白馬の王子様


「雨乃さん、ご指名です、」

新米のボーイがそう声を掛けに来た時、私は後始末、、、をすっかり終わらせて、椅子に腰掛けて休んでいた。
私がスリップ一枚でいるのを認めると、ボーイは目を泳がせた。
今となっては、実に新鮮な反応である。
何故こんなにウブな子が、こんな仕事をしているのか。
可愛げがあって好感が持てるが、残念ながら、それよりも失望感が上回った。
このボーイがもたらした知らせのせいで、今日も出ずっ張りとなることが確定したためだ。
唯一空いていたスポットだったのに…、まあ、いつだってこうなるのだが。

当て付けのように、長ったらしい溜息を吐いて見せる。
ビジューだらけのシガレットケースから、ロングタイプの煙草を一本抜き、唇に挟む。
一緒に収納してあった、ワンコインのライターも取り出した。

「誰?」

手で覆ったライターのフリントホイールを回すものの、火花が散るばかりで炎は一向に出てこない。
こうなる度に、新しいライターを買っておかなければならなかったのだった、という事実を思い出す。
シュッ、シュッ、と空振りの音を何度も立てている間に、「ご新規様です」という、おっかなびっくりな声色が響いた。

舌打ちをしながらライターを振る。
シュ、シュ、シュ、シュ、と立て続けに歯車を回している内に、根負けしたように、ようやく火が出てきた。
煙草の先に灯を移して、時間をかけて煙を吸う。
乾いたリップ音を立ててフィルターを開放し、天井に向かって深呼吸した。
ボーイの方にゆっくりと顔を向けると、オイタがバレて叱られ待ちの仔犬みたいな顔をしていた。
少し、苛め過ぎたかもしれない。

「…はぁい、」

間延びした返事を寄越して、再びフィルターに口を付ける間に、ボーイは会釈をして逃げるように去って行った。
どこを見るでもなく煙を吹かしながら、私の頭は律儀にも、これからの段取りを追っていた。



*



足音が近付くのが聞こえて、扉の方へ向かう。
膝を突いて待機していると、ノックの音が響く。
私は返事をすると、三つ指を突いて、頭を深々と下げる。
ドアが開くと、革靴の踵の音が、間近で数歩分響く。
競うようにして、一緒に部屋に流れ込んで来ていた廊下の乾いた空気も、ドアが閉められると止んでしまった。

「お待ちしておりました。」

床の間近で声を発すると、自分の声がくぐもって聞こえる。
口角をキュッと引き上げて、私はゆっくりと上体を起こしていった。
然りげ無く腕を寄せて、胸元を強調することも忘れない。

「雨乃です。よろしくお願いします。」

少し首を傾げるようにして見上げると、背の高い、スーツ姿の男が立っていた。
色は全てトーン違いのグレー系で統一しており、難しいコーディネートを良く着こなしているな、と思った。
髪の毛が銀髪だから、良く似合うのかも知れない。
前髪がかかった左側の目には、ガーゼでできた眼帯を付けている。

「君が雨乃ちゃん、」

男は、場違いのように凪いだ、コクのある声を響かせた。
ゆっくりと立ち上がって顔を合わせると、同じように凪いだ、掴み所のない目線が、私の身体を上から下まで、サラッと往復した。

「写真なんかより、断然綺麗だね。」
「うれしい。」

笑って見せると、男も眉尻を下げて、口角を上げた。
口元の黒子に、女泣かせの雰囲気を感じる。
男に履物を脱いでもらうよう促す。
上等そうに見える革靴を履いていたので、跪いて靴紐を解こうかとも思っていたが、男は踵をすり合わせるようにして、さっさと脱いでしまってた。
持ち物には、あまり頓着しないタイプなのかもしれない。
男が段差を上がると、やっぱり背が高いと、改めて感じる。

「お上着、お預かりしますね。」

男の胸に両手を添えて密着し、上目遣いを向け、勿体振るように言う。
目を合わせた儘、手を下へ滑らせて、ボタンを一つずつ外していく。
前を開けて、男の腹部から胸元の方へ、掌を滑らせていくと、サラッとしたシャツ越しに、硬くて丈夫な筋肉の感触が伝ってきた。
その儘、肩の方まで撫で上げて、上着を滑り落とすように脱がせていく。

「スーツ、とってもお似合いですね。」
「そうかな。」
「ええ、脱がせるのが勿体無いみたい。」
「普段は着ないんだけどね、ドレスコードがあるって言うから。」

上着をハンガーに掛け、壁のフックに吊るしていると、男は後ろから、その壁に片手を突いて、その大きな身体で私を囲い込むようにする。
私の耳元に、男の顔が寄せられるのを、温度で感じる。

「君は、随分と情熱的な格好をしているね。」
「…そう?」

声を潜める男の方に首を傾けて、上目を遣う。
優し気な黒い瞳が、私を見下ろしている。

「赤が、とっても良く似合ってる。」
「うれしい。今日何を着るか、すごく迷ったから。」

胸倉の深く開いた、谷間を強調するドレスを着ていた。
ノースリーブの、タイトなミディー丈で、脱着は背中のファスナーで簡単だし、後ろ側にスリットが深く入っているから、何なら直ぐに跨げる、、、

「素敵だよ。」

男は言うと、下瞼を使って優しく笑った。
良い感じに、濃密な雰囲気になってきた。
振り向いて、腕を男の首に絡め、抱き付こうと考えた、矢先。
意に反して、男は呆気なく、私から離れて行った。

「先に入っても良い?」

飄々とした様子でそう言いながら、私の返事を特に待つこともなく、ビーズのカーテンを片手でジャラリと寄せて、さっさと中に入って行ってしまった。
私は革靴をサッと揃えてから、男の後に続く。

男はパンツのポケットに両手を突っ込んで、部屋を見渡していた。
口元から白い歯まで覗かせて、まるで玩具屋に入った子どもみたいな顔をしている。

「すごいな、本当に部屋の半分がお風呂みたいになってる。」

俺、こういう所、初めてなんだよネ、
ネクタイを緩めながら、男はあっさりと、そう言って退ける。
私は一瞬惚けたのちに、フッと吹き出してしまった。

「何?」
「いえ、素直な方なんですね。」
「だって、本当だから。」

そう言って、蒼く輝く袖のカフスに手を掛ける男。

「待って、」

男に歩み寄って、その手を制する。
訝し気にしている男の手を、やんわりと握る。

「私の楽しみなんですから。」

そう言うと、男はまた、眉尻を下げて笑うのだった。

部屋の端に寄せられたベッドに男を誘導し、枕の側に座ってもらう。
前屈みになって胸の谷間を見せ付けながら、太腿の付け根から膝先まで、するすると撫でていく。
その脚の間に入り込んで、膝を突いた。
男の右手を取って、胸の前で、カフスを丁寧に外していく。
終われば、枕のすぐ隣にあるサイドテーブルにカフスを置いて、逆の袖も同じようにする。
首から下がった、緩まったネクタイに手を伸ばして、男の目を見ながら、ゆるゆると解いていく。
引き抜いて、丁寧に畳んで、ベットの上に置く。
男の襟に手を伸ばして、シャツのボタンを、一つ一つ、ぷつぷつと外していく。

