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07 遭遇
 就活を始めて一ヶ月。五月下旬に差し掛かり、そろそろ次の仕事を決めたいと焦り始めていたところで、どうにかこうにか就職先が決まった。仕事内容は今までと同じ事務系。だから、物覚えが悪い私でもどうにかなるだろう。とりあえず、就職先が決まってほっと一安心だ。
 早速来週、六月頭から出勤してほしいと言われたので、今日は仕事用の服でも買いに行こうかと思って準備をしているところ。服を買うなんて随分と久し振りな気がするから、気分は上がる一方だ。
 時刻は朝の十時過ぎ。早めに出て買い物を済ませたら、今日は外でランチしちゃおう。大丈夫。まだ貯金はあるし、仕事を始めたらどうにかなる。就職祝いも兼ねて、贅沢ランチと洒落込もうじゃないか。私はルンルン気分で家を出た。
 しかし、そのルンルン気分は一瞬にして吹き飛ぶこととなる。なんともタイミングが悪いことに、私が出て来たのとほぼ同時に隣の部屋の扉が開いて、先生が現れたからだ。今まで鉢合わせたことなんて一度もなかったのに。なんで今日に限って。
 先生と目が合う。眼鏡の奥の瞳は大きく見開かれていて、驚愕していることを物語っていた。


「……お前、そこに住んでんの?」
「えへ」
「いや、えへじゃねぇだろ」


 適当に誤魔化してさっさと立ち去ろうという作戦だったのに、先生はそう簡単に誤魔化されてくれなかった。まあ「えへ」と笑顔を見せて誤魔化せるのは飛びっきり可愛いアイドルぐらいのものだろうから、私には最初から成功不可能な作戦だったと思って、別の作戦で逃げおおせるしかない。
 私も先生も玄関の扉の前から動くことができずに固まったまま、数秒が経過した。さっさと行ってくれれば良いものを、先生がその場から動いてくれないから私も動けずにいる。私の方から動いても良いのだけれど、エレベーターのところに行くには先生の横を通過しなければならないのだ。先に先生が動いてくれた方が、どう考えたってスムーズである。


「この前やたらキョロキョロしてたのはこういう理由か」
「もうその話は良いじゃないですか。大したことじゃないし」
「大したことじゃないくせに、この前うちに来た時にそのことを隠してたのはお前だけどな」
「だって、まさか同じマンションのお隣さんだなんて思わないじゃないですか!寝て起きたら悪い夢だったってこともあり得るんじゃないかと思ってあえて黙ってたんですよ」


 今言ったことはほぼ本音だ。寝て起きたら隣の人は引っ越しました、なんてことになってないかな〜とか、私の見間違いで住んでいる階数は違いました〜とか、兎に角、先生が隣人ではないという状況になってくれないかと、毎日祈っていた。
 しかし、その祈りは通じなかった。だから今こんなことになっている。私に憑いた不幸の神様は、どうやらいまだにご健在且つ絶好調でいらっしゃるらしい。
 どうやったら私から離れてくれるのだろう。もしくは、元気をなくして力を発揮しなくなってくれるのだろう。いずれにせよ、方法があるなら誰か今すぐに教えてほしい。切実に。
 先生は私の発言を聞いて心底「馬鹿だな」と言いたげな顔付きをして見せた。はいはい、私はどうせ馬鹿ですよ。馬鹿だから先生みたいな性格の悪い家庭教師に縋り付かないと大学合格できなかったんです。知ってるでしょ。私の馬鹿さ加減。
 私は先生に心の中で目一杯反論した。実際には、むっとした顔で睨むことしかできなかったけれど、先生ほどの人なら私の心の声まで聞くことができるかもしれない。


「ニートのくせにここの家賃払えんの?」
「残念でした!私はもうニートじゃないんです。来月から仕事しますのでご心配なく」
「え?お前、仕事決まったの?」
「そうですけどそれが何か」


 先生のことだから「お前みたいなヤツを雇ってくれる優しい会社があって良かったな」とか「それこそ夢じゃねぇの?」とか、何かしら悪意のこもった一言を投げつけてくるに違いない。
 そう思って身構えていた私に、先生は思いがけないセリフを言ってきた。しかも得意げな笑みを添えて。


