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05 訪問
 やばい。とても嫌な予感がする。というか、これはもはや予感ではない。完全に嫌な出来事が起こっている真っ最中だ。私は見覚えのありすぎるマンションの駐車場で、白目を剥きそうになっていた。

 買い物を終えた私は、先生に美味しいご飯を奢ってもらうべく、大人しく後ろを付いて行っていた。先生はスーパーに車で来ていて、白い普通車の後部座席に買ったものをのせている。車種はよく分からない。ただ、見た感じ高そうな車だ。右ハンドルだから外車じゃないことは確かだけれど、車に疎い私にはそれ以外の情報は皆無だった。
 ていうか先生、貧乏だから激安スーパーを利用しているんじゃなかったのか。それなら尚更、前回の半額のお肉と今回の特売の卵は私に譲ってほしかった。
 食べ物の恨みは怖い。その上、私は執念深い女だ。恐らく私は、未来永劫、先生に肉と卵の恨みを募らせたまま生きていくだろう。…と、思っていたけれど、今日先生が美味しいご飯を奢ってくれるというのなら、チャラにしてあげないこともない。


「食ったらまたここに送ればいいんだよな?」
「はい。自転車があるので」
「分かった」


 助手席にお邪魔し、シートベルトをつけたところで、私は今更のようにハッとする。それなりに知っている人物とはいえ、他人の、しかも男の人の車の助手席に警戒心なく乗り込んでしまった。たとえ私にそれらしい雰囲気がなくとも、一応生物学的分類としては女性なのだから、もう少し危機感というものを持たなければならなかったと反省する。
 まあ先生は私のことを女として捉えていないようだから、襲われることはまず有り得ないと断言できるからいいとして、ご飯を奢ってもらえるからといって軽率に知らない人に付いて行かないように気を付けなければならない。いや、さすがに子どもじゃないんだからそんなことはしないけれども。
 車がぶーんと発進して、軽快に進む。天候によっては自転車だと汗ばむようになってきたこの季節でも、車だと快適だ。何より速い。いいなあ、車。免許はあるけれど、所謂ペーパードライバーな私は、もう何年もハンドルを握っていない。きっと今運転したら事故を起こしてしまうだろう。
 なんたって私は今、不幸の神様に気に入られている。きっと貧乏神のように、不幸の神様が私の肩に憑いているのだろう。どこかに行けと言いたいところだが、神様を怒らせたら更に恐ろしいことになりかねない。だから私は、せめてこれ以上は神様の力を発揮しないようにしてほしいと願うばかりだ。
 しかし、その願いはどうやら聞き入れられなかったらしい。ものの数分で到着した先生が住んでいるというマンションは、どこからどう見ても私が住んでいるマンションと同じだったのである。こんな展開、誰が予想できただろうか。助手席から外の景色を眺めながら、見覚えがあるなあ、とは思っていた。私の家と同じ方向なんだなあとも思っていた。けど、全く同じって。どんな偶然だ。
 立ち止まって呆然としている私に「行くぞ」と声をかけてきた先生は、私が先生と同じこのマンションの住人だなんて夢にも思っていないのだろう。ていうか、ご飯奢ってくれるって言ったくせに家に招かれるってどういうことだ。興味ないと見せかけて私を襲う気なのか。これだから男ってのは怖い。


「おい。何ぼさっとしてんだよ」
「美味しいもの御馳走してくれるんじゃなかったんですか」
「だからうちに来たんだろ」
「私、中華がいいです」
「恵んでもらう立場の奴がリクエストすんなよ」
「だって先生の家にお邪魔するのは…なんか…ねえ?」
「安心しろ。お前みたいなちんちくりんは犬と同じかそれ以下だ。変な気は絶対に起こらねぇよ」
「さようですか!じゃあ遠慮なく!」


