血みどろ


虫すらも鳴かない夜。
抜足自慢の俺の足音さえ、そこら中に響き渡る心地のするような、そんな静かな夜だった。

錆びた段差に片足を掛けても、逆の足を上げる気にもならない。
手摺りにだらしなく身体を預け、溜息を吐く。
普段は何気なく上り下りしているアパートの階段が、今日は絶壁にすら見えて、実に恨めしい。
只、瞬身をやるチャクラも残されていない俺には、他に選択の余地がない。
俺の体重に一々悲鳴を上げるボロ階段を一段一段踏みしめて、漸く二階まで辿り着くと、俺の身体は情けなくも息切れを起こす始末。

そんな何時になくポンコツ状態の俺に、一体何ができただろうか。
気が付いた時には、もう手遅れだったのだ。

玄関を開けようと鍵を取り出す間に、俺は漸く察知した。
俺の部屋に、人の気配がある。
見知った気配の中でも、最悪のものだ。
名前だ。
中に名前がいる。

(まずい…)

何故だ。
何故こんな日に限って。
危機感からか、指が震える。
それでも、身体を動かす余裕はもう微塵も無い。
身を隠すことはもうできない。
俺が立てたであろう物音に、きっと気が付いたのだ。
立ち往生している間に、名前の気がどんどん近付いてくる。
それに従って、俺の心臓は早鐘を打つようになる。
最早棒とも言える脚は、不甲斐ない程にビクともせず、俺は立ち竦むしかなかった。
扉が開くのを、俺は只、黙って見ていた。

「カカシ、おかえ――――」

部屋の暖かな光を背負って現れた名前。
彼女の満面の笑みは、瞬く間に消えてしまった。
俺の姿を見ては息を呑み、口元に手を当てる。
今度は名前が立ち竦む番だった。
俺の脚は、嘘みたいに呆気なく動いた。
玄関に上がって、ドアを閉める。

「だ、だい――――」
「大丈夫、俺のじゃないから…。」

俺のじゃないからといって、一体何が大丈夫なのだろうか。
名前にとっては、恐ろしい光景であることに、一切、変わりはないだろうに。
数歩後退る名前の足が、フローリングにさらりと擦れる音。
対して、サンダルを脱いだ俺の足は、板材の上で、気色の悪い粘着質な音を立てる。
浅く、小刻みな、乱れた息遣いの彼女を、本当だったらすぐにでも抱き締めてあげたい。
代わりに俺は、玄関脇の浴室のドアノブに手を掛ける。
それを、ぬるっと滑る指で赤く汚しながら、俺は扉を開ける。

「名前、」

彼女の方へ振り向こうとしたけれど、途端に怖くなった。
彼女が俺を恐れているように、俺も、彼女を見るのが怖い。
結局、中途半端に俯いて、俺が付けた赤い足跡を、視界に入れる羽目になった。

「悪いけど、今日は帰ってくれ。」

湯船に背中を預け、床に脚をだらしなく投げ出す。
蛇口を捻って、シャワーを出す。
冷たい水が、ベストや衣服に当たって、ビチビチと音を立てる。
シャワーが温水になった頃には、俺の纏う衣服はずっしりと重たくなって、身体にみっしりと絡み付いて離れない。
排水溝へと流れていく湯は、流れても流れても、真っ赤な儘だった。

名前の気配は、しばし隣に留まっていたが、やがては出て行った。
湯船の淵に頭を預け、その内に俺は意識を手放した。



*



「そりゃあ酷え話だ、」
「ホント、かわいそうに、」

そうでしょう、俺かわいそうでしょう。
熱くなる目頭を指で摘んで俯く俺に、二人は慰めの言葉を――――

「「名前が。」」
ゴッ

――――かけてくれる筈もなく、卓で肘を滑らせた俺は、派手に額を打ち付けた。

「何やってんだオメーは。」
「五月蝿いわよ。」
「ひどい。」

こんな場末の居酒屋で、五月蝿いも何もないだろう。
卓に乗せた儘の頭をゴロリと動かすと、正体を無くした酔っ払い共(主にオッサン)が騒ぎ立てている様が目に入る。
きっとこんな風に項垂れている俺も、この風景にしっくりと違和感無く溶け込んでいることだろう。
ジョッキを呷ったアスマが、やがて煙草に火を点けるのが視界の片隅で見て取れた。
一方の紅は、口の中で何やらサクサクと言わせているから、牡蠣フライでも頬張ったに違いない。

