星とショーツとトランクス


ふっと目を覚ますと、青く光る空間が目に入る。
慣れ親しんだ、自分の部屋。
頭を向けている壁に嵌められた大窓からは、青白い光が入り込んでいる。
淡く光るレースのカーテンが、ふわり、ふわりと、膨らんでは萎みを音もなく繰り返している。
窓と向かい合う様に設置された青色のソファーが光を浴びて、ぼうっと発光しているかの様に見える。
それらの間を陣取るガラステーブルは、キラキラと輝いてすら見える。
そんな淡い光の漂う空気を吸い込めば、さらさらと爽やかだった。

矢鱈に明るい夜だ。
そんなことを思った。

私の腹にぐるりと巻き付く様な形で、力なくだれている逞しい腕をそっと持ち上げ、背中に直接当たる肌の温もりから離れた。
ベッドから這い出て、フローリングに散乱する衣類の中から、自分のショーツを見つけ出して、脚を通す。
あとはキャミソールだけ、頭から被った。

ベッドを見遣ると、カカシは相変わらず目を瞑った儘、音もなく呼吸をしていた。
以前のカカシからは、とてもじゃないけど考えられないことだ。
私が隣で身じろぐだけで、すぐに意識が浮上してしまう程眠りが浅く、神経質な男だったが、今ではすっかり変わってしまった。
私に安心しているのか、長い時間を経て、ようやく心から信頼してくれたということなのか。
それとも、長らく確信できなかった平和を、貪っているのか。


開けっ放しの窓を閉める前に、ガラステーブルに置いた儘にしていた煙草と燐寸、それに灰皿を持って、ベランダに出ることにした。
網戸を開けると、思わず、わあ、という声が小さく漏れた。

スパンコールを散り散りにして、滅茶苦茶にぶちまけたかの様な夜空だった。
夏の星座達がひしめき合い、滅多に見られない天の河さえ、鮮やかに目視できる。
確か今日は新月だ。
月の居ぬ間に、星達はパーティーでもやっているんだろうか。

サンダルを引っ掛け、ベランダ用の小さなモザイクテーブルの上に、灰皿を置いた。
昔カカシがプレゼントしてくれた、小振りのシェルの形をした、真鍮の灰皿だ。
匂いに敏感なカカシが、私の嗜みを受け入れてくれたという嬉しさも相まって、お気に入りの物になっていた。
しょっちゅう磨いては、ピカピカにしているけれど、それでも中心の方は変色してきていて。
勿体無い様な気もするけれど、今となっては、良い味になっている。

ソフトパッケージを指で弾いて、煙草を一本取り出す。
唇に挟んで燐寸を擦った途端、高台を登ってきた風に、炎を持っていかれてしまった。
何の役目も果たさなかった棒切れを灰皿に放って、今度は逆の手で煙草を覆いながら、新たな燐寸で点火する。

スーーーー・・・、

という音を歯の間から立てる様にして、肺に押し込んだ煙を吐き出す。
そうしながら、ベランダの塀に肘を付き、再び煙草に口を付ける。

木の葉の夜景は、今日も綺麗だ。
提灯や店先の橙の光や、家々の明かりが段々になって、あちこちで煌めいている。
こうやって煙草を吸いながら、夜のキラキラとした街を見下ろすのが、私の日課だった。

今日も、私が守った街。
私達が、守った街だ。

そんな充実感や、安堵や何かを実感しながら飲む煙は、格別だった。

でも今日の主役は、やっぱり星達だ。
こんな星空は、年に何回も拝めないだろう。
カカシを起こしてやろうかとも思ったが、よく眠っていたし、星の位置からしても、まだまだパーティーは続きそうだ。
もう暫し独り占めしても、バチは当たらないだろう。

小さな椅子に腰掛けて、素足の両膝を抱え込む。
夜風に晒された椅子の冷んやりとした感触が、下着越しの尻や、足裏に伝わる。

人差し指と中指に挟んだ煙草を口まで運んで、ストローで飲み物を吸う様に、煙を吸い込む。
先端が、オレンジ色に眩しく光る。
葉が燃え震える、ジリジリとした微かな振動が、指先に伝わってくる。
煙がだんだんと、温かくなってきた。
夜空に向かって煙を吐く。
その煙はすぐに、穏やかな風に攫われて、星空を邪魔することはなかった。
長くなった灰を、その都度灰皿に落とす。


