▼ どれだけ傷付けられても
どれだけ傷つけられても
階段を駆け抜けて飛びこんだ天文台は、いつもとは違う、澄み切ったクリアな空気を漂わせていた。月明かりが開けた天井から差し込み、幻想的だ。
「素敵…」
レギュラスにもらった参考書と、羊皮紙とインクをカバンから取り出して手に持ち、
部屋の真ん中に大胆に足を投げ出して寝転んだ。普段ならこんなことできないもの。
眼前に広がる景色は絶景だ。
まだ満月にならない欠けた月が静かに空に漂い、その周りで星たちは負けずに煌々と輝いている。
空に浮いているような気分だ。
太陽に照らされている月と、己で燃える恒星達。
その中でも一際輝く青白い恒星にレーベラは視線を奪われた。
おおいぬ座の中で輝く星。
光り輝き、焼き焦がす星。
「シリウス……」
「…なんだよ?」
突然聞こえた第三者の声にレーベラは飛び起きる。
声がした天井の方向へと顔を向けると、柵から足を投げ出したシリウスがこちらを見ていた。
「どうしてここに…あ!」
動揺を隠しきれずに手元のインク瓶を思わず落としてしまった。
パリンと割れた音とともにインクは床を黒に染めていく。
「参考書が…!」
インクが参考書を濡らす前にと、しゃがみこんで手に取る。
「レパロ」
上からその声が聞こえ、壊れたインク瓶が目の前でパリパリと音を立てて、元の形に戻った。
どんな顔をしようか。
しゃがんでいる内にひと息吐いて、心を整えてから、シリウスを見上げた。
「星の話よ。……あなたの名前じゃないわ。」
不自然な感じがするけれど、勘違いされては困ると弁解をした。
シリウスは柵から飛び降り、私を見下ろした。
灰色の瞳は揺れながら私を見る。
「俺に会いたかったか?」
そんなこと、言われると思っていなかった。
私は心の動揺を悟られないように、顔を強ばらせた。
「貴方なんかに会いたくない。会いたいわけない。」
下を向いた。インクで黒く汚れた床をみつめる。顔を合わせたくない。
「本当に?」
「悪魔みたいな人だわ。私の事大嫌いなくせに。」
「知ってるだろ、俺は純血主義が嫌い、単純なことだ。」
わかるだろうと、突き放すように言う。訳が分からない。だって私は最初っから純血主義だったもの。
「私は最初からそうだった。」
「馬鹿だった、忘れていたんだ。」
「…」
何が言いたいの?わからない。本当に彼が考えていることがわからない。優しくしたかと思えば突き放して、今度はどっちなんだ。
煮え切らない態度のシリウスに私は苛立つ。
「私は忘れてない。最初から理解してたわ。
私そんなこと分かってたわ!貴方がマグル好きの狂ってる人間だって!」
「誰が…!」
「私、貴方のことが好きだったわ。」
顔を上げてシリウスを見る。
彼は豆鉄砲をくらった鳩のような顔をしていた。
「…でも今は違う。
…貴方はもう優しくないから。私が好きだと思ったような人じゃなかったから。」
「あなたのことなんか……大嫌いよ。」
目頭が熱く込み上げるのを感じた。
嫌だ、泣きたくない。
馬鹿みたいじゃないか、本当に。
再び俯いて息を整える。
しかし、堪えろ、堪えろと唱えるほどに視界は滲んでもうどうしようもなくなった。
「泣いてるのか?」
ぽたぽたと落ちる水滴が黒のインクに滲んでいくのをきっとシリウスも気付いていた。
決壊が崩れたのは心も一緒だった。
「どれだけ傷になったって、魔法で消えるの。」
「だからあなた達だって何をしても大丈夫だって、思うんでしょ。」
「明日になったら、全てが魔法で元通りだって。」
震える声で、途切れ途切れで、言葉を紡ぐ。
「でも、傷なんかよりずっと、苦しいの」
「あなたに傷付けられたことがなにより悲しかったの」
言葉にしてしまえば、すんなりとそうだったんだと心に入ってくる。自分を騙して、諦めようとしても、そんなこと私なんかにできるわけなかった。
今、シリウスはどんな顔をしているのだろうか。呆れた顔をしているのかもしれない。
「それなのに…
変わってしまったのに…
貴方はもう私に優しくしてくれないのに、
ずっと、ずっとずっと…
あなたのそばにいたくて」
「嫌な奴だから、マグルと馴れ合うから、私を傷つけるから、
嫌う理由は山ほどあるのに…」
本当だよ。いっぱい嫌いな所はあるのに、なんで。
「……ずっと好きなの」
突然、何かが私を包み込んだ。
一瞬何がおこったのかわからなかった。
だけれど、その匂いは、あたたかさは、私が欲しくてたまらなかったもので、すぐに理解した。
懐かしく、あたたかい。
「うっ…うう…」
涙が止められない。
彼の顔は見えない。ずっと涙でぐちゃぐちゃな視界には映らない。鼻水だって混じってる酷い顔だ。
ローブに着いてしまうのに、それでも、シリウスは私を強く抱きしめて離さない。
嗚咽にまみれた私の言葉を何も言わずに抱きしめた。
「もう…離したりしないで」
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