「まあとりあえず食えよ、お前の奢りだがな。」
「奢るから慰めてって言ったのに、」
「そんなのアタシ達の勝手でしょ。奢ってはもらうけど。」
「ひどい。」

相談を持ちかける人選を完全に間違えた。
傷心状態極まりない俺を尻目に「ね、牡蠣美味しい」だの「俺にもくれよ」だの、「レモンがいいか」だの「タルタルがいいか」だの「間を取ってソース」だの、二人は向かいの席で遠慮なしにクソ程どうでも良いイチャパラを見せ付けてくる。
泣きたくなる代わりに、喉が渇く。
渋々ダルい身体を起こして、ビールを喉に流し込んだ。
通りがかった若い女の店員の盆に空いたジョッキを載せて、「同じの」と言って見送った。

「一般人と付き合うには、それなりの気遣いが必要だろうがよ、面倒臭えが。」

泡が豪快に垂れまくった状態で運ばれたジョッキを気にも留めずに呷る俺を一瞥し、タバコを潰しながらアスマが言う。

「お前は待機所に寄って、シャワーを浴びてから帰るべきだった。」
「あの日はそんな余裕なんかなかったんだよ。」
「なに、そんなにヤバい任務ヤマだったわけ?」
「んー、久々に結構ガチなやつ。」
「ふうん…。ま、いずれにしろ、行き倒れてでも直帰すべきじゃなかったわね。」

紅が柴漬けを頬張ってぼりぼりと咀嚼する度に、俺自身も粉々に削られていくような思いがした。

「鍵渡してりゃ、勝手に家に来ることもあるだろうがよ。」
「約束なしに来るなんて、今までなかったんだよ。」
「何かの記念日だったとか?」
「いや…、普通の日だった、筈。」

ビールをズビズビと啜る俺を見て、二人は顔を見合わせる。

「で、その後名前には?」
「会ってない。っていうか、帰ってない。」
「は?」
「怖くて家に帰れない。」
「…アンタまさか!他の女の所に」
「行ってないよ!そんなの、名前と付き合うようになってから、やめたんだ…」

彼女の名前を呼んだら、思わず尻窄みになってしまった。
泡がすっかり消え失せた、黄金色のビールの水面に、ハの字眉の俺が映り込んでいる。

あれから結局、出しっぱなしのガスが自動で切れて、冷水のシャワーが出てくるまで、俺の意識は飛んだ儘だった。
冷え切って重たくなった肉体に鞭打って、漸く身体を清めたのち浴室を出て、水浸しの服を洗濯機に突っ込んだ。

床もドアノブもサンダルも、何事もなかったかの様に綺麗になっていた。

きっと、俺がすぐに食べられるようにと、鍋の類に入れっぱなしになっていた料理達は、その儘蓋をして、全て無造作に冷蔵庫に突っ込んでしまった。
とても食べる気になれず、その儘布団に入って、また泥のように眠った。

あれからもう一週間が経った。
冷蔵庫の中で、あの料理達が腐ってしまっているのではないかと思うと恐ろしくて、情けなくも、俺の足はなかなか自宅に向かないのであった。

「なんだったの?」
「え?」

頬杖を突いた紅が、観念した様に、俺に向き直っている。

「あの子が作ってくれてた料理よ。」
「ああ…、俺が好きなものばっかりだったよ。煮物とか、煮浸しとか、土鍋のご飯とか、」
「サプライズしたかったのねえ、アンタを喜ばせたかったんだわ。」

可愛いじゃない。
そう言って笑うと、紅はレモンサワーに口を付けた。
その唇の赤は、散々飲み食いしたせいか、色が淡くなってきている。
頭の後ろで手を組んだ髭熊が、椅子に凭れて溜息なんかを吐いた。

「せめてナースとかだったらなァ、そんなものにも慣れてるんだろうが、」
「あら、女には厭でも月一のモノが来るんだから、その辺のなよっちい一般人の男よりは平気なものよ。」

周囲の酔っ払い達に視線を向ける紅を見て、アスマがニヤッと笑う。

「じゃあきっとくノ一は最強だな。」
「そ!その通り〜!」

紅はご機嫌に腕を振り上げると、その手をその儘俺の肩へと真っ直ぐに振り落とした。

「イッタ!」
「だからアンタ、今日は家に帰りなさいよ。それで、なるべく早く仲直りするのね。」
「別に…、喧嘩した訳じゃ、」
「向こうはそう思ってないかもしれないわよ?勝手に入って、余計なことして、嫌われて追い出されちゃった〜って、思っていたりしてね。」
「え、」