「ここにいたの」


振り返ると、窓からのっそりと顔を出すカカシがいた。
心なしか、いつもより瞼が重たそうだ。
星の光を鮮やかに反射した銀髪が、キラキラと輝いている。

「ね、見て」

そう言って空に視線を移せば、わあ、という、私と全く同じ反応を見せる恋人に、口元が綻んでしまう。
私の物よりも大きい、ペアのサンダルに足を通したカカシは、塀の上に腕を組んで、星空を仰ぐ。
さらっとした風が、カカシの銀髪を揺らす。
光に照らされて、筋肉質の腕や背中に、歴戦の傷跡が浮き上がって見える。
若い頃よりも、薄らと脂肪を纏ってはいるけれど、抱き心地が良くって、しがみ付き甲斐があって、私は好きだ。
最後の一口を吸って、煙草を灰皿に押し付けた。

「随分と無防備なんですね、六代目サマ?」
「んー?」

煙草の先端で、先に落としていた灰をポンポンと、全て押し潰す様にして火種を消していた私の視界の端で、カカシがゆったりと振り返るのが分かった。
入念な消火に満足して見上げれば、片肘を塀に乗せたまま、此方に惜しげも無く上半身を晒している男がいる。

背中よりも、身体の前面の方が、傷跡が多い。
中でも、肩から脇腹まで、斜め一直線に伸びる傷跡は鮮やかだ。
教え子と初めて長期任務に出た際に貰ったものだとかで、とっくの昔に完治しているが、通常の肌の部分と比べて白く、引きつった様な感触で、光をよく反射する。
身体を激しく動かした時や、酒で熱ったりすると、薄らとピンク色に変化するそのツルリとした艶かしい傷跡の感触を、指や唇や舌を使って、執拗に確かめるのが、私の楽しみだった。

そんな傷跡達も、結局は筋肉の凹凸を強調して見せるものでしかなくて。
カカシの肉体の美しさを、彩るものでしかなかった。
例え、身に着けている物がトランクス一丁であったとしても、その気高さは変わらない。
私が下半身に視線を落としていたのに気付いて、カカシは「ああ、」と零す。

「名前だって、パンツいっちょでしょ」
「私は上、着てるもん」
「んー、むしろ、そんな風に膝立てて椅子に座ってたら、裸みたいに見えるよ」

エロい、
そんなことを言うカカシに、私は「あ、」と思い出す。

「ね、窓開けっぱなしだったんだけど」
「今日は涼しくっていいんじゃない?」
「そうじゃなくて・・・、開けたまましてたってこと」
「ああ・・・。じゃあ里中にお前の声が響き渡ってた訳ね」
「ちょっと、」

恥ずかしさで口角を歪ませると、カカシは声を立てて笑った。
その後も、穏やかに笑う両の黒い瞳は、暫し私をじっと見詰めていた。
眉を上げて見せると、カカシはじんわりと瞬きをして、夜の光に向き直った。

「名前」

もう一本煙草に火を着けようかと思っていた所だったのだが、どうやらそんな雰囲気ではないようだ。
どうしたの、そう発するよりも先に、口を割ったのはカカシだった。


「死にたくない。」


今日一番の風が吹き抜ける。
今迄ベランダの端に静かに佇んでいた観葉植物達が、葉を擦らせてバサバサと音を立てた。
顔のあちこちにかかった髪の毛を掻き上げる。
周到な地固めの甲斐あって、灰皿からの灰の飛び散りは少なかった。
カカシは相変わらず、組んだ腕を塀に乗せて、背中を丸めている。

裸足の儘、ベランダの混凝土を踏み締める。
ひんやり。
さらり。
ちょっぴりジャリジャリ。
そんな数歩を経て、カカシの隆々たる身体に、そっと手を回す。
脇腹の肌に指先で触れて、肋骨の気配や、筋肉の凹凸を感じながら、内側内側へと指を滑らせる。
掌の神経が、その肉感や体温に、満足感や充実感を感じて、歓喜に震える。
やがて私の両手はカカシの正中線を交差して、その身体に、腕が完全に巻き付く。
私の腕に、カカシは手を添えてくれた。
カカシを後ろから抱きしめて、耳を背中にピッタリとくっ付けると、カカシは続ける。

