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04 急転
 地道に就活を続けてはいるものの、この世の中、三十歳を目前に控え目立った資格も持っていない私のような女を喜んで受け入れてくれそうな企業は多くない。いや、条件を選ばなければそりゃあ腐るほど色んな会社がヒットするにはするのだけれど、私はそこまで身を粉にして働きたくないという我儘女なのだ。
 給料は高ければ高いほどいいに決まっているし、週休二日という条件は譲れない。勿論、残業は基本的になくて、あってもきちんと残業代を支払ってくれるところじゃないと嫌だし、人間関係がギスギスしていないところが良い。「今時そんなホワイト企業あるわけないだろ」というどこかの誰かさんの声が聞こえてきそうだけれど、私は何も全ての条件を満たしてほしいと言っているわけじゃない。あくまでもこれは理想の話だ。余計な口出しはしないでほしい。…いや、本当に口を出されたわけじゃないんだけど。
 私は通帳の残高を確認しながら、自分にあとどれぐらいの猶予が残されているのかを計算する。突然の契約解除だったということもあり、元の雇用会社からはそれなりの額のお金が振り込まれた。派遣先の会社から契約を解除されたとは言え、派遣会社自体をクビになったわけではないから、引き続き派遣先を紹介してもらうこともできる。適当な会社で間をつなぎ、どこか良さそうな会社の正社員になる。それが最も理想的だ。
 しかし、良さそうな会社、ねぇ…。私は例の激安スーパー(駐輪場に行くまでの道のりで買ったものをぶち撒けるという事件があったいわくつきのスーパー)の魚コーナーで小さく唸り声をあげた。魚は高いなあ…お肉の方が断然安い。魚も食べたいところだけれど、今はちょっと我慢かなあ。
 職を失ってから二週目に突入しようとしている四月末。世間はゴールデンウィークという長期休暇に入っているらしい。まあ現在毎日が日曜日な私には関係のない話である。…と思っていたけれど、長期休暇中はスーパーに家族連れのお客さんが増えるから、タイムセールでの競争率が高まるということに気付いてしまった。今日も戦争だ。

 現在、私の籠の中には激安もやしの袋がいくつか入っているだけで、それ以外の食材はなし。家に他の野菜類も少しずつ残っているし、つい最近メイン食材となるお肉もゲットした。冷凍保存してあるから大丈夫。今日のお目当ては卵である。
 足早に卵売場に行くと、そこにはラスト二パックとなった卵が陳列されていた。良かった。間に合った。そうしてホッと胸を撫で下ろし私が片方に手を伸ばしたところで、いつかと同じように誰かの手が伸びてきて嫌な予感がした。顔を上げる。ほら、この眼鏡。見覚えあるもん。完全にデジャブだ。


「…何の嫌がらせだよ」
「それはこっちのセリフです」
「エコバッグの恩を忘れたのか」
「いちいち過去の恩を持ち出す男はモテませんよ」
「買ったもんを盛大にぶち撒ける女よりはモテると思うけどな」
「先生…あの頃より確実に性格悪くなってますよね?」


 エコバッグ事件(と命名することにした)以来、先生と出くわしたのはこれが初めてだ。会いたくはなかったけれど、これでエコバッグが返せる。それは良かった。が、何もこんな形での再会じゃなくても良かったのに。何が楽しくて先生と何度も食べ物の取り合いをしなければならないのだ。
 ちなみに私達が低俗な言い争いをしている間に、もう一パックはおばさんがすっと持って行ってしまったから、卵はこの一パックしかない。他にも特売ではない卵なら沢山残っているけれど、私はこの特売の卵が欲しいのだから譲りたくはなかった。ということは、またもやジャンケン勝負をするしかないではないか。
 先生の方も臨戦態勢を整えていたので、その場で渾身のジャンケン大会。そして私は見事、負けてしまった。また。また、負けた。この性悪眼鏡に。こんなに悔しいことはそうそうない。たかが卵。されど卵。私は恨めしそうに先生の籠の中に入った卵のパックを見つめる。
 すると、何を思ったか、先生も私の籠の中を覗き見てきた。そしてあからさまに眉を顰めてから、私に憐みの眼差しを向けてくる。そんなに憐れむぐらいならその卵譲ってくれたらいいのに。