「もう良いよ、」

4つ目のボタンに手をかけた時、男はそう言って、私の手をやんわりと握った。
見上げると、男は相も変わらず、凪いだ表情をしていた。

「今日は、雨乃ちゃんにシゴト、、、をしてもらうために来た訳じゃないんだ。」
「…え?」
「君に聞きたいことがあって、来たんだよ。苗字、名前さん?」

久しく聞いていなかった自分の名前を耳にして、私は思わず目を丸くしてしまう。
男はそんな私を尻目に、カフスの外れた袖を肘の方へ引っ張り上げるようにして捲った後、胸ポケットから、一枚の写真を取り出した。

「この男、知らないかな。」
「…。」

この男がとして私の元に来た訳ではないということは、どうやら本当のようだった。
サイドテーブルに手を伸ばして、上から二番目の引き出しから、ビジューのケースと、灰皿を取り出す。
丸々二人分程のスペースを開けて、ベッドに腰掛ける。
脚を組んで、煙草を咥えて、ライターをシュ、シュ、と鳴らす。
火花が散るばかりで、一向に火は出てこない。
段々イラ付いてきた頃、間近でカチッ、という音が響く。
見遣れば、男は長い腕を伸ばし、こちらにライターの火を差し向けていた。

「どうぞ。」

悪怯れもせず、微笑みながら言う男。
一瞥して、大人しく顔を寄せて火を貰った。

「どうも。」

左手の人差し指と中指に挟んだ煙草を、口元から解放して言う。
天井に煙を吹いていると、「どういたしまして」と言いながら、男はそのライターを胸ポケットに入れた。
私達の間に寝そべっていたネクタイをサイドテーブルの上に放り、男は一人分のスペースを詰めてくる。

「教えてくれないカナ?」

男の方を真面に見遣りもせずに煙草を燻らせていると、男が指に挟んだ写真をヒラヒラさせているのが、横目で分かった。

「表向きは大手商社のシャチョーさんらしいんだけど、裏じゃ結構あくどいことをやっているらしい。会いたいんだけど、なかなか掴まらなくてね。この界隈に良く顔出してるって聞いて、回ってるんだ。部屋持ちの君なら、会ったことがあるんじゃないかと思ってね。」

こういう男は、高級な女性、、、、、が好きじゃない?
そう言いながら写真を私に向ける男を、鼻で笑う。
再度煙を吸い込んで、大きく息を吐いた。

「あなた、警務部隊の人?」
「んー、ハズレ。」

おちゃらけるように言う男を、横目で睨む。

「悪いけど、」

ベッドに置いた灰皿の上で、煙草を指で弾いて、灰を落とす。

「私みたいな高級な部屋持ち、、、、、、、は、お客の情報は漏らさないの。その男がウチに来ていようがいまいが、私は何も話さない。」
「そっか。お気に入りの嬢がいるって噂なんだけどなぁ。」

残念。
男はそう言うと、写真をポケットにあっさりとしまった。

「じゃあこの話はもう終わり。」

男はあっけなく引き下がった代わりに、私との距離を更に詰めた。

「ね、ちょっとちょーだい。」

言うや否や、男は私の煙草を指から掠め取った。
真っ赤な口紅の付いた煙草のフィルターを、何の躊躇もなく咥え込む。
眉間に微かな皺を寄せながら、煙を吸い込む男。
男が煙を優雅に吐き出した後、ゆったりとした仕草で、二口目を吸う。

「あの、よかったら新しい物を一本差し上げますけど?」
「いや、いいよ、一応シゴト中だからね。」
「…当て付け?」
「ハハ、冗談だよ。」

三口目を吸って、フィルターの吸口に目を落としながら、男は言う。

「メンソールだね。」
「お嫌いでした?」

勝手に奪っておいて、何だと言うのだ。
男が段々と嫌味ったらしくなっているような気がしてならない。
気を逸らしたくて、男の煙草に目を遣る。

男の長い指に挟まれた煙草の先から、煙がするりするりと、上へ登っていく。
側面の細い煙の束が主流から枝分かれしては、見えない天井に捕まったかのように、その場でくるくると回りだす。
そんなことを繰り返し、先細りながらもようやく上昇し切ろうかという主流すら、最後にはエアコンの乾いた風に掻き消されて、消えしまった。

「嫌いじゃないけど、」

そう言う男の声で我に返って、隣を見遣る。
同じく煙を目で追っていたらしい男は、その目線をすっと私に寄越した。

「俺がインポになったら、名前ちゃん責任取ってくれる?」
「…は?」

あっけらかんと、そう言って退ける男。
その表情は無に近いけれど、ちゃんと温度がある。
冗談を言っている風でも無いけれど、真面目な風でも無い、そんな不思議な温度で。
あんまり可笑しくて、私はまたしても、吹いてしまう。
イラ付いていたことなんて、途端にどうでも良くなってしまった。

「あなたって、思ったことは何でも口にしてしまうのね。」
「だって、不能になることが男にとって最大の悪夢デショ。」
「バカね…、そんなの迷信よ。」

ふふん、と、またひとつ笑うと、男が私の名を呼んだ。

「名前ちゃん、」

何、と言い掛けて目線を上げれば、指で摘んだ煙草のフィルターをこちらに向けながら、笑みを浮かべる男の顔があった。

「あーん。」

一瞬にして思考が停止する。
男は、その間にも、煙草と顔を、私の顔の間近まで寄せてくる。
フィルターが唇に触れたので、反射的に、その先端を喰む。
間近に感じていた男の指先の体温は、私に触れることなく去っていく。
眼帯で隠されたものとは反対の黒い瞳が、矢鱈とキラキラしていて、私の顔が写り込んでいるのが、はっきりと見えた。
男の形の良い唇は、弧を描いている。

「雨乃ちゃんも妖艶で素敵だけど、さっぱりした素の名前ちゃんも、とっても素敵だよ。」

馬鹿みたいに大袈裟に、胸の中で、心臓が一度跳ねたのが分かった。
羞恥なのか、恐れなのか、何のためなのかは分からない。
ただ、この男の瞳に捕らえられている限り、私を守る何かが朽ち始めて、脆く崩れていってしまうような、そんな危うい感覚を受ける。
銀色の睫毛が影を落とすその透き通った瞳は、相変わらず凪いで見えるのだけれども、その黒さに、奇妙な温もりを感じる。
甘やかな、微熱を。