俺は思わず顔を上げ、二人を真面に視界に入れた。
二人とも真顔で俺に向き合っている。
周りの外野共は、ぼやけて俺の視界にすら入らなかった。

名前がどんな思いか、俺は考えもしなかった。
悪いことをした、そう思うばかりで。
自分が勝手に作った罪悪感にかまけて、名前の身になることすら忘れていた。

せっかくの好意を蔑ろにされた、その気持ちを。
せっかく必死で耐えた、その感情を。

碌に目も合わさず、浴室へ消える俺を見て、彼女は何を思っただろうか。
床の血を拭き上げている間、彼女は何を思っただろうか。
俺のボロ部屋に独り取り残されて、彼女は一体、何を思っただろうか。

「俺、帰る。」

出し抜けに立ち上がって、財布を尻ポケットから取り出した。
礼の一言も言わねばなるまいかと喉がムズムズしたけれど、それを知ってか知らずか、アスマが助け舟を出す。

「多めに置いていけよ、俺らまだ飲むから。」
「そうよそうよ、お金置いて早く帰っちゃえ、バーカ!」

まんまと笑い上戸に仕上がった紅と、早速嬉々と追加の注文を取るアスマと、そして自身の詰まらない罪悪感に背を向けて、俺はさっさと店を出た。



*



星がチラ付き、虫達が細やかに歌う夜。
アパートの錆びた階段をのしのしと上る。
コンクリートの外廊下をじゃりじゃりと踏みしめて歩いている内に、またしても異変に気付く。

俺の部屋から、見知った気配がする。
名前だ。
名前が、俺の部屋にいる。

(デジャビュ…か?)

鍵を取り出して、玄関前で立ち竦む。
あの二人に、俺のことを聞いて来たのか…?
いいや、この短時間で、名前の足で俺の家まで来るのは不可能だ。
何故だか分からないが、全く名前は勘が良いのか、鼻が効くのか、それとも虫の知らせとやらを受けやすいのか…。

今度は、名前の気配は中でじっとしている。
鍵は不要かとドアノブに手をかけたら、呆気なく開いてしまった。

「…名前。」

彼女は、玄関に入ってすぐのキッチンに立って、俺を真っ直ぐに見ていた。
俺の部屋に来た際に部屋着代わりにしている、俺のTシャツ一枚を着て。
裾から艶かしく伸びる、白い太もも。

「…ええと、久し」
「カカシ」

視線を泳がせる俺を余所に、名前の眼光はしっかりとしていた。
俺の名前を呼ぶと、名前はオーバーサイズのTシャツの裾をたくしあげる。
そしてさっさと下着を脱いで、その辺にペさっと投げ捨てる。
普段より心なしか布っ気が多い上に、微かな重みを感じるサウンドを放ったそれを、俺は惚けた頭で見遣る。
途端に、不快な様でも懐かしくもある、そんな微かな香りが鼻を擽る。
でも、何となく独特な――――、

『女には厭でも月一のモノが来るんだから』

やがて彼女の内腿に、赤黒い筋が、ゆるゆると伝っていく。
名前は続け様に、Tシャツまで捲り上げて潔く脱いでしまう。
一糸も纏わず、その滑らかな白い肌を晒す。
今や涙目になった彼女から、俺は目が離せない。

「して」
「は?」
「今すぐ」

今や八の字を寄せた彼女は、下瞼いっぱいにキラキラと涙を溜めている。
何が何だか分からずに、俺は不甲斐なくも狼狽するばかりで。

「名前、血が、」

辛うじてそんなことを言うお粗末な俺。
名前は俯いた拍子に、堪えていた涙をポロポロと床に落とした。
そしてそのか細い掌で、内腿の筋を乱暴に撫で広げる。

「ちょ、何し」

今や掌も内腿も真っ赤に染まった名前は、俺に歩みを進める。
腕を上げて、俺の首にしがみつく。
名前の肌の、甘い香り。
名前の身体の温もりと、重み。
そんなものを久しぶりに感知して、俺の腕は反射的に彼女の背中へと回る。
温かな、愛しい厚み。

「抱いて、お願い」
「…」

名前の身体をギュッと抱きしめて、その柔らかな髪に鼻を埋める。
名前の香りを肺一杯に吸い込んで、心が満たされる思いだ。
肌の柔らかさを指先に感じ取って、俺の身体の細胞達も歓喜しているのが分かる。

「血みどろに、なるよ。」
「血みどろに、なりたいの。」

一緒になりたい。

そんなことを彼女が言うものだから、その可愛い唇に俺のそれを合わせるのは当然のことだ。
溶かされそうになる程の熱い舌を味わっている内に、俺の心はあっという間に浄化されていく。

「ね、また、ご飯作ってくれる?」
「もちろん。」
「やった。」
「ふふ。」

冷蔵庫の中の料理達は、結局どうなってしまったのだろうか。
いずれにしても、名前はそれを既に見届けているであろう。










血みどろ




fin
21.05.07.



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