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 病院での検診は無事に終わった。薬をのまされたと言っていたのは混乱して言っただけだったと片づけられてしまったが、いまの自分はよくわからないところにいるのだからそういった結果になっても愛菜は特別驚かなかった。自身の脳内でも同じように処理され、ただの思い違いということで納得していた。

 エレクトリック・ブルーのミニクーパーに乗り込み、約束をしている米花町の喫茶店、ポアロを目指した。本来であれば行きたくないのだが、自分の性格と相手の性格の噛み合わせの問題だった。いつもの愛菜であれば、車だろうが電車だろうが再びおいしいコーヒーもあることだし、行くことを煩わしいと思うことなく伺っただろう。

 思いのほか伸びてしまった診察時間に小さなため息をついた。異常なしと診断されるかと期待していたが要経過措置となった。先日の薬を飲まされたという発言によって、精神障害か記憶障害の可能性を示唆されたのである。どちらとも思い当たる節がありすぎるので愛菜は拒否を示さなかったが、処方された薬でどうこうできるとはとても思えなかった。どうこうできるのであれば泣いてすがりたいところだが、理由がわからないからこれ処方しておきます、といった発言が信頼性を落としたのである。

 だが仕事中は特別おかしなことをしているわけでもないし、変な世の中であるだけでそれ以外は普通だった。生活は送れるし、仕事もできる。もしかすると、なにもおかしいことはないのかもしれない。自分にそう言い聞かせながら毎日を送ることで、徐々に現実を受け入れていた。

 ポアロの目の前に車を停めて、店内にはいる。カランとかわいらしい音が鳴り、先日に約束をしたあの男性店員、安室が近づいてきた。

「お車でお越しですか?」
「はい、そうなんです、すみません」
「コーヒー飲まれます?」
「そうですね、せっかくなので」

 飲まずに帰る、そういった選択肢があったことを愛菜もわかっていたが、首さえ突っ込まなければ大丈夫だろうという考えと、このひとはきっとそこまでコナンに関係していないだろうという思いと、あそこまで気を遣わせてしまった詫びの意味で、居座ることにした。

 彼は「少々お待ちください」と断りをいれて、奥に一言伝えてから、愛菜と一緒に外へ出た。この車だと教えると、彼は「場所、案内するので乗らせていただいても?」と聞いてきた。

「どうぞ。せまいですけど」
「いえ。ミニクーパーの五ドアなんておしゃれですね」
「三ドアがどうしてもネックだったんで、出てすぐに買いました」

 笑って愛菜が言うと、彼も彼で笑った。そして助手席に乗り込む。彼女も運転席に座り、彼の示すほうへと車を動かした。そこは喫茶店からそう離れていない場所だった。従業員が停めているのだろう、喫茶店の裏へぐるーと回ったところにある空き地っぽいところで、古びた木の板にはポアロと薄く白いペンキで書かれてあった。

「ここ、あまり使わないんですか?」
「いえ、いつもは停めてあるんですけど」

 では他に従業員がいるのか、などと考えた。

 そこから徒歩一、二分のポアロに戻る。

「あ、安室さん!」

 できるだけ楽しく。そう努めて会話を弾ませていると声が聞こえた。背後から小さな少年がかけよってくる。それに気づいた安室は笑顔を少年に向けた。

 愛菜にとっては一番会いたくない存在だった。顔に変な力がはいって強張っているのがわかり、愛菜はそれが悟られないように、一度うつむいてから顔をあげた。できるだけ笑顔でいれるように、仕事で鍛えた筋肉をフルに使う。なにも知らなければただただかわいいだけのこの少年。実際は高校生で、抜群の推理力を発揮できることは日本国民のほぼ全てが知っている存在であるのに、この世界では通用しないし、なによりもいまの愛菜には小悪魔に見えた。

