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08  異変
 隣に住んでいることがバレた以上、私には怖いものなど何もなかった。ゴミ出しの時にだらしない格好のままで鉢合わせても、たまに化粧の落ちて疲れ切った仕事帰りに出くわしても、お互いただのご近所さんと同じように軽く挨拶を交わすだけ。なんなら言葉を交わさず、視線を僅かに交わらせるだけで終わることもあった。
 元々そんなに深く関わりがあるわけではない。元家庭教師と、元生徒。それ以外の関係は一つもないのだから、この二ヶ月の距離感の方がおかしかったのだと思う。今はただのお隣さん。だから私も、そして先生も、通常モードに戻っただけ。そう、私達はあるべき姿に戻っただけなのだ。


「あ」
「あ」


 六月の中旬。天気は生憎の雨。梅雨入りしたとかしていないとかニュースで言っていたような気がするけれど、朝はいつもバタバタしているからきちんと見ている余裕はない。それに、梅雨だろうがそうじゃなかろうが、雨が降っていようがいまいが、仕事には行かなければならないから、天気予報はその日のことさえ分かれば良いと思っている私にとって、梅雨入りしたかどうかという情報は、特に必要なかった。
 玄関を出てエレベーターの前でばったり先生に出くわし、お互い短く声を出す。エレベーターはつい今しがた下りてしまったばかりのようで、ここまで上がってくるにはまだ少し時間がかかりそうだ。
 気まずい…と思うのもおかしな話だけれど、この妙な沈黙が居た堪れないのは事実だった。恐らく先生の方は何とも思っていないのだろう。黙っていれば整った顔。その表情が変化することはなかった。

 しとしとと雨音だけが聞こえる中、先生がふと私の方へと視線を寄越す。私は何も考えずに、ただぼーっと先生の横顔を眺めていたものだから、バッチリ視線が交わった。
 ここで慌てて視線を逸らすのもやっぱりおかしな話なのだけれど、なんとなくふいっと逸らしてしまったのは反射のようなものだ。別にほんの数週間前の車内でのやり取りのことを思い出して悶々としているわけじゃない。先生の口から零れた「可愛い」というくだらない形容詞一つに、私が振り回されるわけないじゃないか。


「傘は?」
「え?あ!」
「雨降ってんのに傘忘れる奴、初めて見たわ」


 言われて気付いた。一日中雨の予報が出ているにもかかわらず、傘を持っていないということに。嫌味ったらしい言い方にカチンときたけれど、今回ばかりは何も言い返せない。自分でも馬鹿だなと思うし、なんなら指摘してくれて良かったと思ったぐらいだ。
 私は急いで家まで引き返すと、玄関に置きっぱなしにしていた可愛げのないビニール傘を引っ掴んでエレベーターのところまで戻った。どうせ私が引き返している間に、先生は先に下りてしまっているに違いない。
 そう思ったのに、戻った先にはなぜか先生の姿があった。私が戻って来たのを見て何食わぬ顔で「早かったな」と声をかけてきたけれど、エレベーターは確実に一階に下りている。つまり、先生はエレベーターに乗らず、まるで私を待つみたいにこの場所にとどまっていたということになるのだけれど。…いや、そんなまさか。だって、何のために?
 私が戸惑いの色を浮かべていることに気付いたのだろう。先生はまたしても嫌味ったらしく「変な顔してどうした?」と言ってきた。けれど私はカチンとくるより先に疑問が大きく膨れ上がっていて、言い返す言葉を探せない。代わりに出てきたのは、


「先生、なんでまだここにいるんですか…?」


 心の中で膨れ上がりすぎた問いかけだった。先生は動揺を見せるわけでもなくキョトンとしていて、私が意味の分からない発言をした、みたいな雰囲気になっているけれど、この流れでいけば私の発言には何もおかしなところなどないはずだ。


「通勤、いつもバスだろ」
「え?私の話……?」
「他に誰がいんの?」
「そうですけど…えっ、なんで知ってるんですか?こわっ」
「バス停でぼけーっと突っ立ってるところ何回か見た」
「ぼけーっとって、失礼な!」


 確かに朝は眠たいしぼけーっとした顔で突っ立ってると思うけど!ゴミ出しの時の格好よりマシでしょ!いや違う、そういうことが言いたかったんじゃない。その言い方は女性に対してアウトでしょってことが言いたかったんだ私は。先生にはデリカシーというものがない。まあそんなの昔から知ってるけど。再会してからも痛感しまくってるけど。
 むすりと先生を睨みつけている時に、ちょうどエレベーターがやってきた。二人して乗り込み、一階のボタンを押す。ゆっくりと扉が閉まり、この箱の中には私と先生の二人きりだ。


