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Chapter6-epilogue

パチン!と、軽い音が森の中に溶け込むようにして鳴った。
するとそこには今まで何もなく、森の中の開けた場所でただ短い草が生えていただけだというのに、またたくまに銀色の髪を持つ長身の、穏やかな表情を浮かべた老人が姿を現していた。

彼は、自身が突然そこに現れたことに驚きもせず、そのまま歩き出してきょろきょろと周りを探した。そうしてすぐに、その探し物を見つけたらしい。

「ふむ、」と、老人は誰も聞いてはいないというのに小さく唸った。そうして、彼の履いていたいささか妙な――もっとも、彼は服装もまともとは到底言えないのだが――先の尖った靴の爪先で、彼が探していたらしい錆び付いたなんの変哲も無いポストを、三回蹴った。

するとたちまちのうちに、彼の目の前に小さな家が姿を現した。まるで、彼がここに現れたのと同じように。

その老人――ダンブルドアは、その家をぐるりと眺めてもう一度「ふむ、」と唸ると、ためらうことなくその家のドアノブをひねった。

家の中は、家中の物たちが息を潜めているような、そんな雰囲気に包まれていた。
ダンブルドアは、真ん中に置かれたソファや四人ほどが優に囲めそうなダイニングテーブル、 そうしてフライパンが壁に吊るしてあるキッチン、と部屋の中のものをひとつひとつ目にとめた後、まるで何度もそこを訪れたかのように慣れた様子で奥へと進んだ。

そこには二つの部屋が並んでいて、ダンブルドアは奥のドアノブをひねる。家中が等しく静寂に包まれているというのに、その部屋の前だけはなんとなく、異質なものに感じられた。

「誰が入っていいと言った」

途端に不機嫌さを隠そうともしない声が飛んでくる。
部屋に入ったダンブルドアの目に一番に飛び込んできたのは、ベッドで静かに眠る、まるで少女のような女性だった。そして、彼女のベッドの横に椅子を置いてその手を握り、ダンブルドアへ視線すら寄越そうとしない――かつてヴォルデモートとして人々を恐怖に陥れた男、トム・リドルがそこにいた。

「私をアズカバンに送りにきたか」

彼の声は青年のようにも、また老人のようにも聞こえた。そして、彼の容姿もまた、年齢を測れない不思議さがあった。

ダンブルドアは彼の無礼な言葉遣いにも、ほっほと小さく笑うだけで受け流した。そして、穏やかな、しかし威厳のある声で言った。

「私は、きみに届け物をしにきたのじゃ。それに、きみはアズカバンにいた方が、よっぽど楽じゃろう。ナマエの、目を覚まさぬ姿をただ見つめているほかないこの場所より」

ダンブルドアが最後にそう付け加えると、トムはやっとダンブルドアに目を向けた。目を向けたというより、それは怒りに燃えて睨みつけたというのが正しかった。

「お前に何がわかる、ダンブルドア」

地の底を這うような、かつてヴォルデモートだったことを如実に表すような声にも、ダンブルドアはひるむことがなかった。むしろ彼の目を静かに見つめると、凪いだような声で話し始めた。

「きみの心が全てわかると、そのような傲慢なことは言わんよ、トム。
私は、万が一の時にと、これをナマエから預かっていた。そうして、彼女がその選択をした時に、私にこれを見て、そしてきみに渡すように言った」

それがこれじゃ、とダンブルドアはロールの中から小瓶を取り出してトムの前に差し出した。トムはそれが何か、一目見てすぐに理解した。ナマエの記憶だ。彼女の残したすべてがここにある。ダンブルドアも、この記憶を頼りにこの家にたどり着いたのだった。

トムはそれを奪うようにしてダンブルドアから受け取ったが、握りしめたままじっとそれに目を落としていた。ペンシーブは彼の部屋にある。しかし、動こうとしなかった。

「なぜ…なぜ、ナマエは目を覚まさない。彼女の記憶を見たなら、知っているのだろう」

――私が彼女に、何をさせたのか。

トムはナマエの頬に手を添えた。彼女の頬は滑らかで、その感触は何一つ変わってはいない。
しかし、彼女が目を覚ますことはない。死んでいないのは明白だというのに、どれだけトムが手を握っても、揺り動かしても、彼女はそこに横たわったままだ。

