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02 再会
 どれだけ最悪な日があったとしても、人間はそう簡単に死なないし、割と平気で生きていける。特に私みたいに行き当たりばったりな人生を送っているタイプの人間は、ちょっとやそっとのことではへこたれないようにできているのだ。
 というわけで、勤めていた会社との契約を打ち切られ、彼氏との壮絶な別れを経験したけれど、一週間が経過した今、私はかなりぴんぴんしていた。というか、いつまでも落ち込んでいる猶予はなかったのだ。あんな最低な彼氏のことはどうでもいい。もう忘れよう。そんなことより、問題は仕事だ。早く次の就職先を決めないと、この家を追い出されてしまうどころか生活ができない。ホームレスなんて、それこそ最悪すぎる。

 私は最悪の未来を回避すべく、就活をしながら節約生活を送ることに決めた。貯金はあるけれど、二ヶ月前の引っ越しで結構使ってしまったから、そんなに贅沢はできない。
 お金を切り詰めようと思った時に真っ先に節約できるのは食費だ。だから私は、少し汗ばむ四月下旬に激安スーパーまで自転車を走らせている。すぐ近くに大きめのスーパーはあるけれど、そこは値段が少しお高めなのだ。
 主婦ってこんな感じなのかなあ、などとどうでもいいことを考えながら自転車で走り続けること十分少々。夕方という最もお客さんが多いであろう時間帯を選んだのは、この時間にタイムセールがあるという情報を得たからだ。おばさま達が沢山いるスーパーに到着した私は、合戦に赴く侍のような気分だった。
 
 私の今日のお目当ては、ずばりお肉である。特売のお肉を大量に買い冷凍保存しようという作戦だ。大量に買い込むのは無理だとしても、せめて今日と明日の晩御飯分ぐらいのお肉は買いたい。そう意気込んで向かった精肉コーナーは、正に、戦の真っ最中だった。
 なるほど、これが激安スーパー。私は暫く呆然としていた。少し尻込みしてしまいそうになるほどの熱量である。しかし、ここまで来たからには負けるわけにはいかない。そこまで頑張る必要があるのかどうかはこの際置いておくことにして、私は気合いを入れて戦場へ飛び込んで行った。
 おばさま達のパワーは計り知れない。きっと皆、生活がかかっているのだろう。しかし、それは私も同じだ。そうして頑張った甲斐あって、私は二パックほど特売のお肉をゲットすることに成功した。達成感が半端ない。
 お目当ての品を手に入れた私は、他の買い物をしようと戦場を離れた。そして、数歩進んだところでふと目についたのは、特売セール品以外のお肉。ひっそりと置かれているけれど、そのお肉のパックにはなんと半額シールがついているではないか。
 まだ夕方のこの時間に半額なんてラッキー!そう思ってラスト一パックを手に取った瞬間、隣から全く同じタイミングで違う人物の手が伸びてきた。
 こういうことって本当にあるんだ、という驚きとともに芽生えたのは、小さな闘争心。私は、この肉をそう易々と手放したりしないぞ、というオーラを放ちながら、相手を威嚇するためにその顔を鋭く睨んだ。


「あ、」


 そして思わず漏れてしまった声。相手に自分の顔を見られる前に慌てて逸らしたのは、その人物が知り合いだったからである。どうしてこんなところにこの人が。先週最悪な日を過ごしやっと乗り越えたところだというのに、これ以上私に気分を落ち込ませろというのだろうか。
 いや、まあでも、私は忘れたくても忘れられない人物だから覚えているだけで、向こうは覚えていないかもしれないし。そうだ、きっと私のことなんて覚えていないに違いない。だから見ず知らずの人という雰囲気で乗り切ろう。というわけで早くその手を離してください。


