私は、煙草を吸う方ではない。
その煙も、取り分け好きという訳でもない。
寧ろ、苦手な部類に入る。
はっきり言ってしまえば、嫌いだ。
だから、周りの子達が吸っていたとしても、私がそうすることはない。
服は勿論、髪の毛にまで染み付いた臭いは少なくとも二日は取れなくなるし、煙の中だと思い切り呼吸が出来ないし、何より肌に毒だ。
当然、身体にも悪い。
言うまでもないけれど。

それなのに。
そう、それなのに。

唯一、好きな香りがある。
それは、不思議と甘い匂いのする煙。
チェリーの味がしたりだとか、そんな女の子の興味を唆る様なマニアックな煙草ではなくて、名の知れた銘柄であることは恐らく間違いないはずなのだけど。
残念ながら、私はその銘柄を知らなかった。
時偶、人通りの多い街中でその甘い香りが漂ってくると、くんくんと鼻を働かせながら周りを見渡すのだけれど、手掛かりは一向に掴めない。
その煙草は一体何という銘柄なのか、私が好きな煙は一体何という名前なのか。
自分が煙草を吸う訳でもないから、態々片っ端から買って試して見る訳にも行かないため、その疑問は私の頭の片隅で長い間巣食っているのだ。

だから、閑静な住宅街に差し掛かった帰り道。
塀に寄り掛かった見知らぬ男の後ろ姿から漂って来た煙。
私が探し求めて来たその甘い香りに吸い寄せられたのは、当然のことだったのかも知れない。











普通ならば、銀という珍しい髪色に気を取られそうなものだが、何しろ私の目的は煙。
頭の中を煙で一杯にして、只々男に近付いて行った。
黒のスーツを着熟したその男は目を伏せ、両手をパンツのポケットに突っ込んでいた。
指で煙草を挟むことさえ怠いといった様子で、唇の端に銜えた儘、器用に煙を吸っては吐いていた。
私の視線に気が付いたのか、いつまでも去らない気配が気になったのか、男の長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。
同じ様にゆったりとした動きで顔が此方に向くと、異なる色をしたその瞳が私を見下ろした。
髪の毛の色といい目の色といい、変わった色を沢山持った人だなと思った。
それに、整った顔立ちをしている。
とろんとした目付きも色っぽいけれど、何より、煙草を挟んだ口元。
煙草に優しく押し上げられた上唇と、フィルターの脇に空いた口唇の隙間に、釘付けになってしまった。
男が目を細めると、唇の肉が煙草に吸い付く様にして絡み付き、闇の様だった隙間を埋める。
少し突き出た格好になった唇が煙を吸い取ると、スラリと長い二本の指が煙草をズルリと抜き取った。
つるんとした下唇の裏側が一瞬覗く。
男が無造作に吐き出した甘い煙を浴びると、私は身悶えする程の快感を覚えた。
視界と共に、頭の中まで真白になった気がした。

「…何?」

心地好い低声は、その煙の様に甘い。
身体を蝕む煙の様に、私の奥深くまで、じわじわと侵食する。

「何見てるのって、聞いてんの。」
「…あっ、」

煙草を指に挟んだ儘の手が、私の顎を掴む。
男は眉間に皺を寄せて、私を睨んでいる。
どうやら、腹の虫の居所が悪いらしい。
何か言わなければ、そもそもの目的を告げなければ。
そんなことを必死に考える一方で、男の鋭い目線に喜んでいる自分もいた。
顔の右側から上がる煙が目に染みる。
目を細めつつ、私はゆっくりと唇を割った。

「あの……、一本、頂けませんか。」

自分の言ったことが信じられなかった。
この香りは好きだけど、煙草は吸わない私なのに。
私は銘柄さえ、銘柄さえ聞くことが出来れば満足出来たはずなのに。
この口を衝いて出た言葉が信じられない。
目の前の男も、流石に拍子抜けした様だ。
馬鹿みたいな発言をしたのだから、無理もない。
況して、セーラー服を着た女子高生となれば、尚更可笑しいはずだ。

「…、ほら。」

煙草を銜え直した男は、上着のポケットに長い指を滑り込ませる。
パッケージを取り出して一度振る様な仕草を見せると、煙草が一本飛び出した。
男が握っているせいもあるし、パッケージがくしゃくしゃになっているせいもあって、銘柄のロゴは見えない。
見上げれば、訝し気な顰めっ面。
要るのか要らないのか、威光の目差しがそんな風に私を急かしていた。
他になす術もなく、飛び出たフィルターを親指と人差指で摘み、そろりと引き抜く。