「さてと、」

そう言って男は立ち上がると、背伸びをした。
ハッとして、煙草を摘んで唇から離すと、真っ直ぐに身を保てなくなって震えている灰が、煙草の先にしがみ付いていることに気付いた。
灰皿の上に掲げただけで、それはポロポロと崩れ落ちてしまう。

「俺、寝ても良い?」
「え?」

ベルトをカチャカチャと外しながら、男は言う。
腰からするりと抜き取ると、くるくると丸めて、サイドテーブルの上に乗せる。

「だって二時間もあるんだよ?やることないもん。俺普段から扱き使われて疲れてるし。」

胸ポケットの写真とライターも、同じ場所に無造作に転がして、男はベッドに乗り上げる。

「名前ちゃんも、少し休んだら?俺が口開けな訳じゃないでしょ?」

壁側に背を寄せた男は、空いたスペースを手でポンポン叩きながら、私を誘う。

「仕事中なんじゃなかったんですか?」
「仕事なら終わったよ。名前ちゃんがさっきの話、してくれるんなら別だけど?」
「…。」

早く、
と言って男が催促するので、煙草の火を、灰皿に押し付けた。
ベッドから腰を上げて、灰皿を、同じくサイドテーブルの上に乗せる。
膝を使って、男の横たわる、狭いシングルサイズのベッドに乗り上げる。
男は、枕のすぐ下に、その筋肉質の腕を添えるように投げ出している。
男に背を向けるようにして、枕に頭を預けると、男の反対の手が、私の腹部に回された。

「狭いから、腕だけこうさせてね。」

寒くない?
そう聞かれたので、首を振る。
事実、背中に男の身体が密着して、温かかった。
男の欠伸をする息遣いが、私の後ろ髪を擽る。
釣られて深呼吸をすると、耳元で、男がその低い声で「おやすみ」と囁くように言うのが聞こえた。
途端に、自分の瞼が、重くなっていくのを、感じた。



随分と温かな香りがしている。
嗅覚で感じる、というよりは、脳を直接溶かすような、深部に迫る甘さ。
吸い込んでも吸い込んでも、もっと感じて居たくなる、香りのない花のようなにおい。
遠くから、喧しい音が私を呼ぶのだけれど、帰りたくないという気持ちになる。
逃げ込むように、私はその香りに身を寄せる。

…ん、

…ちゃん、

モノトーンにぼやけた視界。
頬や掌には、サラッとした綿の感触。
遠くからは、聞き覚えのあるアラーム音。
間近では、甘やかなにおいと。

「名前ちゃん。」

男の声。

「ンッ、」

バラけた意識を取り戻す迄に、幾分か掛かった。
見上げると、矢鱈に整った男の顔が間近にあった。
一瞬、誰だったっけ、と呆けた頭で考えるのも束の間、口元の黒子を見つけ、新規の客であることの思い出す。

ゆるゆると、今の状況を、脳が分析し出す。
なぜ、向き合っているのか。
なぜ、腕枕をされているのか。
なぜ、男にしがみつくようにして、そのシャツを握っているのか。
なぜ、男の掌の感覚を、後頭部に感じるのか。

「おはよ。」

なぜ、男は満面の笑みを浮かべているのか。

「良く寝ていたね。」

途端に経緯を全て思い出して、慌てて身体を起こす。

「ごめんなさい、私…、」

すると、部屋が無音になる。
無音になった途端に、それ迄音が鳴っていたことに気が付く。
そしてその音が、時間を告げるインターホンのベルであったということに、ようやく頭の理解が追い着いた。
恥ずかしい位に、私の意識は落ちていたらしい。

「時間なのかな。」
「ええ、」

あっという間だなぁ、
とそんなことを言いながら、男はむくりと上半身を起こす。
欠伸を一つして、頭を掻いている男。
その開けた胸元に、私は異変を見付けてしまう。

「やだ、ごめんなさい、」
「何?」
「私、汚しちゃったみたい。」

ライトグレーのシャツに、手を伸ばす。
私が身を寄せてしまったせいか、その胸元には、真っ赤な口紅の跡が付いていた。

「ごめんなさい。すぐ洗いますから、脱いでください。」
「いいよ、こんなの。」
「お化粧は、普通の石鹸じゃ落ちませんから。ここにはドライヤーもあるし。」
「いいって、時間なんだし。」
「じゃあ、せめてクリーニング代を、」
「名前ちゃん、」

男は、その胸元に添えていた私の手を、やんわり握る。
逆の手の指で、私のこめかみの髪の毛を梳き、耳に掛ける。
その仕草や、男の指の感触、それによって神経が痺れる感覚に、不思議と既視感があった。
まるで長い時間、そうされていたような。
男の指が肌を滑って、私の顎を持ち上げる。
見上げると、穏やかに微笑む、男の瞳。

「帰ってシャツを脱ぐ時、名前ちゃんを思い出すね。」

一瞬、息が詰まるような思いがした。
呼吸の仕方すら、一瞬忘れてしまうような。
肺が、もろもろと崩れていくような。
私自身の、芯の柔らかい部分が、剥き出しになるような。

そんな心地がしている間に、男は私の脇から擦り抜ける。
ベッドから降りると、身支度を始めた。
ベルトを締めると、サイドテーブルに放っていた物達を、所定の場所に収める。

「じゃ、帰るね。」
「、はい。」

男は、畳んだネクタイを手に持った儘、ここに入ってきた時と同じように、ビーズのカーテンをザッと開けて、一人でさっさと行ってしまう。
後を追うと、壁に掛かる上着のポケットに、ネクタイを収めているところだった。
本当はこの私が、お客に上着を着せなければならない所を、男は一人でさっさとやって退けてしまう。
まるで、私に仕事をさせる気がないみたいに。

「楽しかったよ、名前ちゃん。」
「ありがとう、ございます。」

何もしていないけれども、
そう思いながら、靴べらも使わずに靴を履いている男の足元をじっと見ていた。
革靴の踵を半ば潰すようにして足を入れ込んでは、三和土に爪先をトントンと打ち付けている。

「また来るね。」

男はそう言うと、私を振り返る。
その顔は、ふんわりと、柔らかである。

「ちょっと、待ってください、」

私のいる床より一段低い、三和土に立っている男。
その襟に、両手を伸ばす。
まるで、首に抱き付くようなその仕草に、男は一瞬目を丸くするような素振りを見せたが、相変わらず凪いだ空気を醸していた。
男の捲れ上がった上着の襟を、丁寧に正していく。
上着に入り込んで、寝てしまったシャツの襟を引っ張り出していると、静かな声で、男が私に問うた。

