プロローグ

 しとしとと、日本人ならその表現を使うだろう。外は雨の湿気に埋もれ、霧さえもかかるほどで、夏のはずなのに肌寒い。

 そんななか、昼と夕飯の前準備として買い物にでかけたひとりの女性は、片手に買い物袋、もう片手で傘を持って帰宅していた。

 平日の朝。霧のせいか車の通りは少なく、交通面では多少いつもより安全な帰路だった。

 自宅の鍵を取り出しガチャと音を立てて回す。とくになんの気なしに入ろうとしたときだった。


「愛菜」


 振り返ってそこにいたのは半年前に別れた男だった。

 彼はたまに、愛菜が店長を務める店にやってきたり、閉店時間まで待ち伏せるストーカーとなっていた。この家だって、先日越したばかりだったというのに、執着というのは恐ろしいものだ。

 彼女はため息をついてから振り向いた。彼女の知っている彼の面影はあった。けれどきっと、すきだと錯覚していたのだと気づいてから、彼に興味がでなくなったのである。彼の彼女に対する扱いが、あまりに雑だったための別れだった。それはときに首でひとを使ったり、あきらかに見下した物言いをしたり、待ち合わせ場所になんの連絡もいれずに何時間も遅刻したり。

「もうやめて。呆れる」

 ダメな男ばかりに惹かれてしまう。それは本人もわかっていることだったが、今回は、今回こそはと言い聞かせながら何度も失敗してきていた。

 言い放った彼女に、男は心底苦しそうな顔をした。そして歯ぎしりをして、彼女の肩に掴みかかる。


「俺の! なにがいけなかったって言うんだよ!」
「ちょっとやめて、近所迷惑!」
「お前なんて、お前なんて!」


 男の手は、一瞬のうちに彼女の首に絡んだ。小さな薬を三粒、彼女の口をこじ開けて放り込み、鞄にいれておいたらしいペットボトルを取り出してその先をねじ込ませ、鼻をつまんでまで無理やり水と一緒に飲ませた。再度首にやられた掴む手はさきほどより強くなり、徐々に、徐々に、手の形にへこんでいくことがわかる。彼女の手からは荷物が落ち、自然と男の手首を持った。苦しさで歪む顔は、いつもの彼女と思えないほどになる。


「や、め」


 声さえも満足にだせない。息苦しさで意識が薄れていく。耳には男の罵声だけが響き、ただもがくことしかできない。

 声の高い女性が悲鳴をあげた。そのせいか男の力が一瞬弛み、そのすきに部屋に入りこんで鍵を閉める。

「おい! 開けろ!」

 彼女は震える手で携帯電話を触った。GPSがなんたらと画面に表示されることも煩わしく感じるほどで、ただ必死に一一〇と押して電話をかける。

「はい、一一〇番です。どうされましたか」
「たすけて、」
「どうされましたか?」
「襲われて、」

 後ろの扉からはついに蹴る音がした。彼女の喉から小さな悲鳴があがり、からだがまた震える。


「お名前は?」
「岸本、岸本愛菜」
「いまから近くのものを向かわせます」


 電話が虚しく切れ、けたたましい男の声と扉に攻撃する音ばかりがしていた。彼女は頭を抱え、まだかまだかと、警察がくるのをただひたすら待っていた。

 警察がやってきたのはほんの数分後だった。けれど彼女にとっては何時間にも感じられた。目からは涙が溢れ出ていた。息は荒く、過呼吸に陥っていた。

 外の気配がより一層うるさくなり、それからすぐに静かになっていく。男の声だけが遠くで響いていた。


「岸本さーん、警察でーす。大丈夫ですかー」


 聞こえてきた声に応えるため、やっとの思いで玄関の鍵を開けた。ドアノブに手をかけ、外の光が目にはいる。扉の前にいた警察官の姿を確認すると、彼女は気が抜けたのか意識を手放した。





 どこだ、ここ。

 愛菜が目を覚ましたのは白い天井の部屋だった。よく知りもしないその場所に違和感を感じながら、からだを起こすと首が痛い。寝違いのような痛みだった。

 周りを見渡してみると、そこはやはり知らない場所で、殺風景な雰囲気のこの部屋は病院であることに気がついた。

 自身の部屋で、玄関扉を開けてから倒れたのだと思い出したからである。入院など初めての彼女からすると、この場所はとても不思議で、自分が自分ではないみたいだった。枕元にあった自分の携帯電話を手にとり、上司にメールを打つ。意外にもいまの彼女はかなり落ち着いていて、こうなることをどこか覚悟していたかのようだった。ため息をついてからメール送信のボタンを押した。

 ふわあ、とあくびをしてから気を失う前のことを思い出す。ここまでのことになるとは予想していなかった。たしか、なにかを無理やり飲まされた。むしろそれを思い出して冷静があせりに変わり、急いでナースコールを押す。やってきた医者と看護師に事情を説明したが、とくに体調不良があるわけではないので明日以降に精密検査をすることになった。

 窓の外を眺める。茂りのある木はいまの季節を彷彿と……。させなかった。愛菜の知る限りでは、最近、梅雨があけたばかりだと記憶している。携帯電話の画面を再度確認し、さきほどまでは気にも止めなかった日にちを見る。十一月だった。それだけ眠っていたということなのだろうか。時間の感覚がわからなくなり頭を抱えてみるが、上司からは「わかった。店は任せて、ゆっくり休みなさい」とだけ返事があった。普通だ。それともなにかを勘違いしていたのか、なにをどう勘違いしていたというのか。疑問は考えれば考えるほど増えていくばかりで、頭のなかは混雑してくる。

 いまの自分はパニックに陥っているだけなのか。それとも目が覚める前がどうかしていたのか。

 ため息を吐いてから自分の首を締めてみる。多少は苦しくなっても、そこまではツラくならない。

 とりあえずゆっくりと息を吸って深呼吸をする。それから静かにベッドから降りて、病室を出た。
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