…そうだ。

確か煙草その物にも、銘柄がプリントされているはずだ。
少なくとも、父の吸う煙草にはそれがあった…気がする。
灰皿に溜まった灰臭い吸い殻を始末する時に、ちらりと目にした覚えがある。
煙草をくるりと回して確かめようとしている内に、カチッとか、シュッとかいう音がした。
顔を上げると、男が持っていたパッケージはシンプルなジッポと入れ代わって、小さな炎を点していた。

…最早選択肢はないらしい。

きっと、私は緊張した顔をしているのだろう。
心臓がバクバク言っているし、指先が微かに震えているせいで煙草まで振動している。
初めての煙草って、こんなに緊張するものなのだろうか。
小さな肝っ玉に、罪悪感と背徳感が大きな津波となって押し寄せる。
斜め上からの視線がある手前、今更引き返す訳にも行かない。
意を決して、煙草の先を火に付けた。

「…君さ、」

急に声がしたものだから、驚いて身体がビク付いた。
無意識に竦めてしまった肩が、恥ずかしい。
幸い、今や先から焦げ臭い匂いを発する煙草は取り落とさずに済んだけれど。
恐る恐る目を上げれば、心底呆れた様な顔があった。

「吸わないデショ、煙草」
「…え、」

男は何の躊躇いもなく、短くなった煙草を塀に押し付けた。
先をジリジリと擦すり付けるものだから、黒い蛇の様な跡が混凝土に刻まれた。
その儘煙草を放った長い指が、先の焦げた物を私の指から掠め取る。
薄い唇に挟むと、ジッポで火を点す――…。

「吸いながらじゃないと、火は点かないんだよ、お嬢サン。」

再度浴びせられた煙草の煙に、頭がくらくらしていた。
大好きな甘い煙に酔っていたのか。
はたまた目の前の男に酔っていたのか、定かではないけれど。
何れにせよ、目の前の男が、私の好きな煙を吐いていることには変わりない――…。

パシン、という乾いた音が、甘い陶酔に終止符を打つ。
痛む頬が次第に熱を帯び、じんじんと疼く。
頬を押さえながら見上げれば、いけしゃあしゃあとして、銜えていた煙草を指に挟む男。
きっとあの手で、平手を打ったのだろう。

「何トリップしてンの。」
「…あ」

無表情に見えた顔でも、声色からまた苛付いていることが窺えた。
男の周りに、拒絶の空気が出来上がりつつあった。
早々に手を打った方が良さそうだ。
否、その方が良いに決まっている。
男が完全に機嫌を損ねてしまっては、目的が果たせないのだから。
長い間探し求めていた答えが、目の前にあるのだ。
みすみす手放す訳にはいかない。

「用がないなら消えてくれない?折角の休憩、邪魔されたくないんだけど。」
「あのっ…!」

急に声を張り上げた私に、男は至極面倒臭そうに眉を顰める。
お構いなしに、「銘柄を…」そう言い掛けて、口籠ってしまった。
煙の混じった溜息を吐く男が呆れてどこかへ行ってしまう前に、男を引き止めておくためにも早く何か言わなければならないと分かっているのに。
考えを巡らせる度、頭の中をあれ程長い間占めていたはずの疑問を、いとも簡単に掻き消す好奇心。
私の好きな甘い匂いを纏う、この男。
一緒にいたら、身体中痛め付けられてしまいそうな、この男。
まるで煙草の様なこの男の名前が、今は欲しかった。

「名前…、」
「…」
「お名前を…教えて下さい。」

男は片眉を吊り上げただけで、ポーカーフェイスは余り変わらなかったけれど。
長くなった灰を絶妙なタイミングで、ぽとり、と取り落した煙草自身が、彼の代弁を勤めた様にも見えた。
直後、男は盛大に溜息を吐くと、至極煩わしそうに頭を掻き毟った。
次に目を合わす時には、眉間に深い皺が刻まれていた。

「…どうして。」
「…」
「どうして、見ず知らずの君に名乗らなきゃいけないの、俺が。」
「…どうしても、知りたいん、です…。」

尻窄まりになった私を暫く黙って見ていた男は、指に挟んだ煙草を口に運んだ。
先がオレンジ色に光ると、男は大きく息を吸い込み、吐いた。
何度目かの煙を浴びて恍惚に目を細めながらも、色違いの瞳から届く、射抜く様な鋭い目線に、懇願のそれで必死に応える。

薄い唇。
弧を描いたかと思えば、片側の口角がもう片方を置き去りにして吊り上がって行った。
目元は笑みの形を作っているのに、瞳の奥は劈く様な冷たさを孕んでいる。
只問題は、瞳の温度より、それを喜ぶ私自身にある様に思えた。
薄い唇が勿体振る様にねっとり開いた時、私は遂に確信してしまう。
きっと、この男は――…


「カカシ、だョ。」


煙の様に、クセになる。










08.03.08.

21.06.26.

過去作レタッチ。
ドSリーマンカカシとドMJKヒロイン。



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