「名前ちゃんは、何で雨乃って源氏名なの?」

思わず手が止まる。
男を見上げると、キラキラと光る銀色の睫毛を伏せて、私をやんわりと見下ろす黒い瞳。
再度シャツに目線を落とす。

「私が、雨女、だからです。」
「…ふうん?」

襟を形良く整える。
シャツのボタンを留めようか迷ったが、ネクタイを再び締める気がないのなら、この儘でも構わないということなのだろう。
触れれば触れる程、この男が着るものは仕立てが良いということが分かる。
縫製もしっかりしていて、手触りが良く、丈夫だ。
だからこそ、口紅の跡が、余計に悔やまれる。

すると、男の手が、私の頬に伸びる。
ハッとして顔を上げると、またあの眉尻を下げた困ったような笑顔を、男は浮かべていた。

「もう、降らないと良いね?」

そう言って、男が私の頬を、親指の腹でするりと撫でる。
途端に私は、男の顔を見ながら、自分の顔を、表情を、固めようと必死になる。
眉間に皺が寄らないように、
眉尻が下がらないように、
唇を固く結ばないように…。
それでも、眼球だけは、少しばかり熱くなってしまう。
溶け出さないように、気力を振り絞ったけれど。

「じゃあ、また近い内に来るから。」

男はそう言い残すと、ドアノブに手を掛けた。
廊下の乾いた空気が入り込んでくる代わりに、男が外に出た。
私を振り返ると、温度のある目線を向けながら、穏やかに弧を描いた口元で、私に手を振る。
そんな様子を、私はお辞儀もせずに、ずっと観ていた。
ドアによって、その光景が遮られるまで。

扉の金属がガチャリと音を立ててからも、私は暫し、そこに佇んでいた。
男のにおいを、反芻しながら。

「あくどい、か、」

そう独りごちて、部屋に戻った。



*



「今日は、ブルーなんだね。」

真っ青だ。
一週間振りの、第一声。
眼帯を付けた銀髪の男は、私を見下ろしながら、そう言うのだった。

そんな男も、今日はネイビーを身に纏っていた。
薄く縞の入った、紺色のパンツとジャケット。
上着の前は開けていて、そこから覗くのは、胸倉の深く開いた灰色のダブルのベスト。
その下にはパリッとした白シャツを纏い、ネクタイをしない代わりに胸元を軽く開けさせていた。
足元は、ダークブラウンの革靴を素足で履いている。

「そういうの、なんて言うの?」

立ち上がると、男はそんなことを私に問うた。
相変わらず粘着質とは無縁の凪いだ瞳で、私の上から下まで、さらりと目線を走らせる。

「ベビードールですよ。」
「へえ。後ろも見せて。」

言われるが儘、男に背を向ける。
背中に垂れる髪の毛を、後ろ手で前に持ってくる。

今日は、シフォン素材の真っ青なベビードールを選んだ。
背中のホックで、胸はしっかりと寄せて固定できる。
胸のアンダーでキュッと締まって、あとは腿上の丈まで、フレアのラインになっている。
裾には同色同素材のフリルが遇われ、下には同色のGストリングを履いている。

「スケスケだねえ。」
「お嫌いですか?」
「いいや?」

目線を自分の肩に落とすと、後ろにいる男の姿が、横目で何となく掴めた。
革の擦れる音がギュ、としたかと思うと、男が段を上がる。
背中で男の体温の気配を感じたかと思えば、私の両肩に、男の手がそれぞれ触れる。

「肌の白さが際立って見えて、綺麗だよ。」

耳の間近で、男の声が、私の鼓膜を優しく震わせた。
形の良い爪の乗った指が肩から離れると、衣擦れの音がした。
振り返ると、男はさっさと上着を脱いでしまっている。

「お預かりします。」
「良いよ、自分でやるから、」

ここに掛けて良いんデショ?
男はそう言いながら、壁のハンガーに、上着を掛けてしまう。
せめてもの思いで、ビーズのカーテンを端に寄せる。
男は礼を言いながら、その下を潜った。

「名前ちゃん、俺、お風呂入りたい。」
「え?」

男は、袖のボタンを外しながら、淡々とした口調で語る。

「実はここに来る前に、一仕事してきたんだ。汗かいちゃったから、シャワー浴びたかったんだけど、ここの予約の時間があったから、間に合わなくて。」

帰りもこの服着ないといけないから、意味ないかも知れないど、
男はそう言いながら、腕に鼻を埋めては「汗臭い」とごちている。
じっと視線を寄越していた私を見るなり、男は早口になる。

「いや、名前ちゃんは何にもしなくて良いよ。…隣で話し相手にでもなってくれたら、嬉しいけど。」

そう言いながら頭を掻く銀髪の男の様子に、私は思わず笑いを漏らしてしまう。

「分かりました。じゃあ、支度しますね。」



この部屋は、腰くらいの高さの分厚い壁によって、横に分断されている。
壁の中心は途切れていて、人が通れる。
その壁を超えて、前回は使いもしなかった、タイル張りのスペースに男が立っている。
私は壁越しに、男が脱いでいく衣服を受け取った。

「自分でやるのに。」
「良いんですよ。」

絨毯張りのこちらのスペースには、横長の台が、壁に寄せられている。
その上には籠がいくつか乗せられていて、客の衣服を収められるようになっている。
男のベスト受け取って畳んでいる間に、男は白いシャツを脱ぐ。

「名前ちゃんに裸見られるの、恥ずかしいなあ。」
「お風呂に入るってことは、裸になるってことですよ。」
「そうだけど、」

男の白シャツを受け取る。
男の上半身は、前回感じたように、鍛え上げられた筋肉で隆々としていた。
その肌には、古傷のようなものがいくつもある。
それを目にして初めて、この男の仕事が何なのか、興味が湧いた。

「入ってて良い?」
「どうぞ。」

シャツを畳んでいる間に、男はさっさと下も脱いでしまう。
それを壁に掛けて、男は浴槽に向かう。
残りの衣服を畳んでいると、浴槽からお湯が溢れる音が部屋中に響いた。

「あー、気持ち良い。」

猫足のバスタブの淵に首を預ける男を見て、思わず笑みが零れてしまう。
畳んだ衣服の上に、濡れ防止のタオルを被せる。
バスタオルも数枚用意して、準備万端だ。
つるりとしたタイルを踏み締める。
ひんやりと感じないように、部屋の温度は常に調節してある。
男は両手で湯を掬っては、顔にかけたりしている。
眼帯も既に取ってしまっていた。

「お湯加減どうです?」
「ちょうど良いよ、ありがとう。」
「いえ、あの、」

初めて目の前に晒された男の左目は閉じられていて、縦一文字に傷が走っている。
客の素性は探らないという暗黙の了解は店としてはあるものの、男への興味が増さなかったと言うと嘘になってしまう。
そんな自分自身の中に沸いた好奇心を抑えるのに、私の口はいつの間にか勝手に動いていた。