「死にたくないんだ。」

空気を震わすカカシの声と、カカシの体内から直接響いてくる音が、どちらも同時に聞こえてきて、変な感じがする。

「こんなの、初めてなんだ。」

カカシが私の片手を取ると、その儘上方へと引っ張られる感覚。
手の甲に、ほんのりと温かく、柔らかい感触。
暫しその感触は居座った後、ちゅ、という音を立てて、離れていった。
微かに湿った手の甲を、優しい風が撫でる。
絡められる指。

「この俺が、人生で初めて、死にたくないって、思っているんだよ。」
「うん、」
「俺は―――、」

その手をやんわり握り返すと、カカシは指の腹で、私の手の甲を撫でた。


「俺は名前を、・・・そして名前が住むこの木の葉を、この手で守るよ。」


うん。
そう返事をしながら、繋いだ手に、そしてカカシの身体に回した腕に、力を込める。
背中に密着した耳を伝って、カカシの心音が聞こえる。
それは一定に、強かに、私の耳を打つ。
肌同士が、お互いの湿度で、しっとり、ピッタリと密着する。
息を大きく吸って、ゆっくり吐き出している間に、カカシの甘やかな肌の香りが、鼻腔を擽った。

「名前、」
「なあに、」
「天の河を見ながら、」
「うん、」
「背中にお前のおっぱいの質量を感じるのも、乙なもんだね。」
「すけべ。」

カカシはいつもこうだ。
冗談と真面目が、いつも混濁する。
私に気を遣わなくても良いのに。
ふふふ、と笑いながら、手を、腕を、緩めていく。

「ね、ちょっと飲まない?」

その肩に、顎を乗せながら問うと、カカシは振り向く様にして首を捻る。

「なあに、飲み足りなかったの?」
「そうじゃなくて・・・、星が綺麗だから。」

そう言って微笑むと、カカシの銀色の睫毛が僅かに伏せられて、下瞼が擽ったそうに笑う。
黒い瞳に、爛々と輝く星が映り込んでいる。

「たまにはお前と深酒するのも良いか。」
「やった、」

腕を解いて、踵を返す。
足の裏に付いた砂粒を、逆の足の甲に適当に擦り付けて、さっさと部屋に入り込んでしまう。
ベッドと、テーブルやソファーの間を通って、カウンターキッチンにまっすぐ向かった。

冷蔵庫を開けて、酒を入れている棚を探り、葡萄酒を選んで取り出す。
他に何かなかったかと、瓶詰めやらパック詰やらを掻き分けていると、サラミソーセージの切れっ端が出てきたので、それも取り出した。
俎板を出すのが面倒で、ステンレスの作業台の上に、ラップに包まるサラミを置いて、その儘ラップを広げる。
御行儀は悪いが、その儘包丁を使って、作業台に傷を付けない様に工夫しながら、サラミを薄切りにしてしまう。
包丁と手を洗って、水気を拭いて、包丁はその儘戸棚にしまってしまう。
食器棚から手頃な陶器の器を出して、適当に盛り付けて、爪楊枝を二本、サクサクとサラミに刺してしまう。
後は、カジュアルながら品のある、脚のない薄手の葡萄酒用のグラスを・・・と思ったのだが、お目当ての物が食器棚から見付からない。
すると、さっきの食事の際に、焼酎を入れるのに使ってしまったのだと思い出す。
その証拠に、洗い物籠に水滴を付けた儘のグラスが、伏せて置かれていた。
拭き上げるのも面倒で、仕方なく、脚付きの洒落た物を取り出した。
ちょっと物々しい感じがして、普段は使っていない物なのだが、たまには良いのかもしれない。

左脇にボトルを抱え、その手にはグラスを二脚持ち、もう片手には器と開栓器を、我ながら器用に持って、ベランダに戻った。
カカシは新しく折り畳みの椅子を一脚広げて座って、星を見ていた。

「お待たせ、」
「わあ、大荷物じゃない、」

カカシは立ち上がって、グラスを受け取ってくれた。
お礼を言いながら、灰皿を端に寄せつつ、器やボトルを並べる。
テーブルを回り込んで、自分が先程まで座っていた椅子に腰掛けた。
その間カカシは、葡萄酒を開栓してくれていた。
酒を注ぐのは、カカシの役目だと、二人の間の暗黙の了解として決まっていた。

