覚が思いの外楽しくてそのまま入部し、なんだかんだ三年きっちり続けたのだ。大会などには縁のない、はぐれ運動部みたいな扱いを受けていた部活だった。
「しゃ、射撃……? 学校で銃を撃つの……?」
「バッカ違うっつの。練習ではレーザーポインタ使って狙うんだよ。全国狙うようなとこなら実弾メインで本格的にやるのかもしんねえけど、俺の高校は弱小だったからな……」
 弓道場はあっても射撃場は無い、普通の高校だ。寧ろ何故射撃部なんてのがあったのか、そっちの方が不思議なくらいだった。
 俺の雑すぎる説明ではたして納得できたのかは分からないが、そいつはふんふんと頷き笑顔を見せる。
「かっこいいー。狙い撃ち! とかするんでしょ? すごいねぇ」
「夜店の射的ぐらいでしか役に立たねえけどな」
「孝成さん射的できるの!? すごい! 見てみたい!」
「お前もしかして夜店とかも初めて? 一緒に行ったときは見せてやるよ。好きなもん取ってやるし」
 やった、と目を細めて笑うそいつの笑顔が眩しくてこっちまで目を細めてしまいそうになる。最近のこいつは、昔に比べると口数が多くなったというか、自分から話しかけてくれることが多くなったように思う。
「高校生の孝成さんかぁー……真面目だった? サボって屋上行ったりした?」
「夢みてるとこ悪いが、屋上は基本的に立ち入り禁止だぞ」
「えぇーつまんなぁい」
「でも購買のパンの争奪戦はあった」
「孝成さんもそれ参加してたの?」
「おう。めっちゃ走った」
「あはは。授業中ってやっぱり眠い?」
「苦手な科目が眠い。聞いてなきゃやべえ科目ばっかり睡魔に負けてた」
「そうなんだ、ふふ、そっかぁ」
 今日はいつにも増して口数が多い。珍しいな、と思わずそいつの顔をまじまじと見つめると、きょとんとした表情で首を傾げられる。
「どうしたの?」
「いや……お前がこんな風に色々聞いてくるの、珍しいと思って。機嫌いいな、今日」
 それは本当に他意のない言葉だった。別に、聞かれるのが嫌だったというわけでもない。寧ろ嬉しかった。会話の繋ぎだろうが何だろうが、少しでも自分に興味を示してもらえたのかと思うと心が浮き立ってしまう。
 だから、きっと俺は笑顔だったはずだ。嬉しくて顔が綻んだ、のだと思う。
 けれど、先程まで柔らかな口調で喋っていた目の前のそいつが急に色を失ってしまったものだから、驚いて表情が強張った。
「お、おい? どうした?」
「……おれ、そんなに質問ばっかしちゃってた? そう……だよね、べつに、おれが知らなくてもいいこと、だよね……」
「え、いや、別に迷惑だとか困るだとか思ってねえぞ?」
 心なしか青ざめているようにも見えるそいつが心配で慌ててそう言うと、気をつけていないと聞き逃してしまいそうなくらい小さな声で「……ちがうの、おれが困るんだよ」とそいつは言った。
「今までの家ではこんなことなかったのに」
「は? おい、それってどういう……」
 そいつは何かを我慢しているかのような、切実さの滲む瞳の色で囁くように言う。
「食べ物の好みとか、いつも使ってる洗剤とかじゃない、おれが任された家事とは関係ない部分まで知りたくなっちゃうなんて、よくないね」
 よくない、と言ったのか。
 これはまた、随分と酷い言葉選びをしてくれたものだ。
「よくないって、そんなことねえだろ……」
「だめだよ。だって思い出すきっかけが増えちゃう。おれ、きっとこれからテレビで海を見るたびに、孝成さんと一緒に海行ったときのこと思い出すよ。さっきのだって、偶然お祭りの屋台とか出てるの見かけたら、孝成さんは射的が得意だって言ってたなぁって、思い出しちゃうんだよ……」
 そいつはとても寂しそうな表情をしていて、俺は思わず手を伸ばして抱き締めてやりたくなってしまう。一体何をそんなに怖がっているのか、俺には分かってやることができない。
「……でも、やっぱり、孝成さんが射的やってるとこ見たいなぁ」
 ふわり、と眉の少しだけ下がった笑顔。
「いくらでも見せてやるよ、そんなの、これからいくらでも」
「えへへ。楽しみ。なんでも取ってくれるんでしょ?」
 頷きながら、俺は思う。こいつは、見たいと言いつつ自分からそれを望んで叶えようとはしないのだろうなと。
 いっそ思い切り抱き締めてやれればいいのに、と、俺は食事を終えて行き場のない手をそっと合わせて「ごちそうさま」と静かに言った。

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