「今日バス遅れてるのにこんな悠長な時間に出て間に合うのか?」
「雨で多少遅れるのは計算してますよ」
「近くで事故があって渋滞してるってニュース見てねぇのかよ」
「え。……え!それは困る!遅刻しちゃう!」


 朝は基本的に先生に会わない。それは恐らく私がいつも先生より早く出勤しているからだ。けれど今日は先生と同じ時間になった。つまり、先生がいつもより早く出ているということ。先生は渋滞のことを見越して、いつもより早めに家を出ることにしたのだろう。
 かたや私ときたら、雨で少しぐらい遅れるかもしれないけど大丈夫でしょ、ぐらいの気持ちでいつもとほぼ同じ時間に家を出ているものだから、事故で渋滞しているなんてハプニングが発生しているとなると遅刻必至だ。
 こんなことならきちんとニュースを見ておくんだった。いや、そもそもニュースを見れるだけの余裕を持って早起きしておくべきだった。まあ今そんな風に思っている私だけれど、どうせ明日からも早起きなんてしないことは目に見えている。私はそういう女なのだ。
 ただ、今は明日からのことを考えている場合ではない。これから遅刻しないためにどうするか。それが一番の問題である。
 自分がどんな顔をしているのかは分からないけれど、少なくとも普段より焦っている様子を窺い知ることができたのだろう。先生は、はあ、と分かりやすく溜息を吐いた。その溜息からは「馬鹿だな」という声が聞こえてきたような気がする。


「どうせそんなことだろうとは思ってた」
「もしかして私が焦るところを嘲笑うために待ってたんですか…性格悪すぎますよ……」
「あのな。俺のことどんな性悪だと思ってんだよ」


 エレベーターが一階に到着し、扉が開いた。先生がゆっくり降りて、私は急ぎ足で降りる。と言っても、バス停まで急いだところで遅刻してしまう可能性が高いから、タクシーでも捕まえるしかない。
 先ほど取りに行ったばかりのビニール傘を乱雑に広げて、雨の中に一歩踏み出す。しかし、二歩目を出すことはできなかった。傘を持っていない方の私の手首を、先生が掴んで引っ張っていたからだ。
 ただでさえ時間が惜しいというのに、一体何だろうか。渋滞の情報を与えてくれたことには感謝しているけれど、だからこそ今ここで油を売っている場合ではないということぐらい、先生なら分かっているだろうに。


「送って行ってやろうかと思ったのに」
「はい?」
「言っとくけどタクシーなんてそう簡単に捕まんねぇと思うぞ。考えることみんな同じなんだから」
「……確かに」


 私の思考の一歩も二歩も先を行っている先生の言うことは、いちいち的を得ていてぐうの音も出ない。私は振り返って、雨の中に踏み出した足を元に戻した。


「先生は仕事遅れないんですか」
「職場、どこらへん?」
「あの大きなショッピングモールがある駅の近くです」
「俺の職場もそっち方面だから遅れることはない」


 そこまで言って「どうする?」と私に尋ねてきた先生は、もう私の答えが分かっているような気がした。その証拠に、薄らと口元に笑みを浮かべている。
 あの日以来、まともに先生と話す機会はなかった。もう二度と先生の車に乗り込むことはないだろうと思っていた。それなのに、突然のハプニングとは言え、まさかこんなことになるなんて。
 先生と話すのが気まずいというか居た堪れないというか、兎に角、そわそわしてしまう。そうなっている理由は分からない。…否、なんとなく分かってはいるものの、理解ができていないと言うべきだろうか。
 何も意識する必要なんてないのに、そう思えば思うほど意識してしまう謎。今まで通りに、と言い聞かせても、今まで通りが分からなくなってしまっている。だから本当ならこの場合、これ以上の混乱を防ぐためにも「結構です」と断るべきなのに。


「……お願いします」
「貸しイチな」
「そういうこといちいち言ってくるところが性悪なんですよ。自分から提案してきたくせに」


 私は彼の思惑通りにお願いしてしまった。お願いする立場でありながらこんな言い方をするのがNGだということは分かっている。これでもし「そんな言い方して良いのか?」と上から目線でこられたら、私は「じゃあもう良いです!」と突っ撥ねていただろう。けれど先生はこういう時に妙な大人力を発揮して「そうだな」と引き下がってくれるから、前回同様に調子が狂う。
 先生がどこまでも冷酷な人でなしだったら、きっと私はそわそわなんてしていない。先生にとって特別な意味はないのであろう言動の数々、昔は知り得なかった先生の一面を見る度に、私の心の中で小さな波紋が広がる。それが戸惑いに繋がっているのだ。
 じんじん。掴まれた手首が、ひどく熱を帯びていた。

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