「何だか、ハイカラなおつまみじゃないの、オネーサン、」
「そ。六代目サマサマのおかげで、他国との物流が盛んになったからですわよん」
「その六代目サマサマは、明日ズル休みすることにしたよ」
「え?」

思わず耳を疑って、カカシを見遣った。
キラキラと光る銀色の睫毛を伏せて、ボトルを傾ける所だった。
注ぎ始めの特徴的な、トクットクッという小気味のいい音を立てる、淡い琥珀色をした液体。
グラスに収まったその水面には、星の光が散り散りに反射している。
まるで星入りの葡萄酒だ。

「明日は火影特権で、二人とも休みにしたから」
「私も?」
「そ。特権というかまあ・・・、職権濫用だな。」

もう式も飛ばしといた。
一切表情を変えずに、カカシは淡々と言って退けた。
嵐が来るわ・・・、
そう呟くと、カカシはふっと笑う。

「今迄、文字通り血の出る思いで仕事して来たんだもん、これくらい許してもらわないとネ、」
「へぇ、あの仕事の鬼がねぇ、」
「良いんだ。俺は今日という日を、名前と味わいたい」

これでいくらでも飲めるよ、
グラスを持って、そう冗談めかしながら、カカシは笑った。
目尻に薄く笑い皺が刻まれる。
私も、葡萄酒で満たされたグラスを手に取る。

「じゃあ・・・、人生初のズル休みに乾杯?」
「ハハ、乾杯。」

チン、
と軽くグラスを合わせた。
星の入ったグラスを傾けて、葡萄酒を身体に招き入れる。
不思議にとろりと、甘美に感じる。
するするとほどける様に身体に染み渡るのに、豊潤な香りはいつまでも消えない。

「コレ、美味しいね」
「ほんと。有機栽培だっていうから、買ってみたの。アタリで良かった」
「なんだか、ロマンチックだなァ、パンツいっちょだけど」
「ふふふ、」

二人揃って、滅多に見られない星を見ながら葡萄酒だなんて。
しかも、明日の事は気にしなくても良いだなんて、なんて贅沢なのだろう。
爪楊枝を摘んで、サラミを一枚、口に放り込む。
噛めば噛む程、雄々しい旨味と、それを膜の様に包み込む脂と、塩気が溢れる。
カカシは、なんだかクセになる、と言いながら、ついついお酒が進んでしまう様なその味を、楽しんでいた。
グラスが空いてくると、カカシがまた満たしてくれた。

湿気もなく、風も比較的穏やかで、実に気持ちが良い夜だ。
カカシは脚を組んで、グラスを持った儘背凭れに寄り掛かり、星達を眺めていた。

私達は、貴重な二人切りの時間を、じっくりと、噛み締める様に味わっていた。
しかしながら、必ずしもそこに、会話が必要な訳ではなかった。
お互いの間に漂う空気や、お互いの間に流れる時間が、お互いに、好きなのだ。
況してや星空に祝福されているのだから、寧ろ言葉なんて、必要ないのかもしれない。

「名前ー。」

カカシの間延びした声が響く。
随分とリラックスできているのが聞いて取れて、つい口元が緩んでしまう。
まったりとした空気に流される儘、私も返事をする代わりに、カカシにただ顔を向ける。


「俺多分、今日のこと一生忘れないや。」


そう言って、カカシも私に、視線を合わせる。


「こんな星空を見ながら、お前とお酒を飲んだことを。」


途端に私は、カカシから目が離せない。
星の光をふんわりと甘受する白い肌や、
星の光を艶々と反射する、柔らかな銀髪の一本一本や、
星の光をちりばめたような、その黒い瞳や。
それらの全てが、私を虜にする。

なんて綺麗な人間なのだろう。
そんな感動すら覚える。

私は、自分の胸が、むくむくと拡大していく様な心地になる。
温かい湯の様な物で満たされた私の胸が、どんどんと膨らんで行って、隣にいるカカシなんか、あっという間に飲み込んで。
自分の家や、木の葉の里や、あの膨大な星空まで、私の湯の球に吸収されていく・・・、
そんな心地になる。
それはとても、温かさでジンジンと痺れる様な・・・、命の喜び。

