3−1
「ああ、どうも」
安室の顔を見るなり他人行儀に頭を軽く下げた彼女は、あたりを軽く見回してから正面を向いた。警戒心は多少抜け、顔にはまたか、と書かれてあった。
「よく会いますね」
「そうですね」
その場でふたりして立ち止まっていた。それもどうかとお互いに察し、どちらからともなく隅に移動する。
「これからどこか行かれるのですか?」
アプローチをかけている安室からすると、面倒な意思を持った彼女に対して一歩でも近づかなければならない気がしていた。つい先日、デートに漕ぎ着け、やっとこさ多少なりとも心を開くことができたのである。その事実をつかわない手などなかった。
「家ですよ」
最寄り駅が近くということから、そのぐらいは踏んでいた。駅とは逆方向に向かっているところから、おそらく帰宅途中であろうことも気づいていた。
「近くなんですか」
「ええ、まあ、はい」
安室も仕事を終えて帰宅しているところだった。まさか彼女の勤務時間までは正確に把握していなかったので、まさにたまたまだった。
「ちょうど近くで仕事があってきていたんですよ。よろしければ送らせてもらえませんか?」
「そんなに遠くないですし」
「ぼくが送りたいんですよ」
笑んで主張してみれば、彼女は不審そうに安室を見た。
「わかりました」
いままでの彼女なら、ここはまだ断っている。それから安室がやや強引に話を進めてしまうのが流れだった。やはり心が開いてきたからなのか。
彼女の歩が前に向いた。安室はその半歩後ろをしばらく歩いてから隣に並んだ。
「最近、ポアロにきてくれませんね」
「ああ、すみません。あまり寄る場所でもないので。近くにいけば休憩に使わせて貰おうとは思ってるんですけど」
嘘ではなさそうなその発言に、安室は小さく笑った。彼女はそれに気づいて彼を見上げた。
「すみません、あなたが素直なんて珍しいので」
彼女はすました顔をして、前に向き直った。小さくため息をついて、特になにを言うでもなく、歩幅を変えずに歩いた。
かと思えば、振り向いて「優しいだけじゃないんですね」と微かに笑んだ。
安室透は優しい。それは彼を知っている者であれば必ずと言っても良いほど知られたことである。彼に負のイメージを持っているひとは中々いない。
「それは、どういうことでしょうか」
「意地悪もするんですね」
その顔は、少し楽しそうだった。ほんの少し前まで憎んで仕方がないといった彼女の態度は、少しずつながらも変わっていた。
「だめですよ」
安室が吐いたことばに愛菜は首を傾げた。
「なにが」
「気を許した顔」
わかってます? ことばとして出しはしなかったが、彼女は真っ暗な画面の携帯を鏡に見立てて表情を確認した。
「そんなつもりはありませんでしたけど」
「でも、なってましたよ」
ふてぶてしい顔をした後に声混じりのため息が吐かれる。
「良い傾向なのかもしれませんね」
ときたま彼女は遠くを見つめる。そんなときは、必ず安室を視界にいれない。まるで彼を拒絶しているかのように、しかし理由は一切不明のままで。
愛菜はゆっくりと瞬きをすると安室を見た。足が止まり、彼女は「ありがとうございます」と軽く頭を下げる。すぐそこには、特別大きくはないマンションがあった。
気まずそうな間が空き、「お茶でも飲まれます?」と質問があった。
「……いいんですか?」
「はあ、まあ、送ってもらいましたし」
いままでの安室に対する態度のままであれば、一応仕方がなく建前上、と名目が並んだだろう。いや、その前に誘うなどしない。
彼女の家にあがり、玄関先で靴を脱ぐことをためらっていると「どうぞ」と追い討ちの声があがる。
安室にとっては願ったり叶ったりの状況である。しかし、あそこまで警戒心の高かった彼女が、意図も簡単に家に男をあげてしまったのである。
靴を脱いで、足をつける。フローリングは少しテカっていた。
「気軽に男性を呼ぶのはやめたほうがいいんじゃないですか」
いく場所に困り、台所に立つ彼女を覗き込む。視線だけが絡み、機械のスイッチを入れてお湯を沸かす。すると彼女の顔が安室に向き、またゆっくりと瞬きをしてから口を開ける。
「どうして?」
「どうなっても知りませんよ」
「あなたとは全部済ませたじゃないですか」
「危険が伴うことがあるかもしれない」
「大丈夫」
「なにを根拠に」
「あなたはわたしを殺せないんです」
安室は彼女の首に手を伸ばした。彼女は抵抗せず、それを受け入れた。少し力を入れると皮膚が沈んだ。愛菜はただ彼を見ていた。「殺してくれて構いません」。どうとでも良い。ことばにはそんな音が含まれていた。「殺してどうぞ」そうして彼女は鼻で笑って、安室の手を覆った。彼の甲には、彼女の温もりが伝わってきた。興奮しているからか、少し熱を帯びていた。それを必死に止めてやれば、ほら、とまた笑うのだ。
「優しいんですね」
涙を溜めた瞳は伏し目がちに、離れた安室の手を追っていた。その手が彼女の頬に伸びる。
「あなただけです」
キスを迫り、もうほんの数センチの距離だった。
「うそつき」
彼女は唇を手で蓋をし、色気に満ちた哀愁ある目で彼を見上げた。