「私には、ひとつ考えがあるのじゃ。
なぜナマエが、彼女の分霊箱に魂を移していたというのに目を覚まさぬのか。

きみは確かに、ナマエに殺人を犯させた。そうして、その罪の大きさに違わずナマエの魂は二つに引き裂かれた。

しかしの、トム、ナマエは彼女が殺した母親の懇願に応えたのじゃ。そしてナマエ自身も、深い後悔に身を費やした。それによって、彼女の引き裂かれた魂は最小限にとどめられた。彼女の肉体をもう一度動かすには、あまりに弱々しいほどに」

――むしろ、そのように頬に赤みがさし、生きているかのようにくちびるがばら色を残しているのが、奇跡なのだと私は思う。

トムはもう一度彼女の手を強すぎるほど握った。そこには確かに、元々の体温よりは低いものの温かさがある。一度、もう二度と目を覚まさないのではないかというほど冷たくなった彼女の体を抱いてここまで連れ戻ったことのあるトムは、その温かさにすら希望を感じていた。しかし、ナマエの姿は生きているというより”死んではいない”というのがふさわしかった。

ダンブルドアの推測が、おそらく正しい答えだろうということはトムにもわかっていた。彼女の魂が美しいままで、何からも犯されていないことなどトムの目には明白だった。

「トムよ、きみは今まで沢山の命を奪ってきた。そしてその分、切り裂かれるような痛みを伴う悲しみを残された者に与えたのじゃ。それは到底、許されることではない。

――しかし、きみはやっとその悲しみを理解したのじゃろう。そして、その姿を取り戻した」

ダンブルドアの視線を受けるトムは、蛇に似た印象を受ける蝋のような顔から、昔の面影を強く残すものへと変わっていた。
分断した魂を元に戻すには、耐え難い、身を滅ぼすかのような苦しみを伴う。トムはナマエを喪いかけ、そして目を覚まさぬナマエの横にただいることしかできない日々の中で、その苦しみに呵責されていたのだった。

「私に何を言わせたい。後悔している、すべて間違いだったと、そう喚かせたいか」

トムはそう言ったものの、実際のところは深い悔恨に身を沈めていたのだった。ナマエの知らぬところでマグルへの侵略の謀をし、そして誰よりも頂点に近い力を身につけたというのに、そんなトムの前に横たわっていたのは永遠に眠り続けるやもしれない他ならぬ――この世でたった一人求め続けたナマエなのだ。
私が最も必要なのは野心を叶える絶大な力、そして永遠を約束された命、それだけだと信じ切っていたというのに、トムは自身の心を一番理解していなかったのだと思い知らされていた。

ナマエの手を握り、目を閉じたままの彼女を見つめ続けるトムの姿にかつてヴォルデモートとして恐れられていた頃の面影はなく、ナマエが目を覚ますことを願い続けるただの一人の男にしか見えなかった。

ダンブルドアはそんなトムの様子を目を細めて見つめると、ナマエの眠るベッドの脇に置かれた空っぽの花瓶に向かって杖を振り、そこに美しいスズランの花をみずみずしく咲かせた。

「きみが数年前にあのゴドリックの谷で姿を消してから、きみの信奉者たちはみな姿を消した。魔法界の闇は晴れたのじゃ。そして、これからもそうであることを、私は確信しておる」

ダンブルドアはそう言い残して、静かにその場から立ち去った。



ダンブルドアがこの家を去ってからも、トムはナマエに寄り添いその穏やかな横顔を見つめていた。彼女の隣で声を抑えることもなく言葉を交わしていたというのに、ナマエが反応を示すことはない。

ダンブルドアの言葉通り、トムが表舞台に姿を現したことは、あのゴドリックの谷の日以来一度もなかった。
死喰い人たちがどう動こうが、知ったことではなかった。たとえトムを裏切り、保身のため操られていたとそう言いふらしたとしても、どうでもよかった。

体温のないナマエを胸に抱き、ナマエがトムの元から去った時から一度も訪れていなかったこの家へと戻ってから、すでに数年が経っていた。
分霊箱により魂がこの世につなぎとめられているにも関わらず、ナマエはまるで息をし続けることさえ望まぬように、ちいさなちいさな寝息しか立てない。