「よかったら、シャンプーしましょうか。」
「え、でも、」
「大丈夫ですよ、これはサービス、、、、なんかじゃないですから。私、昔美容師だったんです。」
「そうなの?」

しばし目を瞬かせた後、じゃあなんて男が快諾するので、私も自然と笑顔になってしまう。

お湯を含んだ男の銀髪は、ふんわりと練った水飴のような色になった。
透明に溶けるその髪の毛は、角度によって光沢の具合を変え、肌の色をも透かすようで、シルバーにベージュを混ぜたような、何とも言えない色彩を孕む。
ふんわりと柔らかく、量が多くて、私の手指にしっかりと絡みついてくる銀髪を優しく絞って、シャンプーを泡立てる。
指の腹を使って、生え際から頭頂、項に向かって、丁寧にマッサージするように洗髪していく。
浴槽の淵に頭を預けた儘鼻から息を抜くと、男はゆるっと目を開いた。

「気持ち良い。」
「良かった。」
「誰かに頭洗ってもらうなんて、ないもん。」
「美容室とか、行かないんですか?」
「うん、自分で切っちゃうし。」
「器用ですねえ。」
「テキトーだからさ、」

男が見上げてくるので、私も目線を合わせる。
すると男は、屈託のない笑みを浮かべた。

「名前ちゃん、おっぱいこぼれそう。」
「あは、」
「それに、楽しそう。」
「…え?」

終いに私は手をも休めてしまい、男に顔ごと注意を向ける。

「美容師の仕事、好きだった?」

下瞼を少し持ち上げて、優しく笑うその右目。
そんな男の目を見ながらも、私はどこか別の遠くの方に、視線が、意識が、吸い込まれていくような心地がした。

「そう、ですね。好き、だったのかも。」

きめの細かい泡や、密な髪の毛の向こう側に埋もれる地肌を指先で揉みながら、私の口からはそんな言葉が零れた。

「あ、名前ちゃん、それ、」
「あっ、ごめんなさい、痛いですか?」
「んん、痛気持ちい、」
「この辺り、目のツボなんですよ。」
「目かあ。」

首の付け根辺りに指圧を加えるたびに、男はそう言いながら眉間に皺を寄せて、白く伸び切った喉元から溜息を零した。

「聞かないの?」

シャワーヘッドに手を伸ばしている私に、男は唐突にそんなことを問う。

「気になってるんでしょ?」

俺の目。
男がそう言った時、しまったと思った。
長らく客商売をやってきたというのに、一体私は何をやっているのだろう。

「ごめんなさい、じろじろ見るつもりは、」
「違うよ、俺が目敏いだけ。それに、」

バスタブに項をすっかりと預け、脱力している男。
淵に乗せられた腕には、いくつもの水滴が粒々とくっついている。
そんな男は、穏やかな表情すら私に向ける。
下瞼が優しく持ち上がった右目は、黒目勝ちに見えた。

「俺に興味持ってくれたみたいで、嬉しいよ。」

私は唇を開くものの、紡ぐ言葉が見付からなくて、遂には派手な音を立ててシャワーを出す他なかった。



「謝らなくちゃいけないのは俺の方なんだ。」

凹形の椅子を運び、浴槽を挟んで男の隣に腰掛けた時、彼は私に向かってそんなことを言った。
男の所望した、私の煙草が入ったシガレットケースと灰皿を手にした私は、心当たりがなく首を傾げるしかない。
濡れた髪を後ろに撫で付けた男は私に向き直ると、一瞬言葉を詰まらせた。
そして浴槽から少し乗り出して、私の下半身に目を遣る。

「アハ、」
「なんですか?」
「いや、スケベ椅子に座る名前ちゃん、やらしいなと思って。」
「だって、これしかありませんから。」

私も釣られて少し笑うと、ビジューだらけのケースから、煙草を一本抜き取った。
男に差し出すと、男は律儀に礼の言葉を寄越す。
ライターを取り出して、男が咥えた煙草の先に両手で掲げる。

「ああ、もう、やっぱりダメ、」

シュッシュッと、フリントホールは火花を散らすばかりで、相変わらず火は出てこない。
また買い直すのを忘れてしまっていた。

「ごめんなさい、ライターがもうダメみたい…、高級な部屋持ち、、、、、、、失格ね。」

そう自重気味に笑うと、男はキョトンとしていた。

「今、ボーイに新しい物を持たせますから、」

そう言って立ち上がり掛けた時、男は私を制止する。

「名前ちゃん、チョット目瞑ってて。」
「え?」
「良いから良いから。」

男はやたらとニコニコしながらそんなことを言う。
私は訳も分からずに、それでも素直に言い付けを守る。
すると数秒もしない内に、馴染み深い煙の香りが漂ってきた。
たまらず目を開けると、煙草の先は煌々と光っていて、男が煙を飲んでいるところだった。

「え、どうして、どうやって?」

何の音もしなかったというのに。
前のめりになる私を見て、男はにっこりと笑った。

「ナイショ。」

はいドーゾ。
男はそんなことを言いながら、その火の点いた煙草を私に寄越す。
フィルターを唇まで運ばれて、解せない儘にそれを喰む。
すると男は、長い指でケースからもう一本掠め取ると、血色の増した唇に挟んだ。
私に悪戯っぽい視線を向けると、身を乗り出すと同時に、私へ腕を伸ばす。
温かく濡れた手が髪の毛を掻き分けて私の項を包み、その儘引き寄せられた。

ジジ、

伏せられた銀色の長いまつ毛は濡れて、束になっている。
私の背中には、男の手から流れた湯が滴っている。
二本の煙草の先が合わさって、男の煙草に火が移る。
男が手を離し、身を離して行く。
温もりの去った項が、ひやりと涼しい。

「解決。」

そんなことをにっこり笑って、この男は言って退けるのだった。

「それで、さっきの話だけど、」

男はそう言葉を切る。
身体の背面に神経が集中していた私も、煙草を咥えさせられたのだという事実を漸く思い出す。
肺を、身体を、膨らませて深呼吸すれば、背中の水滴はどんどん流れて、終いにはベビードールのバックベルトに吸収された。
苦味と一緒に、メンソールのスウッとした爽快感が口内に居座る。

「名前ちゃんのこと少し調べさせてもらったんだ。」
「…え?」

顔を上げれば、男は相変わらず穏やかに笑っているのだけれども、眉根を下げて、申し訳なさそうに見える。

「この前さ、あのボーイの若い子?軽く凄んだら喋ってくれちゃってさぁ。それもあって例の男、ここの客だって断定できたから。身辺調査ってことで、この店の人間全員調べたよ。悪いけど、名前ちゃんのこともね。」

あの犬っころめ…。
例のボーイを心中責め立てていると、男は「ごめんね」と言って、上目を遣いながら声を落とす。
口元は、相変わらず優しい表情を浮かべているけれど。
男は煙草を咥え、ゆっくり深呼吸した。
灰皿を差し出すと、男は口角を上げて応じた。

