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09  交換
 貸しイチ。そう言われたけれど、私の計算によると貸しは三つある。一つ目は買い物の後でビニール袋が破れてエコバッグを借りたこと、二つ目は貧困生活を送る私にご飯を恵んでくれたこと、そして三つ目は先日遅刻しそうだった時に車で職場まで送ってくれたこと。
 一つ目は予想外のハプニングだし、二つ目も三つ目も私から頼んだわけじゃなく先生から持ちかけてきたことではあるけれど、結果的には全て助けられている。それならばきっと「貸し」ということになるのだろう。となれば、貸しは返さなければならない。さて、私はどうやって先生にその貸しを返せば良いのだろうか。それが私のここ最近一番の悩みである。
 先生に貸しを作りっぱなしにしておくのは、弱みを握られているみたいでなんとなく嫌だ。だからどうにかして返したい。そう思ったところで、私より何枚も上手な先生には貸しばかりが増えていくような気がしてならない。
 ……と、思っていた矢先の出来事だった。


「お前、新しい彼氏なんかできてるわけないよな?」
「急に来たと思ったら何ですか、藪から棒に。人の古傷を抉って」
「来週の日曜日」
「いや、だから何なんですか?」
「俺に付き合えよ」


 七月を間近に控えた六月下旬、金曜日の夜。時刻は九時を過ぎた頃で、私は玄関先のチャイムが鳴ったことにびっくりして肩をビクつかせてしまった。
 誰かがうちに訪ねて来た場合、このマンションにはテレビ付きインターホンという便利なものがある。だから本来であればそちらが先に鳴るはずなのに、そのワンクッションなしに玄関のチャイムが鳴ったからである。
 恐る恐る、抜き足差し足忍び足で覗き穴から外を確認した私は、再び驚く。そこに立っていたのが先生だなんて、全く想像していなかったからだ。
 しかも突然訪ねてきたかと思ったら、彼氏がいないことの確認をしてくるという無礼極まりない所業。しかもそれだけでは飽き足らず、日曜日に付き合えときた。まったくもって話の流れが理解できない。というか、これで理解しろという方が無理な話である。


「それ、私が応じると思います?」
「昼も夜も飯は俺の奢り」
「……またチャーハンですか」
「昼夜どっちも外食」


 餌をチラつかされて尻尾を振ってしまう犬にはなりたくないと思っていたのだけれど、昼夜共に外食で奢りという響きは非常に魅力的で、ひとりでに尻尾が揺れてしまう。先生は私のウィークポイントを弁えすぎているのではなかろうか。いや、私が単純すぎるだけかもしれないけれど。
 玄関先で悩むこと十数秒。私は、よく考えてみれば何に付き合わされるのか確認していなかったことに気付いた。危ない危ない。たとえ今度こそ美味しい料理を奢ってもらえるとしても、変なことに付き合わされるのは真っ平御免である。


「日曜日、何があるんですか?」
「それ訊く?」
「当たり前でしょう」
「……俺の会社のお偉いさんと会食」
「はい?」


 まったくもって意味が分からなかった。分からなすぎる。どうして私が先生の会社の上司との会食に同席しなければならないのか。その理由がひとつも思い浮かばない。
 私がかなり怪訝な顔をしていたのだろう。「そんな変な顔すんなよ」と指摘をされたけれど、そりゃあ変な顔にもなる。いや、変な顔っていう言い方は失礼すぎるでしょ。それが人にものを頼む態度なのか。先生は私に対して大人としてあるまじき言動を取ることが多いから麻痺してきているけれど、普通なら許されないことだらけだ。


「私にそんな言い方して良いんですか?」
「じゃあ引き受けてくれるってことで良いんだな?」
「う……それは……」


 マウントを取るつもりだったのに、形勢はすぐに逆転。なぜ頼み事をされている立場の私が気圧されているのかは分からないけれど、先生の視線と声からは有無を言わせぬオーラを感じた。