「あ、お姉さんこの前の、」

 コナンは愛菜を見上げて笑顔を向けた。それに応えるように、愛菜はしゃがんで彼と目線を合わせた。

「こんにちは。覚えててくれたんだね」

 できるだけ、できるだけ、優しく笑わないと。

 憎くて憎くて仕方がない少年へ、自分に言い聞かせながら笑顔をつくり続ける。しかし敏い彼は、感づいたのか一歩後ずさりをして愛菜と距離をとった。その行動は彼女にとってそれなりにショックだったのだが、うまく笑えない自分が悪いとして、彼の行動を受け止める。決して間違ってなどいない。

 すぐに憎しみの感情を押し殺したからか、そのあとのコナンの表情は不思議そうに愛菜を見つめるだけになり、一緒になってポアロに向かった。

 コナンは上の階へあがっていった。愛菜は店内にはいり、前とは別でソファー側に座った。アイスコーヒーを今度は女性ではなく安室に頼み、マッチで煙草に火を点ける。マッチの香ばしいにおいと、水蒸気を吸い込んだような煙草のにおいとが口内に交じり合う。一度軽くその煙を吐き出してから、ゆっくりと今度はフィルターを吸い上げて肺に送りこむ。視界が揺らぐ感覚に酔いながら、これまたゆっくりと息を吐く。

 呆然と外を眺めながら、きょうの検査結果を思い出していた。思い出したところでどうにもならないことなどわかっていたが、愛菜の頭からは煙のように消えてくれなかった。

「お待たせしました」

 安室が優しい声で、彼女の座るテーブルにアイスコーヒーを置いた。その正面にコーヒーよりかいくらか薄い色をした、おそらくあたたかい紅茶が置かれた。愛菜は持ってきた人物を見上げてみると、彼は「あがったところなのでご一緒しても構いませんか?」と笑みを向けた。愛菜には断る理由がなかったのでうなずくと、彼は結果がわかっていたかのように、そして当たり前のかのように彼女の目の前に座った。

 そして封筒を差し出した。コインの薄い膨らみがはいっていた。愛菜は小さく頭を下げてから静かに封筒を受け取り、鞄のなかに収めた。

 彼はミルクをたっぷりと紅茶に注ぎ、スプーンで混ぜた。髪の色に近くなった紅茶を愛菜が眺めていると、それに気づいた彼は小さく笑った。

「こどもっぽいと思いました?」
「え? いえ、そんなことは」

 なにも考えていなかった、などとは言えまい。それでもなんとか言葉をつなげようと必死に探し、「髪の色と一緒だな、て思ってました」と適当にこぼした。

「前も、アイスコーヒーでしたね。寒くないですか?」
「ああ、これ。これは」

 意識を失う前のことを思い出した。あのときの記憶としてはたしか季節は梅雨だった。本当であれば秋でも冬でもなくて、夏に近づいているはずだった。季節の脳内変換はうまくできなかったようで、いやむしろあのときの季節を追うようにして、よっぽど寒くない限りはこういったところでは冷たい飲み物を頼んでいた。

「忘れたくないんでしょうね」

 気づかぬうちに出ていたことばに対し、驚いた愛菜は自身の口を手で軽く塞いだ。

「大切な思い出でも?」

 思い出。そうか、ここではあのすごした世界など思い出になってしまうのか。

 とくに気にした様子を見せない安室は、ミルクで少しぬるくなったであろう紅茶を口に含んだ。

 その隙に自分の精神を整えてまた笑顔をつくる。

「はい、そうですね」

 最後の記憶は思い出と化してしまえばいい。

「素敵な思い出ですか」

 その質問に、愛菜の口から苦笑が漏れた。

 素敵なはずがなかった。仕事に明け暮れる毎日、周りの友人は次第に結婚し、同僚だって寿退社をしていくなか、愛菜はクズ男と出会い、別れ、ストーカーになられ、追いかけられ、ひどい目に合わされ、それらが原因でいまこうして彼の目の前にいる。けれどいままでの不幸は目の前の人間には関係のないことだ。それになによりも、あの世界は自分が生きてきたはずの世界なのである。それはついさっき会った小さなこどもがなによりの証拠だった。

