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「先日ぶりです」

 愛菜は飄々と現れた肌の濃い男を見て唖然とした。もう会わないだろう、と思ったのにまた会ってしまった、など何度目のことだろうか。いや、実際にはまだ二度目なのだが。

 驚きで目を見開きはしたが、突如現れた目の前の男、安室がこの場にくることは決しておかしくない。先日、毛利ご一行とともにやってきたのだから、場所はすでに知られているわけで、客としてこの場に彼がくることはやはりなにもおかしくなどなかった。

 すぐに普段の営業スマイルをつくり、頭を下げる。

「この前はありがとうございました」

 次からは譲る、などと話していた店員はきょうに限って休みで、結局は愛菜が接客することとなった。というよりも、安室から話しかけてきたのだからもうすでに担当となってもおかしくなどない。同じ建物内の美容部員と違い、客のカルテは存在しないが、そのひとの見た目からどういった服が好みで、どんなものが薦められるかを見極めるのは愛菜の職業には必要だった。なによりもカルテがない、ということは頭のなかに一人ひとりの客の情報を詰め込まなければならないわけで、そう簡単に名前を聞けるわけでもないので意外にも頭を使う。客というのは店員のことを覚えているので、何人もいるうちのひとり、などという考えは持たないようにしていた。

 しかし彼は違う。印象が強すぎて、忘れることができなかった。メリットデメリットのある人間ほど記憶に残るが、彼女にとって彼はどちらの存在と記憶しているのかは彼がイケメンであるせいか本人も定かではない。

「きょうはどうされましたか?」

 愛菜の心情的には一刻も早く逃れたい気持ちでいっぱいだった。それでも客だからと笑顔を振りまき、来てくれてありがとうございます、という態度は崩さない。それでもことばには、またなにかしちゃいましたか? とニュアンスで伝えてみる。

 一方、安室はいつまでもなにを考えているのかわからない笑みを彼女に向けたままで、心のうちは読ませようとしない。無駄にさわやかすぎる彼の表情が早く崩れてはくれないものかと愛菜は冷や汗をかいた。

「先日、見繕ってもらった服を買いに」
「え、」

 まさか普通の客としてやってくるとは思っておらず、しかしここは誰でもこれる店なのだからそれを目的とした人間しかこないはずだ。むしろ愛菜が驚くことのほうがおかしい。

「なにか?」
「あ、いえ」

 首を振って否定すると、安室は不思議そうに首をかしげた。

「その、まさか見繕わせていただいた服を買いにきてくださるとは思っていなくて」
「そうですか? とても気にいったんで。あのときもそういう態度だったかと思うんですけど」

 確かに興味があるようには見えたが、それはあくまでもそう見えるようにしていたのだと勘違いしていたなどとは、彼女の口からはもちろん言えるわけがない。

「いまお出ししますので少々お待ちください」

 裏にはいって手帳を見る。彼が前回やってきた日付周辺のページをめくり、どの商品を出したのかを確認する。エメラルドに近い濃い紺色のハイネックと細身のデニム。白ニットと黒スキニーの組み合わせ。時期のことを考えてジャケットも合わせて雰囲気を感じ取ってもらおうと、近くのジャケット類を目視で確認する。

「前にご紹介させていただいたのはこちらの服です」

 水曜日の午前中。一番といってもいいほどひとが少ない時間だった。ラックに並べて紹介すると、彼は一つひとつ手にとって肌触りを確認した。

「どれもやわらかい素材なんですね」
「そうですね。ものによっては針がさすような痛みがでてしまうので特にニットには気をつかってます」
「試着しても?」
「もちろんです。全てご試着されますか?」
「お願いします」

 出した服を全て手に持つ。

「こちらにどうぞ」

 彼の半歩前を歩き、試着室へとリードする。扉を開けてなかにはいるように軽く促し、鏡横のハンガーラックに服をかけた。

「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」

 またも大いにさわやかすぎる笑顔を彼は見せた。愛菜は表情を崩さないように気をつけながら頭を下げ、ゆっくりと、静かに扉を閉めた。そして後ずさりでその場から少し距離をとり、試着室の見えるレジカウンターへとはいる。

 心臓が大きな音を立てて鼓動を打っている。額には薄く冷や汗が浮いていたので、ティッシュペーパーで吸い取った。

 確認のためだなんて思わずに、おとなしくしていればよかったものを。

 過去のことを悔やんだところで事実は変わらない。しかし後悔とはそういうときに必要なことばで、いまの愛菜はただあのときの行いをなかったことにしたかった。

 ため息をついてなんとか自分を落ち着かせる。

 かちゃり、とドアノブが動く音がした。試着室へと愛菜は目を向けた。白のニットに黒のスキニー。かわいい顔立ちをした安室だからこそ、このエモっぽい服装が似合っていた。

 いい。本当に、よく似合ってる。

 少し見とれそうになったが、なんとか意識を引き戻して近くに寄る。

「とても、お似合いです」

 感嘆の声をあげると、彼は恥ずかしがる様子もなく「ありがとうございます」と返した。ほめられることになれているのかもしれない。

「ためしにジャケットを着てみませんか。すでにお持ちでしたら雰囲気だけでも確認されたらどうでしょうか」
「そうですね。コートもお願いしていいですか?」
「もちろんです」