「お前、名字…?」
「げ」


 なんということだろう。まさかの覚えられていたパターンだなんて、ここ最近の私はついてなさすぎる。初対面を装うことが無理だと諦めた私は、逸らしていた顔を渋々相手に向けて下手くそな愛想笑いを浮かべた。相手の男性はというと、「なんでお前がここに?」という、私が数秒前に思ったことと全く同じことを言いたげな表情を浮かべている。
 認めたくはないが整った顔に黒縁眼鏡、そしてこの謎の威圧感。間違いない。彼は御幸一也だ。あ、違う。御幸先生。フルネームで呼んだら怒られる。私は十年近く前になる記憶を蘇らせて一人で震えていた。

 御幸先生。フルネーム、御幸一也。私が大学受験の時にお世話になった家庭教師の先生様である。家庭教師をするだけあって、先生は頭が良かったし教え方も上手かった。先生がいなかったら、私は絶対に現役で大学に合格することなんてできなかっただろう。だから基本的に感謝はしている。が、先生との勉強の日々は思い出したくもない。
 教え方は上手いが、なんせスパルタ。「こんなんもできねぇの?」「お前馬鹿?」「合格する気ねぇだろ」等々の罵声を浴びせられ続け、一生懸命頑張っても「これでやっとスタートラインに立てたな」と馬鹿にしたようなことを言われる始末。褒められた記憶は愚か、笑いかけられた記憶もないかもしれない。
 しかしどんなにひどい仕打ちを受けようとも、最終的に合格した時は先生に感謝したし、きちんとお礼を言いたいと思った。それなのに私がいない間に親が先生に合否を報告してしまったものだから、私はきちんとお礼を言うことすらできずに終わったのである。つまり、私の中で先生に関する良い記憶は一切ない。なんならトラウマである。


「お前、ここら辺に住んでんのか」
「個人情報なのでお答えできません」
「はあ?」
「そんなことより先生、手を離してください」


 私は先生に関わりたくない一心で用件だけを的確に伝えた。そう。私はこの手に取った半額のお肉さえ手に入ればそれでいいのだ。


「いや、そっちが手離せよ。これ俺のだし」
「レディファーストって言葉をご存知ですか?」
「どこにレディがいんの?」
「先生、眼鏡の度数あってないみたいですよ」
「ちょっと会わねぇ間に口が達者になったな?」
「私ももういい大人ですからね」
「大学受験の時の恩を仇で返す気か」
「ちっちゃい男ですね。たかが半額の肉如きで」
「その肉に執着してんのはどこのどいつだよ」


 売り言葉に買い言葉。ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。まさか先生がここまで頑固で幼稚な人だとは思わなかった。家庭教師をしてもらっていた時はプライベートな部分を知る余裕なんてなかったし、そもそも知りたいとも思っていなかったけれど、知ったら知ったでドン引きである。
 結局、半額のお肉を賭けてその場でジャンケンをするという、成人した男女にあるまじきことをしてしまったわけだけれど、ジャンケンで負けてしまった私には屈辱と悔しさしか残らない。先生がさも当然であるかのように半額のお肉を籠に入れている姿に、めちゃくちゃ腹が立つ。


「食べ物の恨みは怖いですからね…覚えておいてください……」
「たかが半額の肉如きで?ちっちゃい女だな」


 本当に!ムカつく!過去の私、よくこんな人間とマンツーマンで勉強できてたな!偉すぎ!
 これ以上先生と話をしていても自分にとって何の得もないと判断した私は、先生に背中を向けて野菜コーナーへ向かうことにした。どうせもう二度と会うことはない。もし会ったとしても無視しよう。その方がお互いのためだ。
 激安のもやしとにんじんとじゃがいもと玉ねぎを乱雑に籠の中に放り込みながらそんなことを考えたけれど、私の胸のムカつきはなかなか収まってくれなかった。まったく、今年度に入ってから災難続きで嫌になる。厄払いにでも行った方が良いんじゃないだろうか。本気でそんなことを考え始める程度には、私の気分の最悪さは増していたのである。
 こんな再会、したくなかった!

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