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確認するべく、いやすでに確証はあったのだが、さらなる確証のために愛菜はある場所へと向かっていた。インターネットだけでは物足りなかったため、現地に向かったのである。
そしてとある建物を見上げ、呆然とする。その建物はハリボテでもなんでもなく、本当に実在していたのだ。
そこの下の喫茶店にはいり窓際のソファーではなく、見通しのいい椅子に座る。女性店員に注文を済ませて、可愛らしいその店員を眺めてから愛菜は窓の外を眺めた。小学生の帰宅時間などとうの昔の記憶なので詳しくは覚えていなかったが、三時ごろからいれば見ることはできるだろうと踏んだのである。
携帯電話を触って暇を潰す。「お待たせいたしました」と男の声が愛菜に知らせた。店員を見上げると、日本人には似つかわしい、しかし彼にはお似合いの金色、よりは優しい色の髪の男が立っていた。あまりに顔が整っているので愛菜は見とれてしまったが、彼はなれているのか気にした様子は見せずに「アイスコーヒーです」と微笑みながらコースター、グラスの順番で置いただけだった。どこかで見たことがあるのは、ここの店員だからだろうか。
「ひとを探されてるんですか?」
唐突な質問に、愛菜は驚きで目を開いた。化粧が施されたきれいな大きな目が彼を映す。
「はい、ちょっと。よくわかりましたね」
「こちらの席にわざわざ座られたので」
いまだに微笑む彼は、あまりにも洞察力に優れている。
「すごーい。正解です」
それがどこか不気味に感じ、大げさに感動したふりをしてからブラックのままコーヒーを口に含む。
失礼しました、と彼は頭を軽く下げて奥へとはいっていった。
彼もまた、登場人物なのだろうか。
愛菜はここ最近変化した不思議な世界のことを考えた。
あの日、愛菜が意識を失った日を境に、どうも世の中がおかしいのである。
まずは季節。暑かったはずなのに、すっかりと紅葉で街が色づいていた。
次にニュース。やたらと難解そうな殺人事件が増えた。
あとは駅。知らない間に、いや、本来なら知っているはずの路線には知らない駅名たちがあった。
そしてテレビ。怪盗キッドのニュースが流れたのである。
百貨店での仕事を終え、はー疲れたーとごはんを軽くとっているときだった。夜の二十三時からのニュース。忘れもしない、衝撃的な映像。
それまでは精神がどうかしていたのかもしれないと、深くは考えていなかった。解放されて正常になったのだと信じていた。それがどうだ、怪盗キッドなどとは。さすがに国民的アニメでなおかつ有名なキャラクターなのでアニメや漫画に興味がない愛菜も知っていた。友人の付き合いで毎年、もうかれこれ十年は小学生を主人公とした物語を観に映画館へ足を運んでいた。
愛菜の口はなかなか閉じなかった。あんぐりと、ただそのニュースを見ることしかできなかった。次のニュースに移った途端、我に返って急いで名探偵コナン、と検索をする。しかし引っかかるのはキッドキラー! などというものだけで、毛利探偵事務所を調べると、あの見たこともないと思っていた駅名からのアクセス方法が載っていた。
精神異常が治ったのではない。なってしまったのではないか。それがわかった途端に、愛菜は頭を抱えた。どうすれば普通の自分に戻れるのだろうか。もう、戻れないのだろうか。現実の自分ははたして普通にしていて、変なことをしでかしていないのか。これは幻想なのか、現実なのか。このような非現実の世界で、どう生きていけばいいのだろうか。
兎にも角にも、いろいろと確認してみないことにはなにもわからない。そう思った優奈は、考えられる範囲で行動に移していた。コナンがすきだった友人に連絡し、漫画やアニメをわざわざ探したり、歩き回って地域の雰囲気を確かめた。しかし回答は自分が願っていることではなく、愛菜の答えは全て不正解だった。
友人は「キッド様最高!」などと言っていて、漫画やアニメはもちろん販売されておらず、そこの土地は彼女の知らない場所だった。もとより行ったことのない地域周辺ではあったが。
目の前の灰皿に目がいく。煙草を取り出してマッチで火を点けて吸い始める。五年の禁煙生活は幕を閉じ、受け入れられない現実を突きつけられる度に煙草の本数は増えていた。ふわふわとした感覚が心地よかった。唯一の現実逃避方法でもあった。
向こうのほうから男の子と女の子がやってくる。見つけた瞬間に腰が浮かび、同時に煙草の火花が散った。それは指にあたり、思わず口から「あっつ」と声が溢れていた。それを聞きつけた男性店員は愛菜に近寄ってくる。
「どうしました?」
「え、ああ、いや」
愛菜は煙草を咥えて手をさすった。もうひと吸いしてから火を消す。そしてまたさする。
「手、どうかされたんですか?」
「火があたっただけなんで」
「なにかお持ちしますね」
いやそこまでは。しかし愛菜が遠慮する前に、彼は奥へと消えてしまった。優しいひとなのだな、とその行為を受け取ることにしたが、ほんの少し、それにこんな見えないていどの傷に対してそこまで大げさなことなどしてくれなくてもよかった。それよりも、彼女には火があたって痛かったことのほうがショックだった。
ガラスの向こうで笑い合っている少年たちを眺める。できる限り、目の前のことから逃げないようにと愛菜は考えるが、楽しそうにしている彼らとはよそに顔が険しくなっていく。息をゆっくりと吸い、乱れそうな呼吸を整える。しかし耐えきれなくなった器からは感情が溢れる。
さっきの火傷は痛かったし、アイスコーヒーは美味しいし、頬はなぜか熱い。
彼女の頬にひと筋透明な色が通っていたが、それに気づかないほど外を凝視していた。
「あの、すみません」
遠慮した声がかかった。ゆっくりと振り向いて、おしぼりを手にした男性店員が彼女を見下ろしていた。
差し出されたそれを受け取り、さきほど火傷した場所にあてる。いまだ涙の存在に気づいていない彼女と視線の高さを合わせるように、彼は屈んで彼女を見た。
「どうされました?」
「え、なにがですか」
「泣いているので」
そこで初めて彼女は自分の頬に手を触れて熱かった存在を確かめた。すでに冷たくなっている筋に驚きで目を見開いて、濡れた手を見つめてから心配そうにしている店員の顔を確かめる。
「うっそ、ほんとだ」
わざと大げさに彼女は驚いてみせた。それから指で拭ってなんともないように、なにかを悟られないように表情を変える。
「大丈夫ですか?」
「ドライアイなんですよ」
アパレル店員独特の笑顔を見せてから、ゆっくりと微笑んでみせる。しかしそれを嘘だと見抜いているかのように、彼はいまだ心配そうに顔をしかめていた。
「なら、いいんですけど。探していたひとは見つかりました?」
「はい、見つかりました」
本当は見つけたくなどなかった。けれど真実も確かめたくて仕方がなかった。たしかそこにいる少年が真実はいつもひとつ、と言っていたか。
目の前のできごとは、彼女にとって残酷でしかなかった。それでも現実で起こっているのは間違いないのである。夢であるならば、この悪夢からはやく抜け出すことを祈るばかりだ。
あの少年たち、コナンたちが店員の存在に気づいて手を振った。店員も彼に手を振り返した。少年たちはちりぢりになったが、愛菜の視線はまだ少年たちのあとを追っていた。
振り向くと、すでにそこに店員はいなかった。財布から一枚千円札をだして、伝票の下に見えるように置いた。そしてできるだけ音がしないように外に出た。
もう、こない。普通の自分でいるために、この地には自ら足をつけないことを彼女は誓った。