「元彼の借金肩代わりするのに、ココに入ったんだって?」

泣かせるねえ、
などとごちながら、男は灰を指で弾く。

「お店と寮の行き来ばかりで、遊ぶ暇も休む暇もないなんて。」

灰皿を膝の上に乗せた儘、私の視線はどこを見るでもなく漂っていた。
自分の状況を他人から改めて聞かされると、意識を遠退かせるしかないような、そんな思いすらする。
バスタブの白に飲み込まれて、距離感も、自分の居場所も、掴めなくなっていく。
ちゃぽりと、水が踊る音が遠くからするような心地。
ピタピタと、水滴がタイルに滴る音。
たらたらと、脚を流れていく温もり。
そして、顎をグッと持ち上げられて、視界の中に男が入ってきた。
唇の端に煙草を咥えて、煙たそうに右目を少し細めた、男の顔が。

「そこまでする程、良い男だった?」

―――モトカレ。
男の手から、私の顎を伝って、水滴が滑っていく。
滑る度に温度を失っていって、私の胸元に届く頃には、肌の熱を奪うように、すっかりと冷めている。

「さあ…、今となっては、分からないわ。」

ベビードールの胸元が水滴を吸い込んでいくのを感じながら、私はそんな言葉を無感情に零した。

「そっか。」

男はそう短く返すと、それ以上私の過去を追求することはなかった。



私の手渡したバスタオルで男が身体を拭っている内に、私は私物を入れている戸棚から紙袋を取り出した。
人に物を渡すのに緊張することなんて、久しぶりのような気がする。
袋を膝の上に乗せて、ベッドの上で座って待っていた。
私の体温が伝わって、紙袋が熱を持ちはじめる。
男が下着とパンツを履いてしまった時、私は男を呼ぼうと口を開いた。
そして何の言葉も出てこなかった時に初めて、私はこの男の名前すら知らないことに気が付いた。

「あの、」

男が振り向くと、私は紙袋を胸の前まで持ち上げる。
首にかけたタオルで頭をガシガシと拭きながら、男は私に向き直った。
その身体の筋肉はもはや彫刻のようで、目を見張る程である。

「何?」

男はそう言いながら、長い脚を進めて私の隣に腰掛けた。

「これ、貰っていただけませんか。」

やっとのことでそう絞り出して、袋を男の膝の上に置いてしまう。
何々、などと言いながら訝しげに紙袋の中を覗き込む男。
手を差し入れ、カサカサと音を鳴らしながら中身を取り出した。

「シャツ?」
「はい。前回、汚してしまったので。」
「いいって言ったのに。」

そう遠慮の言葉を口にする男だったが、その口角は持ち上がっていて。

「ありがとう。今日はこれを着て帰るよ。」

そう言って笑顔が私に向けられた時、緊張が報われたような気がした。

「あの、」

襟の型崩れ防止用のプラスチックや、袖を止めるクリップなど、新品のシャツに取り付けられた付属品を一つ一つ取り外している男に私は声をかけた。
更にボタンを外しはじめた男は顔を上げずに返事をすると、私はその儘言葉を進めた。
胸の内側を心臓が叩いている。

「お名前…、伺ったりしても、良いですか?」

すると男は即座に私に顔を向けた。
黒い瞳が、光を反射して輝いている。
口角がどんどん上がっていくかと思えば、男はまたシャツに目を落とした。

「カカシだよ。はたけカカシ。」
「カカシ、さん。」
「そ。」

男は、付属品が全て取り除かれ、折り目の付いたシャツの両肩を持って目の前に掲げた。
その顔は実に満足そうに見える。
その儘両腕を通してしまい、外したばかりのボタンを再びかけ出した。

「ぴったり。」

そう言って、シャツを身に付けた男は、私ににこやかな笑顔を向ける。

「どう?」

そんなことを男が聞くので、私も男に向き直った。
肩に触れて、肩口の位置を確かめる。
その儘指を走らせて、袖口に触れる。
シャツのサイズが気になっていたけれど、どうやらちょうど良いみたいだ。
彼の鍛え抜かれた身体に着せると、何の変哲もない既製品のシャツまでもが美しく見える。

「ぴったり。」

キラキラした黒い瞳にそう告げると、男は目を細めて笑顔を深めた。



*



「今日は下着なんだ。」
「決まりですから。」

一週間後、私はシャンパンベージュのサテン地に、繊細な白のレースが部分的にあしらわれた下着姿で男を出迎えた。
対して男は、一見すると比較的ラフな出立だった。
ツイードでチャコールグレーの上等なチェスターコートの下は全て黒で統一され、カシミヤのタートルネック、ブランド物の革ベルト、綺麗目なデニム、ゴツ目のレースアップブーツを履いている。
左手には数十万円は下らないだろうというブランド物の時計を付けている。
有名ながらもメジャー過ぎないブランド選びもさることながら、黒の艶消し仕様で、然りげ無さすらも装えるという子憎らしい演出。
金の使い方までも、つくづく洒落ている男だ。

その男がいつものように、玄関で正座する私を凪いだ視線で撫でている時、その左目に眼帯をしていないことに気が付いた。
器用に閉じられた瞼から頬にかけて、縦一文字の傷。

「随分セクシーだなあ。」
「お嫌いですか?」
「綺麗だよ。」

良く見せて。
男がそう言うので、その場でゆっくりと立ち上がる。
胸の間と臍の下にあるクリスタルのチャームが、コロコロと揺れている感触が伝わってくる。

下の布幅が狭いために、脚をまっすぐピッタリと閉じる。
首を傾げて上目遣いを向けると、男は改めて視線をゆったり上から下、そしてまた上へと走らせる。
帰還の視線とかち合った時、私は後ろを向いて背面を晒した。
髪の毛が邪魔にならいように、前の方へと梳く。

「Tバックだね。」
「お嫌いですか?」
「いいや?お尻もとても綺麗だよ。」
「うれしい。」
「でも―――」

男が言いかけると、衣擦れの音が控えめに響く。
そして、男の温もりを蓄えたコートが、私の肩にふんわりとかけられた。

「俺は雨乃ちゃんを、、、、、、抱く気はないから。」



男はベッドに腰掛けて早々、私のタバコを所望した。
私はサイドテーブルの二番目の引き出しから一式取り出して、男の隣に腰掛ける。
煙草を一本手渡して、男がそれを咥えたら、ライターに手を添えて、火を差し出す。
男は「ありがと」と短く礼を告げると、ビジューだらけのライターを持つ手首をやんわり掴んだ。