「ねえカカシ、」

モザイクのテーブルの上に、グラスを置く。
ガラスの擦れる、カチリと言う音が微かに鳴った。
背筋を正して向き直る私を見て、カカシも何事だといった顔で、グラスをテーブルに置く。
その大きな手を、テーブルの上に縫い止める様にして、上からふんわりと両手で覆う。
身体中に、歓喜の血潮が巡り巡っている。
今程、それを実感し、感謝した事はない。
顔を上げると、カカシと目が合う。
天の河を映す、その透明な黒い瞳と。


「カカシ、私と結婚して。」


丸々一拍程、カカシは無反応だった。
思考が停止したのか、逆に物凄い勢いで情報を処理していたのか、私には分からない。
ただ次の瞬間に、眉間がピクリと痙攣したかと思えば、私の手が振り払われると同時に、カカシの椅子はガタガタと派手な音を立てた。

「チョット・・・!」

気付けばカカシは私を見下ろしている。
嫌悪とも、落胆とも、苛立ちとも、絶望ともとれる表情で。
眉を顰めて、真っ黒い瞳を揺らし、手の甲を口元に当てている。
私から視線を引き剥がして、混凝土に目を落としたかと思えば、荒い溜息を吐く。
あからさまに機嫌を損ねた様子で、その儘くるりと、カカシは部屋の中に戻って行った。

「・・・えぇ、」

思わず間抜けな声が喉から迫り上がった。

どゆことどゆことどーゆーことー??
プロポーズしてキレられるって、こんなことある?
断られるならまだしも、キレられるってどうゆうことなのマジで。
あれ、もしかして酔ってるとか思われた?
酔っ払いが面倒臭い絡み方してきてウザいって思われた?
いやそりゃ飲んだからほろ酔いだけどお酒の勢いで言った訳じゃないし、それに泥酔してる訳じゃないってカカシなら分かる筈だし、そもそもどんなに酔っ払ったとしても心配してくれたことはあっても怒られたことなんてないし。
って言うかそもそも、こんなに長い付き合いの中であんなにもあからさまな負のリアクションを浴びせられたことなんかないんですけど?
あっ、結婚?
結婚がダメだった?
もしかして結婚禁句だった?
せっかくロマンチックな雰囲気だったのに急にリアルなこと言ったのがダメだった?
実は結婚なんて絶対にしないマンだった?
それとも私なんかとは絶対に結婚したくないマンだった?
紙切れなんかでこの俺が縛られてたまるかマンだった?
今だってほとんど半同棲のようなものなのに?
ほとんどどっちかがどっちかの家にいるのに?
二人の内のどちらかがオールモストエブリデイ朝帰りもしくは直出勤なのに?
どぉーーゆうううことなのマジで!?

恐る恐る腰を浮かせて、窓越しに部屋の様子を覗き込む。
私の部屋に来ると真っ先に脱いでしまう六代目用のベストとポーチ。
それらを吊るしていたハンガーから取り外している所だった。

え?
帰んの?
帰っちゃうの?
マジで?
そんなになの?

「ちょ、」

そんなカカシの様子を視界に入れた儘、部屋へ向かおうと慌てて脚を伸ばすが、カカシが座っていた椅子に、情けなくも脛を打ち付けてしまう。

「いっ、た!」

骨にカーンと響く痛みに、思わず涙が滲む。
痛みと内出血が飛んでいく様に願いながら、脛をゴシゴシとさする。
と、こんなことをしている場合ではないと、顔を上げると、カカシがこちらに大股でズンズンと向かってきている所だった。
窓から顔を出したカカシは、相変わらず眉間に皺を寄せている。
暫し顔を合わせた儘、無言の時間が続く。
するとカカシはもう一度盛大に溜息を付き、頭をガシガシと掻いた。

「座って」

未だ怒気の様なものが滲んだ風な声に聞こえるが、さっきよりは落ち着いている様な気もする。
しかしながら、逆らってはいけない様な、そんな威圧感は少なからず感じる。
間抜けな中腰の体勢を落として、カカシに視線を向けた儘、大人しく椅子に腰掛けた。
それを確認したカカシは、自らも椅子に腰掛ける。
そして前触れなく、カカシは手の甲を上にした拳で、テーブルにコンッと音を立てた。
その音に、私は肩を竦ませる。
私が先程、カカシの手を握った場所である。
カカシの拳は、少しずつ形を崩し、波の様に引いていった。
テーブルの上には、小さな箱が残る。
瑠璃色のビロードの生地で覆われた、掌サイズの、小さな、箱・・・。