 愛菜は用意していたジャケットを手渡した。彼がそれを羽織るほんの数秒のあいだに頭を働かせる。ステンカラーコートなんてアンニュイでいいんじゃないだろうか。愛菜自身の趣味になってしまっているが、そういった格好をしてもそうそう渋い顔をする人間はいないだろう。

「やっぱり、少し若すぎませんかね」
「そうですか? とてもお似合いだと思うのですが……」
「さすがに三十路手前の人間が、こういう服は」
「若く見えたほうがおしゃれ度もあがるかと思ったのです、が」

 そこまで言い終えてからさきほどの彼のことばを思い出す。三十路、とは。

「三十路、ですか」
「ええ、はい。やっぱり見えませんよね」
「失礼いたしました。でもだからといってお似合いなのは事実です」
「それは、ありがとうございます」

 安室が脱いだジャケットを愛菜は受け取り、近くにあったオーカーに近いカーキのステンカラーコートを渡す。

「この色味のカーキはいくつになっても使えますし、多少無難ながらも長さがあるのでオリジナリティはありますかね。裾はフレアのように広がってます」

 興味津々な彼は早速、腕を通した。それから大きな鏡の前で半回転を繰り返す。

 少し大人っぽく、おとなしくなった見た目にほれぼれしてしまう。きっと彼はいまよりもっと若い格好よりも、もう少し老けた印象を与えたかったのだろう。髭も似合わないのだろうし、肌がきれいなところからまずあまり生えてこない、ということもありえる。

「靴もなにかいいのあります?」
「そうですね、カットブーツか、革靴になりますけど。サイズはどうされますか?」
「二十七で」
「少々お待ちください」

 近くのソファーに案内してから奥にはいり、薄い茶色のオックスフォード・シューズを取り出す。これなら幅広い年齢で使用できるし、試着している服にも似合うことだろう。

 片手に二十七センチの、もう片方に別のサイズの靴を、箱にいれたまま持って行く。彼の足元に指定されたサイズの靴を片方ずつ置いてはきやすいように靴紐を解いた。彼の足が靴にはいりはじめると、愛菜は携帯用の靴べらを渡す。

 安室は準備のいい愛菜に驚きながら、靴べらを受け取って靴をはいた。サイズはちょうどよく、少し歩いてみるが、足の裏も痛くない。また鏡の前に立ち、少し考えてみせる。

「買います。ありがとうございます」
「どれを買われますか?」
「すすめていただいた服、全部」

 愛菜の動きが止まる。

「おいくらですか?」
「え、あ、はい。二十万ほどになりますが……」
「かまいません」

 金銭面を全く気にしていなかった安室は「とりあえず他にもすすめてくださった服、試着しますね」と試着室にはいっていった。まだ動きを止めたままの愛菜はパタン、と扉が閉まる音で我に返り、いそいで新品物の準備にかかった。

 しばらくして安室がでてきたころに、愛菜もなんとか用意が整った。次も試着したままで見せてくれるのかと思っていたが、自身の私服に着替えられていた。彼女にとっては目の保養になってもらえなかったことは残念だが、時計を見ると昼前に近づいてきて客も増えてきた。アルバイトの店員が別の客を接客していた。そういう時間になりつつあったのである。

 すでに試着がすんだ服を全て受け取った。

「他の二着はどうされますか?」
「買います」
「ありがとうございます。サイズはどうされますか?」
「あのままで大丈夫です」
「かしこまりました」

 愛菜は頭を下げて、レジカウンターへと彼を導いた。会計をすませ、愛菜は手に多くの服がはいった袋を手に持った。

「出口までお持ちします」
「ありがとうございます。いい買い物ができました」
「喜んでいただけたならよかったんですけど」
「大喜びですよ?」

 きっと、このひとはモテるのだろうな。

 直感的に愛菜は思った。

 それにしても、喫茶店でアルバイトをしているわりには金遣いが荒い。もしも狙われたとしたら金づるにならなくもないか、などとも考えていた。ただしコナンと近い存在であったため、そういった恋愛の甘い関係になりたいとは思えなかった。ただ、少し触れるぐらいなら、多少の関係を築くぐらいなら、楽しそうだとも思った。

「きょうは、ありがとうございました」

 礼を言いながら荷物を渡す。

「こちらこそありがとうございました。また、お会いできたら」
「はい、よろしくお願いします」

 愛菜が頭を下げると、彼はゆっくりと歩を進めた。
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