「新しいライター、買ったんだね。」

名前ちゃんらしくて良いじゃない。
男はそう言ったきり、黙り込んでしまった。

煙草から煙が昇る度、そして男が煙を吐き出す度、部屋の空気が重たくなっていくような心地がした。
今や、ジリジリと焼けていく葉の音すらも、やたらに大きく響き渡っているようにすら感じる。
男は時たま、サイドテーブルの上に置いた灰皿の上で灰を弾いたりして、私と目を合わそうとしない。
私の態度が気に食わなかったのだろうか、格好が気に食わなかったのだろうか、何か粗相をしてしまったのだろうか、そんな心配事すら頭をぐるぐると回り出す。
すると男はフッと煙を吐き切ると、煙草を灰皿に押し潰した。

「もうここには来ないよ。」
「…え?」

男は私に向き直る。
底なしの黒い瞳が私を射抜く。

「今日は色々と、報告があって来たんだ。」
「報告?」

男は軽く頷くものの、その鋭い視線を私の目からは絶対に離さない。

「例の男の件だけど、」

男がそう言うと、私の思考は嫌でも過去に向かって遡って行った。
この男が初めてやって来た日のことを思い出しながら、私の視線は男の上空を漂った。
それなのに、まるで強力な磁力に引き戻されるかのように、目の前の男の瞳とまた視線がかち合ってしまう。
見詰められているだけで、目から頭の中に入り込まれ、喉を通って腹までも見透かされている心地のするような、凍り付きそうなその視線と。

「名前ちゃん、彼に気があったりする?」
「…は?」
「お客以上の関係だったりするの。」
「まさか、そんなこと、」
「嘘を吐くと、君のためにならないよ?」
「本当です!なんなのよ、これ、」

男はしばし私の目線を貪ると、ようやく瞬きをして、さっさと俯いてしまった。

「あの男は、明日死ぬことになった、、、、、、、、。」
「…え?」
「正確には、2時間後だな。」

俺が殺る。
男はそんなことを、真っ黒いの腕時計に目を落とした儘サラッと言って退けた。
その横顔は、相も変わらず凪いで見えるのに、漂う空気は恐ろしく冷ややかだ。

「あなた、…何者なの?」
俺達、、と同業の護衛を付けていたから、探し出すのにだいぶ苦労したけど―――」

男は私の質問に答える代わりに、つらつらと語り出した。

「あの男はとんだ悪徳商人だったよ。
君の元彼はアイツの手下で、資金繰りに失敗した。
んでケジメ付けろってんで、君を売ったのさ、アイツがオーナーのこの店にね。
君が働いた分のマージンはこの店に、つまりはアイツに上がるし、君の給料のほとんども、『返済』の名目でアイツに上がる。
その上、君を食い物にしていたって訳。」

クズの極みだな。
男がそう吐き捨てると、なぜだか私の背筋が凍り付く心地がした。
全身の皮膚が粟立って、背中からは冷や汗が吹き出す。

「君のことは、はっきり言って俺達、、には関係がない。
ただアイツは、俺達のテリトリーをも犯すことを裏でやってたんでね。
消す、、ことになったんだ。」

…俺が怖い?

私が沈黙を守っていると、男は静かにそう問いながら、私に視線を向ける。
呼吸がどんどん難しくなっていくのを感じる。

「もしも君があの男の、いわゆる情婦ってやつなら、一言詫びを入れておこうと思ってね。」
「まさか!そんなんじゃ、ありません、」

私は思わず胸を押さえた。
息が上手く吸えない。
終いには喉の上の方まで呼吸が迫り上がってきた。
そんな私の様子を見て、男が慌てた様子で私の肩を抱く。

「息できない?ごめん、ちょっと感情的だったか。大丈夫?」
「息、いきっ、が、」
「ごめんね、大丈夫、まず息を吐いてごらん、ゆっくり、そう、」

男はチェスターコート越しに、私の背中をさする。
逆の手で、私の手を握りながら一緒に深呼吸をしてくれた。
男のカシミヤに頬を寄せてゆっくりとした呼吸を取り戻す内に、初めて会った日に味わった男の香りを探り当てた。
香りという香りはしないのに、脳に染み入ってくるような、その甘さ。
取り込んでいる内に、私の目には涙が滲み、口からは嗚咽が漏れた。
肩を震わせ、カシミヤを濡らして台無しにしても、涙が治るまで、男は何も言わずに付き合ってくれた。

「カカシ、さん、」
「なに。」

私の身体は、男に熱を分けてもらったせいか、すっかり温まっている。
男の胸に預けている耳や頬なんかは、熱いぐらいだ。

「抱いて、くれませんか。」

私の肩を抱く男の腕が、ほんの僅かに強張った気がした。
私は大きく息を吸い込む。

「名前ちゃ、」
「ここで最後に通じたのがその男だなんて、耐えられない!」

拒絶を恐れて、一気に捲し立てた。
男は息を呑むと、私の手を握るそれに力を込める。

「さっきまで、居たんだ。」

私はコクリと小さく頷いた。
せっかく収まった嗚咽が、また舞い戻ってきてしまいそうだ。
男の胸元を握りしめて、私は濡れっぱなしの顔を構わずに上げた。

「上書きして、ください。」

男の目を見て懇願した。
瞬間、私の天地がひっくり返った。
背中一面に柔らかな衝撃が走る。
ベッドの上で弾もうとする身体を、私の肩を上から押さえ込むことで、男が制した。

「煽るなよ。」

地を這うような声。
男は眉間に皺を寄せて、私を真上から見下ろしている。

「俺だってずっと、我慢してるんだから。」

男がベッドに肘を突くと、お互いの顔との距離が縮まる。
先程とは全く質の異なる粟立ちが背中に走る。
身体中がゾクゾクして、唇から思わず溜息が零れる。
縮めるには濃密過ぎるように感じる空気を、私は少しだけ吸い込んだ。

「カカシさん、」
「何、」

男の長い銀色の睫毛が、その瞳に影を落とす。

「目、見せて。」

それだけ言うと、男は理解したらしい。
左目の瞼がピクリと動いた。
男は右目で瞬きをした後、もう一度ゆっくりと目を閉じ、今度は両目を一緒に開いていった。

「あぁ、」

上瞼の睫毛が震えながら持ち上がっていく。
縦一文字の傷を遮って現れたその瞳は、まるで深紅に輝く、宝石みたいで、

「綺麗。」

私は思わず、そう呟いていた。
男は擽ったそうにして、下瞼で笑う。

私の頬にふわりと添えられた男の手が熱い。
近付いてくる男のその首に両腕を絡ませて、顎を少し持ち上げた。
今にも触れ合いそうで、私は目を閉じようとした、その途端に。
男は弾かれたように、部屋の方へと顔を向けた。