何一つ変わっていないというのに、ナマエが横たわって目を覚まさないというだけでこの家は薄暗く、ひっそりとした雰囲気に包まれている気がした。
ナマエとの思い出が家中に残っている分、トムはナマエが伏せっていることを思い知らされていた。

『ナマエがきみの前に身を投げ出したことの意味を、きみは知らねばなるまい』

ダンブルドアがナマエの記憶を悲しげに見つめながら言った言葉を、トムは思い起こした。ダンブルドアから受け取った記憶を、トムはまだ握りしめている。

この記憶を見たとて、ナマエは目を覚まさないだろう。むしろ、動いている彼女を見ることは、この眠り続けるナマエとあまりにかけ離れすぎていてトムにとって苦しみしかもたらさないように感じられた。

しかし、それを見ないという決断をすることは、トムには出来なかった。ナマエの肩に布団をかけて一度そこを手のひらでまるで祈りを込めるかのように撫でると――それは、この数年間ですっかりトムの癖になっていた――、彼女の寝室を出てトムの部屋へと向かった。

トムがペンシーブを使うことはほとんどなかった。あったとしても、計画をより緻密に組み立て直したいときや、死喰い人たちによる記憶にとどめておくには些細な報告をここに溜めておくくらいだった。それらはすべて、この家に戻った際に捨ててしまったけれど。

ペンシーブはトムを待っていたかのように扉を開き、不思議な液体をそこに漂わせていた。トムは手に握りしめた小瓶に杖を向けて開くと、そっとペンシーブにナマエの記憶を落とした。

すると途端にぐるぐるとそこが渦巻き、彼女の記憶であろう場面の断片がそこに浮かんだ。トムがそこに手を浸すと、途端に落ちるような感覚とともにその中へと降り立った。

そこに現れたのは、トムにはよく見覚えのある場所だった。彼にとってそこが良い場所だったかといえば到底――いや、小指の先ほどもそうは思えなかったものの、ナマエと過ごした時間だけで言えばそう悪くもなかったのかもしれない。

孤児院は、トムの中では鬱々とした暗い場所のように記憶されていたが、このナマエの記憶の中ではある程度温かみが感じられた。彼女の見たものを追憶するという点で、ここでは彼女の感性に物事が影響されているようだ。

孤児院の端の、手入れのされていない雑草が生い茂った花壇の前に、小さな子どもが二人しゃがみこんでいた。彼らにはトムが見えていないらしく、突然現れた知らない人間に気づくこともなく話し込んでいる。

『わたし、将来はどこか安定した仕事に就きたいわ。そうして、お金を貯めて、いつか出会う好きな人と暮らす家を建てるの。小さくていいから、自然に囲まれた、かわいい家。
そこでおばあちゃんになるまで好きな人と、それからその人との子どもと幸せに暮らすわ』

花の柔らかそうな葉を撫でながら、少女は言う。それは幼い頃のナマエだった。

『そんな平凡な生活がいいのか。他に望みがあるだろう』

それに対し、彼女の隣で同じく並び、花をつまらなそうに見つめている少年は、ナマエに呆れたような声色で返した。その少年を見た時トムの目は細められた。彼女にそう言ったことは忘れてしまっていたものの、その少年は間違いなくトムだった。

『あら、わたしの望みはそれだけよ。わたしにはそれが十分だわ。それ以上を望むのはきっと、わたしには過ぎた贅沢だわ』

それを聞いた幼いトムは、不満そうに顔を歪めた。そうしてそれに反論しようと彼が口を開いたところで、彼らをかき消すように場面が変わる。

今度は幼いトムの姿がなく、ナマエが孤児院の子どもたちに囲まれていた。彼らはしきりにナマエに向かって訴えかけている。

『なんでナマエはトムなんかと一緒にいるの?彼は邪悪だわ』

『ナマエは俺たちと遊んでいたのに、今じゃあいつとばっかりいるじゃないか』

『あいつは恐ろしい化け物だ。いまに痛い目にあうぞ』

子どもたちは幼い口調で口々に言った。ナマエは困ったような表情を浮かべてそれを聞いていたけれど、彼らの言葉を窘めた。それでも不満そうな子どもたちに、彼女はこう付け加えた。