「良いんだな?」
「わ、分かりました!これで貸し一つチャラですからね!」
「はいはい。詳しいことはまた連絡するから。連絡先だけ教えて」
「え」


 先生と連絡先を交換するのは、正直ちょっと抵抗があった。悪用されそうとか、くだらない連絡が来そうで嫌だとか、そういうことは全く思わないのだけれど、プライベートで何かしらのやり取りをするということ自体に違和感しか感じなかったからだ。
 恐らく先生のことだから業務的な内容しか送られてこないだろうとは思うけれど、それでもなんというか、自分の携帯の中に先生の連絡先が登録されているというだけで緊張感があるのは、学生時代のことがあるからだろうか。
 今はお互い社会人。あの頃とは違うと分かっている。違うからこそ、困っているというのもあるのだけれど。
 私が連絡先の交換を渋っていると、先生は面倒臭そうに溜息を吐いた。つくづく失礼な人である。そんな態度じゃ日曜日すっぽかしちゃうぞ。…なんて思ったところで、実際にそれを実行にうつせるほど、私は肝が据わっていないし、恐らく先生はそれを分かっている。それが非常に悔しい。


「いちいち部屋まで来た方が良いならそうするけど?」
「それはちょっと……」
「だろ?」
「分かりました。教えます。ちょっと待ってください」


 結局、なんだかんだで先生の良いように事が進んでいるのは癪だけれど、小さな連絡事項を伝えるためだけに家に来られるのは鬱陶しいし、何より心臓に悪い。今日だってかなり驚いた。少し寿命が縮まったかもしれない。
 兎に角、こんなことを日曜日までに何度も繰り返されるのはこちらとしても困る。そんなわけで私は一旦部屋の中に入り、携帯を持って再び玄関へと戻った。
 メッセージアプリを開いて差し出せば、先生は画面を見てなぜか首を傾げていて、私の方が首を傾げてしまう。連絡先を交換するんじゃなかったのか。


「先生も起動させてくださいよ」
「何を?」
「これ!アプリ!」
「そんなのないけど」


 今時、このメッセージアプリをインストールしていない若者なんてそうそういない。だから私は、そんなはずないでしょう、と言いながら先生の手から携帯を奪い取り画面へと視線を落とした。そして愕然とする。
 スマートフォンの画面はこんなにもシンプルなものだっただろうか。初期設定から全くいじられていない雰囲気がプンプンする。なるほど、確かにこの携帯の中にはアプリの「あ」の字もない。
 私は先生に携帯を返し、自分の携帯のメッセージアプリの画面を閉じた。そして、連絡先の画面を開く。最近ではいつどこで登録したのかも分からないダイレクトメールを受信するばかりで自分から送信することはなくなってしまったし、もはや自分のメールアドレスもうろ覚えだけれど、先生とはメールか電話でやり取りするより他ないだろう。


「先生、機械音痴なんですか?」
「必要ない機能は入れてないだけ」
「職場の人とか友達とか、全員とメールでやり取りしてるんです?」
「今のところはな。それで困ったことないし」
「まあ…先生はそうかもしれませんけど」


 言いながら、表示された先生の連絡先を登録する。その場でメールが送れることを確認し、ついでに電話もかけて電話番号を登録し合った。連絡先に追加された「御幸一也」の文字。なぜだろう。やっぱりどこか緊張する。
 そんな私の複雑な心境など露知らず、先生は私の連絡先を登録し終えたと思ったらさっさと自分の部屋に戻って行った。どこまでもマイペースな人である。
 玄関の扉を閉め、鍵をかけたところで震えた携帯。画面を確認すれば、メールがきていた。差出人の欄には、今登録したばかりの人物の名前が表示されている。
 件名はなし。本文に「これからよろしく」というシンプルなメッセージだけがあって、先生らしいなと思わず笑ってしまった。これから、なんて言っているけれど、日曜日のことが終わればメールのやり取りなんてしなくなるでしょ。そう思ったらほんの少しだけ寂しいような気もしてきた、なんて。きっと気のせいだ。

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