「は?」
「俺が言おうと思ってたのに」
「ハァ?」

全身が脱力してしまった私は、上半身をカカシの膝に預けてしまう。

「もおおおなんだあ、怒ったかと思った!」

腕をバタバタさせて暴れていると、カカシの手がそっと項に触れる。
髪をくしゃくしゃと撫でられて、その指先の柔らかなタッチと、掌の温もりで、ようやく安心できた様な気がした。

「・・・怒ってたよ」

名前にじゃないけど、
不意にそんな声がする。
私はカカシの腿に腕を突っ張って、上半身を起こす。
カカシの方を向くと、その端正な顔が、目の前に迫る。

「一生に一回なんだから、完璧にやりたかったんだよ俺は。なのに・・・、」

なんで先に言っちゃうの、
そんなことを、唇を尖らせながら、この男は恨みがましく宣うのだ。

「しょうがないでしょ、言いたくなったんだもん!」
「ダーメ!俺なんか、ずっと前からずーっと言いたかったんだから」
「何よぉ、今日だっていくらでもタイミングあったでしょ、」
「ないよ」

カカシは語気を強め、眉間に皺を寄せる。
暫し睨めっこを続けていたが、いつもの様に、カカシが先に折れた。
はあ、と声を出して溜息をついた後、身体を背凭れに預け、テーブルの方へ視線を向ける。

「開けて」

カカシは静かにそう言い放つ。
目の色を窺うと、その黒い瞳は凪いで澄んでいる。
カカシの脚から手を浮かせて、椅子に座り直す。
瑠璃色の四角い小箱に、そっと両手の指で触れる。
見た目以上にビロードが柔らかで、滑らかで、手先が喜ぶのを感じる。
カカシはこの箱を、常に持ち歩いていたのだろうか。
時たま触れては、私を想っていたのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に胸の緊張が高まってきた。
左手で、箱の下部を指で挟んでテーブルに押さえ付けながら、右手で蓋部分に手を掛ける。
手前に添えた親指で、蓋をそっと開けようにも、バネが硬くて、中々持ち上がらない。
優しくすると付け上がるタイプらしい。
心の中でよしと気合を入れて、右手の親指にぐっと力を入れて、一思いにパカりと明け放つ。

「えっ」

と、思わず口を覆う。
それと同時に腰を浮かせて、私は半ば椅子から立ち上がっていた。
暫し指輪に釘付けだったが、パッとカカシの方を見遣ると、「ほらね」と顔に書いてある。

「どうしたの、これ」

小指の爪程の大きさはあろうかというダイヤが、誇らしげに、燦然と輝いていた。
シンプルなラウンドカットに、シンプルなプラチナのリング。
だからこそ、ダイヤの大きさが際立つ。
本のちょっと見る角度を変えるだけで、シャープな光が大胆に遊び回る様な、吸い込まれそうになる様な、見事な逸品だった。

「・・・確かに、トランクス一丁で出していいような指輪じゃないわね」
「でしょ、」

おいで、
カカシはそう穏やかに言うと、私の右手を取る。
私は反対の手で指輪の箱を持って、導かれるまま、カカシの膝の上に、横向きに座る。
右腕をカカシの肩に回すと、カカシは私を抱き込む様にして、腰に左腕を回す。
その手で箱を受け取って、大きなダイヤの鎮座するその指輪を右手で取り出すと、箱をテーブルにおいた。

「左手貸して、」

私を抱き込むカカシの左手が、私の左手を取る。
カカシが、右の親指と人差し指でそっと挟んだ指輪を、私の薬指に、ゆっくり、ゆっくりと、通していく。
当たり前の様に、指輪は指にフィットした。

「わあ・・・、」

私は思わず、手を夜空に掲げる。
チラチラ光る星たちと同じ様に、ダイヤも瞬いているかの様に見える。

「星みたい」

そう呟いた後、この銀色の輝きは・・・、まるでカカシの色みたいだ、とも思う。
カカシが私の為に選んでくれた指輪、ではあるけれど。
この鋭くも優しい光と、どこまでも澄んだ銀色と、指に感じる奇妙な温かさは、奇しくもカカシを連想させるものでしかない様に思う。