『確かにトムはたまに意地悪になるけど、話してみたら案外やさしい人よ。あなたたちは彼に近づこうとすらしないじゃない。
それに、彼って可愛いところもあるわ。食事の時、嫌いな食べ物を黙ってわたしのお皿に入れるの。どうして食べないの?って聞いた時の彼の顔を見せてあげたい。きっと彼が可愛く見えるわ』

彼女はころころと笑って言うと、子どもたちの背中を押して日差しの差す庭へと促す。そこにいた幼いトムは、子どもたちの視線に含まれる恐れるような色が薄まっているのに気づき、怪訝そうな顔をした。

また場面が変わると、そこはホグワーツだった。組み分けの際の不安の入り混じった期待、そしてトムと寮が離れたことへの寂寥感といった、彼女の内面が伝わってくる。

ナマエはトムほど有名というわけではなかったものの、その気さくな性格から周りに多くの友人が集まっていた。特にフリーモント・ポッターやエル・マクスウェルといったグリフィンドールのクィディッチメンバーたちと行動を共にすることが多かった。

彼らに囲まれて教室を移動している時、ナマエは廊下の向こう側を歩く同じく学生時代のトムを見かけたらしく、にっこりと笑って手を振った。そんな彼女に気づいたトムはナマエをちらりと一瞥すると、何事もなかったように周りを囲むスリザリンの女子たちにとろけるような笑顔をくれてやり、そのまま歩き去った。

ナマエは不思議そうに首を傾げつつも、フリーモントに呼ばれたのか足早に駆け出した。

場面が変わる。ナマエは図書室でトムに頬を掴まれている。どうやら、ナマエにも優等生の仮面をかぶろうとしたが失敗した後のようだ。ナマエが嬉しそうに笑いながら、トムの髪をかき混ぜた。トムはそれに嫌そうな顔を浮かべたものの、手を払いのけることはなかった。

次に現れたのは、ナマエとはじめてホグズミードに行った後――もっとも、それはアブラクサスの姿を借りてはいたが――、ある程度トムとナマエの友人としての仲が知れ渡り、隠れる必要がなくなった二人はそのままの姿でホグズミードに訪れた時の記憶だった。

トムはそんなことがあったことなどすっかり忘れていたけれど、ナマエと二人で叫びの屋敷の近くまで訪れ、ベンチに座ってしんしんと降る雪を眺めていた。

『わたし、冬がいちばん好きだわ。雪が降ると最高にわくわくする』

そう言って空を見上げるナマエの鼻先に雪が一つ落ちるのを、隣に座ったトムはただ見つめていた。まるで見とれているかのように。

『もしかしたら、冬が好きなのはトムが冬生まれなのもあるかもしれないわね。あなたの生まれた季節だから』

ナマエは屈託なくそういうと、立ち上がって雪の中をくるくると回った。ベンチに座ったままのトムはそれを呆れたように見つめていたけれど、杖を向けて彼女の体が冷えないように呪文をかけた。

次の場面はグリフィンドールの寮の中だった。エル・マクスウェルに髪を梳かされ、プロムの用意をしているらしいナマエは、「きっとトムはあなたを見て言葉も出ないわ」というマクスウェルの言葉に「きっとそれはあまりにひどいからね」と返しながら唇に紅を差していた。

『あなたとトムって、共通点がないように見えるのに二人でいるところを見るとなぜかしっくりくるのよね。これがお似合いってことなのかしら』

『それをトムが聞いたらきっと妙な顔をするわ。「理解できない」って、口に出さないのに表情でそう言うの』

ナマエがおかしそうにそう言うと、マクスウェルは意外そうな顔をした。

『彼っていつも穏やかな笑顔を浮かべてるのに、そんな顔もするのね』

そんなマクスウェルに対し、ナマエは『彼は表情豊かよ。顔をしかめることにかけてはね』と返した。

そうしてナマエの記憶の中でも最も輝かしいものとして、プロムが描かれていた。もっとも、相手を務めるトムは言葉少なだったが。

――ナマエがトムのエスコートで美しくくるくるターンするのを、外側から見えない傍観者としてトムは見つめていた。
あの日、トムの選んだドレスに身を包んだナマエがあまりに美しく、そして魅力的だったので、トムは普段優等生としての仮面のためにどのような言葉も操ってきたというのにそのどれもが口に出来なかった。フリーモントがけしかけたこともありナマエのこんな姿をこれ以上他の生徒の目に晒しておくのは耐え難く、一、二曲踊った程度ですぐにプロムの会場から連れ出してしまった。
彼女の手をとって歩き出した時、あの時がいちばんトムにとって愉快だった。美しいナマエは自分のものだ、そう実感していた。