「俺の言った通りだっただろ?」
「はい?」
「名字はやればできるヤツだって」
「あ、ああ…そういえばそんなこと言ってくれたような…」


 予期せぬ展開に、私はしどろもどろして視線を泳がせてしまう。だって、そんな、まさかここで褒めるような言葉を言ってもらえるとは思わなかったから。こういう時、私はどんな反応をしたら良いか分からない。
 可愛くて素直な教え子だったら「ありがとうございます」とか「これから仕事頑張ります」とか、当たり障りのない言葉を笑顔とともに返すのかもしれないけれど、生憎私はそんなキャラじゃない。それ以前に、先生に対して笑顔を振り撒くなんてできそうになかった。
 大体、先生も先生だ。どうせならずっと嫌なヤツであってくれたら良かった。憎まれ口ばかり叩いて、嫌味ばかり言ってきて、私に大人気なく突っかかってくるような、そんなイラッとする人間であり続けてくれたら良かった。のに、時々今のように優しさをチラつかせ、善良な人間を装おうとするからタチが悪い。
 卑怯だ。姑息だ。惑わそうとしたってそうはいかないぞ。私は首を左右に軽く振って、泳がせていた視線を先生へと戻した。


「そういうわけなので、今から買い物に行きたいんです。そこ退いてもらえますか?」
「いつもの激安スーパー?」
「違いますよ。出勤用の服とか靴とか色々買うのにスーパーに行くわけないじゃないですか!」
「どこまで?ついでだから送ってってやろうか」


 なんだなんだ。一体どうしたというのだ。先生がちょっと、否、だいぶ優しい。いつも辛辣な言葉か喧嘩を売るような言葉か、そうでなければ嫌味ぐらいしか言われないというのに、今日は何が起こっているのだろう。
 ていうか平日のこの時間に私を送っていけるほど余裕があるのだろうか。私の仕事云々よりも、先生の方は大丈夫なのか心配である。


「どうせ電車かバスで行くんだろ?」
「……何企んでるんですか」
「人聞き悪ぃな。俺が車で送ってやったら交通費浮くだろうと思って声かけてやったのに」


 交通費が浮く。その言葉に思わず反応してしまった私は、とことん貧乏性だ。しかし、たかが交通費。されど交通費。節約できるところはできるだけ節約したいというのが正直なところである。ケチだと言われても良い。私は未来の自分のために、少しでも無駄遣いをしたくないだけだ。
 迷った末、私は先生にお目当てのお店の近くまで送ってもらうことにした。先生の車には一度乗らせてもらったことがあるし、二人きりになったところで何も起こらないことは実証済み。


「じゃあ、お願いします」
「はいはい」


 玄関先から駐車場へと場所を移した私達は、車に乗り込んでシートベルトを着ける。行き先を伝えれば、先生は「あそこらへんか」と呟いて車を発進させた。
 私は方向音痴だし地理にも疎いから、カーナビがあるにもかかわらず行き先設定をせずに走り出した先生の心理が読めない。これで目的地に辿り着けなかったら飛んだお笑い種だけれど、恐らくそんなことにはならないのだろう。


「道、分かるんですか」
「分かるから走ってんだけど」
「凄いですね」
「は?」
「え、いや、カーナビ使わずに目的地まで行けちゃうなんて凄いですね、って」


 素直に思っていたことを口にすれば、先生は心底驚いた様子で「珍しいな」と呟いた。何が?と思ったけれど、そういえば私は先生に対して、常に喧嘩腰な発言しかしていなかったような気がする。だから今のように素直に先生のことを褒めたのは、これが初めてだ。
 人のことは言えない。私も先生と同じように大人気ない発言しかしていなかったことに気付いてしまった。


「いつもそれぐらいしおらしかったら少しは可愛いのにな」
「かっ……、余計なお世話です!先生の方こそ、黙ってたら結構イケメン風なのに!」
「ほらまた始まった」


 言い返せば、やれやれ、といった様子で肩を竦められてしまい、口を噤んだ。
 だって、今のは仕方ない。先生が急に可愛いなんて言うものだから頭の中が一瞬真っ白になって、何も考える余裕なく言葉を発してしまったのだ。
 可愛い。先生はその単語に特別な意味なんて込めていないだろうけれど、一応女である私としては、ドキッとする単語だった。だから反応してしまった。まったく、調子が狂う。
 早く着いてくれないかな。隣の先生は何も気にしていない様子で運転を続けていて、気まずいと感じているのは私だけ。それがまた悔しくて、早く降ろしてほしいという思いは募る一方だった。

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