パリンッ

「えっ、」
「大丈夫、落ち着いて。」

男はそう言いながら、視線をその儘に身体を起こす。
私もその視線を追うと、目を疑うような光景が視界に飛び込んできた。
タイル張りの壁の一部が不自然に隆起し、そこから太い木の枝や細い幹のようなものが伸び、青々とした葉を次々に茂らせながら成長している。
壁にしがみ付いていられなかったタイルがもう数枚床に落ちて割れてしまうと、木はようやく動きを止めた。
一連の崩壊による反響が収まり静かになった空間で、男の舌打ちが響いた。

「無粋なやつだな。」

男はそうごちると、私に顔を向ける。

「後輩の仕業だよ、びっくりさせてごめん。無理言って待たせてあるんだ…、もう、行かないと。」

すると私は、男が道具も使わずに煙草に火を点けた日のことをぼんやりと思い出した。
私が整理の付かない頭を身体と共に起こしても、肩にかけてもらったコートは、ベッドに寝ている儘になった。
当の男は既に立ち上がってしまっているばかりか、私を見下ろしてすらいる。

「君はもうここにいる意味がなくなる。
金の支払い先だった輩も死ぬし、大将が崩れて店は崩壊だ。
晴れて自由の身だよ…、好きに生きると良い。」

男はそう言うと歩き出し、ビーズのカーテンを潜ってさっさと行ってしまう。
ビーズ同士がぶつかるジャラジャラパチパチという音が、部屋中に、そして私の頭の中で反響する。
ブーツの踵が音を鳴らすのが耳に入って、私は胸の内がぎゅっと狭くなったような気がした。

「待って!」

私の影と、揺れるビーズカーテンのそれで虫食いになった部屋の明かりが、狭くて暗い玄関ホールに差し込む。
光の先で、男がブーツを履くのにしゃがみ込んでいる。

「あなたのせいで、行き場がないんです、」

私が一歩近付くと、男は立ち上がる。

「あなたのせいで、自由なんです、」

私は一歩、もう一歩と近付く。
男は立ち止まった儘動かない。

「だから、」

私はその広い背中に向かって、俯きながらもポツポツと小声で言葉を紡ぎながら、男の真後ろまで辿り着いた。
背を向けた儘反応を示さない男は、それでも私の言動に注意を払ってくれているような実感がある。

甘えても良いのか。
求めても良いのか。
今まで叶わなかったことを、許されなかったことを、求めても良いのだろうか。
誰の目にも留まらなかった私の傷だらけの手を、この男は視界に入れるばかりか、受け入れてくれるのではないだろうか。
そんな無謀な希望すら湧いてきて、恐る恐るではあるものの、私は手を伸ばさずにはいられなかった。

黒のカシミヤは、男の体温を蓄えてとても温かい。
その柔らかな温もりを指先で握りしめると、私の目からは涙が滲んだ。
逆の手も同じようにする頃には、私の眼球からは玉のような涙がポロポロと零れ出していた。
男が微動だにしなかったからだ。
男は私の手を払い除けることもしなければ、うざったそうに身を捩ることもない。
私を受け入れてくれているという実感があったからだ。
私は遂に額までも、男の背中に預けてしまう。
そして捨て切れなかった希望を、私は遂に口から漏らした。

「わたしも、つれていって。」

瞬間、私は壁に押し付けられていた。
顎を持ち上げられると、眉根を寄せた男の切迫したような表情。
認めるや否や、私の唇は一目散に塞がれた。

性急ながらも柔らかい舌遣いに、私の腰は砕けそうになる。
両腕を伸ばして男の首に回せば、男の腕が背中に回って、私を力強く引き寄せた。
お互いに息を弾ませながら舌をしゃぶり合う間、男の衣服が私の肌に触れてもどかしい。
男も同じ思いなのか、その大きな手が私の背中を這い回る。
熱を孕んだ皮膚が直接触れ合う心地に身震いがして、私は背中を反らせて、思わず声を漏らす。
しかしそんな声も、男は飲み込んでしまう。

少しでも密着したくて、私は片脚を上げる。
男は直様その意図を理解して、私の膝を抱え込んだ。
足を後ろへ回して、男を更に引き寄せるようにする。
私にもう一歩近付くようにして、男はその身体を割り入れた。

「んん、」

男の分厚い身体が密着した心地良さと共に、お互いの中心が重なった。
私を押し上げるその硬さと質量に、私は思わず息を呑む。
同時に、熱を持って溶け出している自分自身を自覚した。

「ん、あ、」

熱く絡んでいた舌を解くと、男は私の唇に自らのそれを落とす。
口の端、顎、耳朶へと、男は唇を落としていく。
それが首に差し掛かった時、私は我慢できずに声を漏らした。

「あ、はっ、」

男の背中に手を回してギュッとしがみつく。
すると男は、唇の粘膜を使って、喰むような口付けをはじめた。
膝を抱えていた男の手は、ジリジリと臀部に向かって這ってくる。
もう片方の手は背中を這い上がり、私に歓喜の震えを与える。
背中を反らせると、下着のホックを捕らえた男の手に力が籠る。
男の唇が鎖骨で音を立てると、熱く濡れた舌が首に添えられる。
その舌がぬるぬると這い上がってくると、私は全身を震わせながら甲高い声を上げた。

「アアッ」

ガシャン

私が身体をビクリと強張らせると同時に、男がサッと顔を上げた。
まん丸になって揺れるお互いの瞳を見詰め合うと、男はふっと笑いを吹き出した。

「あーあ、台無し。」

そう言って、私の首の付け根に額を預けた男は、私の背中に両手を回して優しく抱き寄せた。

「ごめん、我慢できなかった。」

男は私の髪に鼻を埋めると、ゆっくりと深呼吸する。
今一度背中の両腕に力を込めると、私の肩に両手をそれぞれ乗せて、私を引き離す。

「俺はもう行くけど、」

男がそう言いかけると、私は反射的に男の腕を掴んでいた。
自然と眉尻が下がっていくのが分かる。
すると男は、目を弓形にしてにっこりと笑って見せた。

「名前ちゃんは、いつもの様に寮に帰るんだよ。全部終わったら、迎えに行くから。」
「本当に…?」
「本当に。だから荷物纏めといてね。それまで上着、預かってて。」

男はそう言うと、私の頬を両手で包んだ。

「一緒に帰ろう。」

男の唇が象った言葉を、私は瞳で、耳で、肌で、身体で感じ取った。
水の波紋の様にして全身に響き渡ったその言葉の反響が、私の目から涙となって溢れ出す。
男はそれを親指で拭うと、私の額に唇を落とした。



扉を開ける男を、私は立ち尽くしながらも見詰めていた。
光を背負った男は、振り返り際に笑顔で手を振る。
扉が閉じて闇が戻っても、私の網膜には、男の姿がはっきりと焼き付いていた。
嘘みたいに輝く、その姿を。

「…御伽噺って、本当にあるんだ。」










白馬の王子様



fin.
22.03.10.



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