トムは当時を思い出して思考に沈んでいたが、気がつけばダンブルドアの校長室にいた。
ナマエは雪の降る窓の下を見つめるダンブルドアに目をやりながら、ためらいがちに言う。

『わたしはいつか、許してしまうかもしれない。彼と一緒にいるために、彼のしていることに目をつむってしまうかも』

ナマエは不安げだった。彼女の中の正義が揺らぐことを恐れていた。

『きみがもしそうなってしまったとしても、私がきみを責めることはない。意志を貫くということは、時折人をひどく傷つける。私はきみが苦しみの中に沈むことを望んではおらぬ』

『でも、先生、わたしがトムを許してしまったら、トムはどこまでも昏い場所に沈んでいくでしょう。わたしだけは、トムを止めなければいけない…』

うなだれたナマエの肩にダンブルドアが手を置いたその時、その記憶は溶けるようにして消え去った。

次に現れたのは、またダンブルドアの校長室だった。しかし二人の服装は異なっており、ナマエの格好にトムは見覚えがあった。季節外れの雪が降った日、ナマエが窓から飛び込んできたのを抱きとめたあの時、ナマエが着ていたものだ。

――ポッター家の赤ん坊が予言に当てはまると分かったあの日、ナマエはダンブルドアを訪ねていたのか。

トムは椅子に座るナマエの背中を見つめながら、眉をひそめていた。

『アルバス、わたしがここにきたのは他でもなく、あなたにお願いがあるからです。聞いていただけますか?』

ダンブルドアは深く頷いた。ナマエはそれを確認すると、淀みなく語り始めた。

『アルバスのお察し通り、わたしはトムがジェームズたちを見つけたときには、彼らの身代わりになって彼らを護ります。わたしが名付けたかわいい息子と、その家族をトムに殺させるわけにはいかないから』

そのとき初めて、トムはナマエがジェームズ・ポッターの名付け親だったことを知った。フリーモント・ポッターの息子であることは頭にあったものの、そこまでのことだった。

『ナマエ、きみはジェームズとその家族のために、命を投げ出すというのかね』

ダンブルドアは悲痛な面持ちだった。
ナマエはその問いかけに、しばらく言葉を選んでいるかのように口を開かなかった。彼女にとって、その質問に答えるには彼女の中の葛藤に向き合う必要があった。

『…もちろん、ジェームズたちを守れるなら、わたしはいくらでも命を投げ出すでしょう。
でも、何より、トムの魂を救うにはこれが最後のチャンスではないかと、そう思ったのです。きっと、幼く無垢な命を奪うことは彼の魂をひどく傷つけて、人ではなくしてしまうかもしれない。わたしにとってそれがどうしても耐え難いことなの』