 どこまでも失礼な男だった。私だって分かってましたよ。先生がそんな風に思ってることぐらい。でも、たとえそれが本音だとしても、大人ならもう少しオブラートに包んだ言い方ってもんがあるじゃないですか。先生、絶対に会社で孤立してるタイプだよね。こんな歯に衣着せぬ物言いばっかりしてたら敵しか作んないわ。
 先生と一緒にいるとヤケクソにならざるを得ないことばかりで、そのうち血管がぷつんと切れてしまいそうだ。そんなことを思いながらも、私はどんどん先を行ってしまう先生の後姿を追った。
 いつも使っているエレベーターに、初めて乗ります、という顔(どんな顔かは自分でも分からない)で乗り込む。そして先生が押したボタンの数字を見た私は、衝撃を受けた。四。つまり四階。私と同じ、四階。そんなまさか。冗談やめてくださいよ。
 心の中で私が絶叫していることなど露知らず、先生は四階でエレベーターを降りて私の部屋の方へと向かっていく。待って。それ以上近付かないで。お願いします不幸の神様。お仕事せずにお休みくださいませ。
 これ以上ないほど一生懸命お祈り申し上げたにもかかわらず、不幸の神様は私を無視してフル稼働していらっしゃる模様。お陰様で先生が鍵を使って開いた扉は、私の部屋のちょうど真隣だった。ここに引っ越してきて二ヶ月。もはや出会わなかったことが奇跡である。


「どうした?入れよ」
「……お邪魔します」


 ここまで来て引き返すことはできない。なんならダッシュで自分の家に帰りたい気分だが、そんなことをしたら先生に私がお隣さんだとバレてしまう。引っ越してきた時に挨拶回りをしなかったことが良かったのか悪かったのか。引っ越してきた時点で先生と出くわしていたら、それはそれで最悪だっただろうから、しなくて良かったと思うことにしよう。
 男の人の一人暮らし(だと思う。彼女はいなさそう。玄関に女っ気がひとつもない)にしては小綺麗な室内。台所も、もしかしたら私の家よりも綺麗なんじゃないかってほど整理整頓されている。
 買ってきた食材をテキパキと冷蔵庫に片付けていく先生は、まるで主夫のよう。私は「適当にそこらへん座っといて」と言われるがまま、台所に置いてあるダイニングテーブルの椅子に腰かけてその様子を眺めていた。
 夢のカウンターキッチン!と思って借り始めたこのマンションだけれど、彼氏に手料理を振る舞うことはほとんどなかった。私が台所に立っている姿を見てもらったことも、記憶を辿る限り一度もないと思う。それなのに、私は先生が料理をしているところを眺めている。なんという面白い展開だろう。全然笑えないけど。


「美味いもんって、先生の手料理ですか?」
「うちに来させておいて手料理以外の選択肢ねぇだろ」
「私、中華がいいです」
「中華中華ってうるせぇな…」
「ほら、酢豚とか」
「黙って待ってろ」


 どうやら本当に手料理を振る舞ってくれるようで、先生は野菜を切り始めた。トントントンというリズミカルな包丁の音が、先生の料理の上手さを物語っているようで非常に癪だ。私、たぶんこんなに早く包丁動かせない。先生って何者?
 かつての家庭教師の先生に手料理を御馳走になろうとしている構図って、どう考えたっておかしいよなあ。しかも私の家、隣なんだもんなあ。絶対に意味分かんない状況だよなあ、これ。
 先生の料理風景をぼんやり眺めながら考える。先生はどうして私に手料理を振る舞う気になったんだろう。どれだけ憐れな女に見えようとも、自分には関係ないのだから放っておけばいいのに。ていうか、先生ってそういう人だと思ってたのに。
 お金をもらって雇われていたから、出来損ないの私に根気強く勉強を教えてくれていたのであろうあの頃。でも今は、何の契約関係もない。つまりこれはあきらかな善意。もしくは慈悲である。先生には全く似つかわしくない単語。…だと思っていたけれど、今日からはその考えを少し改めようと思う。
 少しずつ香り始める香ばしい匂い。私のお腹はひとりでに鳴き声を上げ始める。それが聞こえたらしい先生は、カウンターの向こうから「腹の虫もうるせぇな」と憎たらしいことを言ってきたけれど、その表情は少し朗らかだった。だから私も、そんなにイラっとしなかった。こんなのは初めてだ。

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