「名前、」

左腕で私を抱き抱える様にしたカカシは、その長い右腕で、私の左手を握る。
すすすっと引き寄せたかと思えば、輝くダイヤに、その唇を寄せた。
カカシの長い、銀色の睫毛の艶が、ふるふると、揺れている様に見える。
カカシの唇の温もりが、ダイヤを伝って指に伝染するかの様だ。

ちゅ、
と綺麗な音を立てると、カカシは徐に顔を上げる。

「お守りだよ。」

滅多に見られないカカシの上目遣いに、不覚にもドキドキしてしまう。
もう何年も一緒にいるのに。
「美人は三日で飽きる」なんて言うが、あれは真っ赤な嘘なのだということを、こういう時に思い知る。

「普段はこんなおっきいの邪魔だろうから、首から下げられる様に、チェーンも貰ったよ。ちょうど、この辺りに来る長さの・・・、」

そう言うと、カカシの人差し指が、私の胸骨の辺りに触れたかと思えば、スルスルと、肌を撫で、キャミソールの生地に乗り上げて、胸の真ん中で動きを止める。
その淡いタッチに、身体の中心が、性懲りも無く、熱くなってしまいそうだ。
私の鼓動が、カカシの指越しに伝わってはいないだろうかと、ヒヤヒヤしてしまう。
気を逸らしたくて、指輪に目を遣った。
キスのおまじないによって、命でも吹き込まれたのではないかという位、その存在感は、不思議と更に増した様に見える。

「随分と高そうなお守りだなあ」
「名前ぐらい素敵な女性は、それくらいの指輪じゃないと」

それに、俺火影だから大丈夫。
カカシはそんなことを言って、ニヤリと笑うのだ。
普段は「火影」呼ばわりされることに辟易しているこの男が。

「だから、これを俺だと思って、毎日身に付けて。何があっても、この指輪が名前を守るから。」
「そんな、大袈裟な、」
「大袈裟なんかじゃない、」

半ば笑いながら言う私を突然、筋肉質の腕を使って、グッと力強く抱き寄せる。
カカシの顔は、私の胸の間にすっぽり収まる。
次第に締め付けが強くなる腕の中で、私の背中は徐々に反っていってしまうような心地だ。
一方のカカシといえば、子どもの様に、これ以上埋まらないはずの鼻先を、私の胸元に、グリグリと擦り付けている。

私だって一端の忍だ。
ちょっとやそっとじゃ、やられることなんかない。
それでも、いつ何があるか、分からないのが、忍だ。
いつ何があるか、分からないのが、人間だ。
そしてこの男は、それを誰よりも理解し、恐れている。

火影になってからのカカシは、随分と過保護になった様に思う。
任務を割り振る側の立場に立ち、今や里外に出ることも滅多にない。
片や主要戦力の私は、必然と高ランクの任務を請け負う率が高く、あちこち飛び回っては、危険と隣り合わせだ。
それをカカシは面白く思わない。
私にそんな任務を振る度に、カカシがそのマスクの下で、苦虫を噛み潰したような顔をしていることを、私は知っている。
一時期、カカシが故意に、その様な任務を私に宛てがわない様にしていたことが発覚して、大喧嘩になった。
私を信頼していないばかりか、それこそ職権濫用であると窘め、今後ない様に誓わせたのだった。
だんだんと平和になってきていたこともあり、死に直面する様な依頼や要請も比較的減少傾向にあることから、カカシも渋々といった感じで、私の主張を呑んだ。

自分が現役の頃は、大した説明もなしに、ホイホイと任務に明け暮れていた時期もあったというのに・・・、現金な男だ。
そう思うのも、事実ではあるのだけれど。

私がこの男に「信頼」という概念を振り翳した以上、私は何が何でも、生き延びなければならないのだ。

「わかった、」

指輪の嵌まった手で、カカシの柔らかい銀髪を撫でる。
私の手肌の色も、指輪の光も、カカシの銀色の髪の毛に良く馴染んだ。

「こんなに素敵な指輪、身に付けない理由がないものね。」

そう言って、カカシの頭にキスを落とすと、漸く腕の力が緩まった。
頭を優しく抱き締めて、「ありがとう」と言うと、カカシは「うん」と言いながら、私をゆるゆると解放した。