それは静かな声だった。命を投げ出す覚悟を語るには、とても穏やかだった。

『きみの命を奪うことも、彼の魂を傷つけることと同じことじゃろう』

ダンブルドアは囁くように言った。彼女の覚悟を汲み取りながらも、やはりそれはダンブルドアにとって受け入れ難いものだった。

『そうかもしれません。でも、わたしは彼のためにそうするのです。結果は同じでも、きっとわたしと彼の間では違う意味を持つわ』

ナマエの意思がかたいことを悟ったのか、ダンブルドアは小さく頷いた。

『トムを愛しているのだね』

それは問いかけというよりは、すでに確信しているような声色だった。ナマエはその言葉に対する答えをすでに持っていた。

『ええ、アルバス。彼を愛しています。いっそ、わたしは彼を愛するために、生まれてきたのかもしれない』

この会話の中で、その言葉にナマエはいちばん確信を持っているようだった。毅然とした態度で淀みなく、凛とした声でそう言った。

トムは思わず記憶の中のナマエに手を伸ばした。まるでそこに実際にいるかのような――頬に触れれば温かさを感じるようなナマエの体温を感じることを、心から求めていた。

しかし記憶はそこで途絶え、指先がナマエに届くことなくトムは記憶の世界から引き戻された。ペンシーブは閉ざされてしまい、そこには銀色の光はもうない。

トムはいてもたってもいられなくなり、自らの部屋を出てナマエの部屋へと向かった。そこにいるのは記憶の中にいたナマエとは対照的な、眠ったままのナマエだ。

「きみはなんて愚かなんだ」

ナマエの手を握り、頬に触れながらトムは眠ったままのナマエに囁きかけた。

「愛なんて馬鹿げたもののために…私への愛のために、命を投げ出すなんて」

トムの声は震えていた。彼がそんな声色を出すことなど、ナマエすら知らなかっただろう。

「そして、それを一方的に伝えたまま、返事を聞こうともしない」

――きみはそれをひどいことだと思わないのか。

いつの間にか、トムの目から一筋涙が溢れていた。

物心ついたときから、トムが涙を流したことなど一度もない。自分にそんなものが残っていたことさえ、トムは知らなかった。
心臓がきりきりと痛む。この感情はなんだ、とトムは叫び出したかった。

涙が次々と溢れてくるのを、止めることはできなかった。ナマエの手を握りながら、トムは彼女の眠る布団に顔を伏せ嗚咽を漏らした。

そんなときだった。口を引き結んで声が漏れることに耐えていたトムに、小さく微かな声が聞こえた。

「トム、あなたって、そんな風に泣くのね」

トムはそれを都合のいい幻聴だと思った。
しかし、反射的に顔を上げてナマエを見た。

「泣かないで、トム。あなたが泣いていると悲しくなるわ」

そこには、永遠に眠るかのように目を閉じていたナマエが、光が眩しいのか目を細めて――しかし、確かにトムを見つめていた。

そうして、眠りから覚めたばかりのぎこちない動きながらもトムが握っていない方の手で、トムの頬に流れる涙を拭った。

「きみ、本当に生きているのか」

トムが唖然として言ったのはそんな言葉だった。いまだに目の前で起こっていることが信じられないようで、ナマエが頬を拭うのもされるがままだった。

「あら、もう一度寝て欲しいならそうするけど」

ナマエはトムの言葉に小さく微笑みながらそう言うと、ゆっくりと体を起こした。
トムはそんなナマエの行動ひとつにすら何も反応できず、ただ呆然とそれを見つめているだけだ。

「トムのこんなところを見るのはきっとこれが最後ね。よく目に焼き付けておくわ」

「…本当に?本当に、目を覚ましたのか」

トムはやっと、これを現実だと受け止めたのかナマエの頬を両手で包んだ。

「あなたが泣いてる時に寝ていられないでしょう」

くすくすと笑うナマエは、目を赤くしたままのトムの目尻を拭った。子どもの頃でさえ涙を見せたことはなかったのに、と穏やかに見つめながら。

「もしかして今まで寝たふりをしていたのか?あまりにタイミングが良すぎる」

そういつもの調子を取り戻したトムに、ナマエは「もうしおらしいトムはおしまいなの?」と不満げな顔をした。けれど、ナマエの背中に手を回して抱きしめるトムのこれ以上ないほど強い力に、どれだけ自分が目を覚ますのを待っていたかを感じ取ると、ナマエも彼の背中に手を回して優しくなだめるように撫でた。

「一度しか言わないから、聞き漏らさないでくれ。聞き返しても絶対に答えないからな」

トムはそんな前置きをすると、抱きしめていたナマエの肩を掴んで向かい合った。

「きみを、…きみを、愛してる。絶え間なく、人生をかけて」

トムの前置きはあっけなく破られ、彼がこれから何度もナマエにその言葉を告げることになるのを二人は知らなかったが、それは必然だった。

魔法界に闇が訪れることは、もう永遠になかった。

その世界の隅で、愛を知った二人が口づけを交わしたことを人々が知ることも、また永遠にないことだった。

もう二度とほどけないように

fin!

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