「とても、素敵でした」

 過去系になったのは決しておかしいことではなかっただろう。しかし、愛菜は前の世界にはもう戻れはしないのだろう、という意味合いをこめて言っていた。どれだけ憎むべき存在がいようと、自分がおかしくないはずの世界で暮らしていたときのことがとても恋しいのだ。

「もしかして、その思い出のために先日はひと探しをしていたんですか?」
「え? そうですね。言われてみればそれに近いかもしれません」
「あなたに素敵な思い出を与えてくれたひとが気になりますね」

 彼はミルクティーに口をつけた。愛菜はそれをあるていど眺めてから煙草に火を点けて、外に目線をやった。現実、逃避だった。

「悪魔、ですよ」

 素敵“だった“思い出であると認識する絶対的な存在だ。

 ついさきほど、一緒にすぐそこの道を歩いていたことを思い出す。本人に気づかれるていどには、憎しみのこもった目で少年を見ていた自分を愛菜は攻めた。彼が悪いわけではないのだ。

「悪魔?」
「その子はなにも悪いことなんてしてないんですけどね」

 アイスコーヒーに手をつけて多めにすすった。氷の分厚さのおかげで減りは早い。煙草を吸い終わってすぐにコーヒーを飲み上げ、財布を出した。しかし彼はそれを自らの手で彼女の腕を掴んで止めた。

「きょうはぼくのわがままに付き合っていただいたので」
「それはさすがに」
「また、お待ちしています」

 優しい笑みは、なにを考えているのか愛菜にはわからなかった。信じるべきなのか、信じるべきでないのか、答えは自分には決められなかった。

 少し沈黙をつくってから動こうとしない彼にしびれを切らせ、愛菜は肩をすくめて小さなため息をついた。

「わかりました。また伺います」

 返事をすると、あっさりと安室は手を離した。満足そうな笑みに変えて、愛菜をエスコートして出口に向かわせる。ゆっくりと彼は一礼して、彼女を見送った。その姿に、彼女はただ彼は律儀な人間なのだと感心するばかりだった。

 安室は軽く会釈をした愛菜を窓越しに見送り、置き去りにされたアイスコーヒーの抜け殻を見た。彼女は急いで飲んだのか、氷はびっしりとグラスのなかで形を残していた。

 食器を下げて他の店員、梓からの「置いといてください」と言ってくれた厚意を無難にスルーして洗う。

 店を出ると、後ろから「安室さん!」と本日二回目の聞きなれた声に呼び止められた。振り向いて自然と下に視線を向ければ、かしこそうな男の子が安室を見上げている。安室は腰をかがめて、彼と目線を合わせた。

「どうしたの、コナンくん」

 コナンは声を潜めて安室に顔を近づけた。

「さっきのお姉さん、ぼくのことなにか言ってなかった?」

 さすがに本人なら気づくか。

 安室はコナンの鋭さに感心しながらも、それは顔に出さなかった。その代わりに不思議そうな顔をしてみせる。

「ううん、なにも言ってなかったけど。それがどうかした?」
「そっか、なんでもないよ、ありがとう!」

 足早に探偵事務所の階段を駆け上ってしまった彼の面影を目で追った。

 きょう、先日と、安室が愛菜を様子見してわかったのは、愛菜の探している人物はコナンであるということだった。なぜ彼を見て彼女が泣いて、憎しみの感情をあらわにしたのかは謎のままだ。コナンのほうは明らかに彼女の知人ではないといった反応で、彼女も彼女で初めて会ったという態度だった。コナンと言えば、怪盗キッドを追いかけていることで有名だが、それが原因でうらまれるとは思えない。うらんでいるとすれば、よっぽどの怪盗キッドファンかなにかだ。しかし、決して危害を加えようとはしていなかった。コナンを見る目は絶望に満ちていて、確認するかのように標的を視界から離さない。

 なにもしてこないのであれば、いいのだろうが。

 さきほどまで会っていた彼女の顔を頭に浮かべた。ほほ笑みは全てつくったものだった。仕事上、なれているのだろう。

 安室はポケットから鍵を取り出してすぐにしまった。きょうは愛菜が車でやってくるかもしれないからと、電車で出勤したことを思い出したのだった。
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