「本当は、雰囲気のいい美味しいレストランで、ちゃんとプロポーズしようと思ってたんだ」
「じゃあ明日行こうよ!」

これでズル休みの大義名分も立つし、
そう言うと、カカシは私を見上げながら、訝し気に眉根を寄せる。

「婚約くらいじゃ言い訳にならないでしょ、」
「は?何言ってんの?現職の火影の婚約よ?しかも、あの『はたけカカシ』の」

大騒ぎになるわよ、
そう言っても、カカシはピンと来ていない様だった。
これで私もいよいよ、毎晩夜道に気を付けなくちゃいけなくなったわ、
そう漏らすと、カカシは「大袈裟だなあ」と言って、まともに取り合わない。

「今に分かるわよ」

そう言って男を睨み付ける。

「名前」

対して男は、穏やかな笑みを浮かべたかと思えば、私の頬に、その温かくて大きな掌を、添えるのだ。


「愛しているよ」
「なっ・・・!」


反射的に顔を背けて、カカシから逃れようとする。
しかしながら、離れることは叶わず、背中越しに抱き寄せられる形となった。
太い両腕が、私の腹にグルリグルリと巻き付いて、離れない。
首から上が、燃え上がる様に熱い。
脇から、汗まで滲んできてしまう。

「アハ、照れた。耳まで真っ赤だよ、」
「う、うるさい!」

本当に、ずるい男だ。
滅多に口にしないことを、こんな時に、ここぞとばかりに、駄目押しの様に、止めを刺す様に、使うだなんて。

腕を外そうと暫しもがいていたが、ビクともしない。
いつまでも私の身体を、温かく縛っている。
とうとう私は、諦めるしかなかった。
カカシの上半身に、背中をすっかり預けてしまう。
満足気な笑いが、カカシの喉からくつくつと響くのが聞こえる。
カカシの深呼吸が、私の身体を持ち上げた。

「重くないの?」
「心地いいよ。」

そう言いながらカカシは、私に回した手の指で、キャミソール越しに、私の脇腹を撫でる。
それが何だか甘やかなので、私はカカシの肩に、後頭部まで預け、全てをカカシに委ねてしまう。

「・・・あ、」
「ちょっと、何ソレ、」

脚を伸ばして脛を見遣ると、案の定、少し腫れてきていた。
赤くなってる、
そう言うと、カカシが「どれ、」と言って腕を伸ばすので、膝を曲げて、脚を引き寄せる。

「さっき椅子にぶつけちゃって、」
「相変わらずそそっかしいね、お前は」

カカシの大きな掌が、腫れを包み込む。
痣になっちゃうかな、
そう言うと、カカシはその腫れを優しくさすってくれる。
大きくて、皮の厚い、温もりの掌。

「せっかく綺麗な脚なんだから、気をつけてよ」
「だって・・・、」
「何、」
「カカシが、帰っちゃうかと思ったから、」
「帰らないよ、」

腹に巻き付く腕にグッと力が入り、密着した身体を、カカシは更に抱き寄せようとする。
私のこめかみに、その柔らかな唇を暫し押し当てていたかと思えば、頭をグリグリと擦り付けてくる。
お互いの髪の毛が擦れ合う、パチパチとした音が、頭皮に直に伝わってくる。


「帰るわけないだろ」
「うん・・・」


間近で響くその低い声に、私は心から安堵する。
腹に回る腕に、自分の手を添える。
もう一方の手を持ち上げて、カカシの後頭部に触れる。
その猫っ毛を、わしゃわしゃと撫でると、カカシは再び、こめかみにキスを寄越した。


「カカシ、」
「なあに、」
「明日は、カカシがプロポーズしてね」
「ハイハイ」


指輪の嵌まった手を、満天の星空に掲げる。
星の瞬きに、負けず劣らずなダイヤモンド。
指を動かしたり、手の角度や形を変える度に、そのダイヤに住み着く光は、転がる様に走り回る。
そうやって銀色の石と遊んでいると、私の口元も、思わず綻んでしまう。
きっと、このダイヤを見る度に、私は今日という特別な日を、そしてこの稀に見る星空を思い出しては、噛み締めるのだろう。

「きれい。」
「ま、お前には負けるけどね。」
「わぁ甘い、甘すぎてサラミ食べたいからもう離して、」
「ひどい、」

カカシがくつくつと笑うと、上に乗る私の身体までも、小刻みに揺れる。
それが、まるで揺り籠の様に心地良くって、私はそれを甘受するのに、ゆっくりと、目を閉じた。










fin.

/20.07.23



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