「お前、もやししか食わねぇの?」
「たまたまもやししか買ってないだけです。放っておいてください」
「栄養偏ってると頭働かねぇぞ。ただでさえ馬鹿なのに」
「ばっ…、いいんです。今頭働かす必要ないんで」
「はあ?仕事してんだろ」


 そこで私は口籠った。ほんの三秒程度の沈黙。先生に弱みを握られたくはないけれど、ここで口籠ってしまったばっかりに、先生は「もしかして」という顔をしている。こうなったらもうヤケだ。私は吐き捨てるように言葉を紡ぐ。


「今してないんです。仕事」
「ニートかよ」


 正しくはニートじゃない。だって派遣会社には登録してあるから、その気になれば何かしら仕事を紹介してもらえるもん。私は今、長い人生の中の短い休憩タイムを取っている真っ最中なのだ。別に、そんなに深刻な事態ではない。…と、思いたい。


「だから金なくてもやしばっかり食ってんの?」
「節約です!」
「それならエコバッグ使えって」
「エコバッグエコバッグって…お前はエコバッグ信者か!」


 思わず汚い口調になってしまったことに気付き、ハッと口を噤む。けれども、言ってしまったことはもう取り消せない。やばい、先生絶対怒ってる。でもエコバッグって言いすぎだし信者かよって思うじゃん。
 私は視線を自分の寂しい籠の中身に落として、不本意ながらも今の失言に対して「すみません」と謝罪の言葉を吐き出そうとした。いくら先生が私をイラつかせることを言ってきたとしても、公共の場であんなことを言ってはいけなかった。大人として、そこは反省しなければならない。


「あの、先生、すみま」
「お前この後時間ある?」
「はい?」
「一緒に来い」
「えっ嫌です」
「いいから」
「いや私がよくないですごめんなさい」
「何に対して謝ってんだよ」
「エコバッグ信者って言ったから怒ってるんですよね分かってます口が滑りました説教は勘弁してください」


 一息で謝ってみたけれど、私の腕を掴んだ先生の手は離れてくれない。これは付いて行ったら確実にめちゃくちゃ説教されるパターンだ。こんな年齢になってまで社会人としてどうとか、口のきき方がなってないとか、そんなことを元家庭教師に指摘されるのは真っ平御免である。
 私はどうにかこうにか逃げようと腕をバタバタさせた。警備員さんいませんか。私、誘拐されそうになってます。助けてください。


「別にそんなことでいちいち怒ったりしねぇし」
「え…怒ってないんですか?」
「低レベルすぎる発言に呆れてる」
「失礼な!」


 意外にも、先生は怒っていなかったらしい。そういえば声もそんなに刺々しくなかったし、今ちらりと窺った顔は、鬼の形相とは程遠かった。これは確かに呆れ顔である。
 じゃあどうして私は先生に連行されかけているのだろう。一緒に来いって言われたけど、一体どこに?えっ逆に怖いんですけど。今度は別の意味で恐ろしくなって少し後退りすれば「変なこと考えてんだろ」とドンピシャな指摘をされてしまい固まった。だって、この状況で夢の国に連れて行ってくれるとか、そんな展開は有り得ないじゃないですか。


「可哀そうな元教え子に美味いもん食わせてやる」
「美味いもん!」
「分かったらさっさとそれ買って来いよ」


 最近は激安食材で作ったお手製のお手軽メニューしか食していなかった私は、先生の「美味いもん」という言葉にまんまと釣られてしまった。どういう風の吹き回しかは分からないけれど、憐みの気持ちから私に奢ってやろうという気分になったのかもしれない。先生もきちんと人間としての温かい心を持っていたようで、私はとても嬉しい。
 私は言われた通り、もやしだけを買うために長蛇の列に並ぶ。どんなご馳走を奢ってもらえるんだろう。私の頭の中からは、先生に対する怒りや危機感というものが完全に抜け落ちてしまっていた。あ、そうだ。エコバッグ返さなきゃ。

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