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01 最悪
 最悪だ。今日は今世紀最悪の日だと言っても過言ではない。私は広いベッドに小さく丸まって布団に包まり、早く寝てしまおうとぎゅっと目を瞑った。


 私はそれなりに有名な大学を卒業後、その学歴に見合う大手企業に就職したのだけれど、社会人四年目に突入した去年の夏にその会社を退職した。理由はとてもシンプルで、お局様の身勝手すぎる我儘に耐えられなくなったからである。
 そんなことで?と思われるかもしれないが、侮ることなかれ。大手企業のお局様というのは昔の風習に固執しているところがあり、特に、年功序列という仕組みに恐ろしいほど拘っている節がある。だから、その部署において年齢も肩書きも上である自分は、何を言っても許されると勘違いしているのだ。
 右も左も分からない新入社員の頃は別に気にならなかった。これが社会のルールというものなのだろうし、そのうち慣れるだろう、慣れなくてはならない、と何事も必死に頑張っていれば良いだけだったから。しかし、二年目、三年目と勤続年数を重ねていけばいくほど、自分が勤めている会社の異様さが目につくようになった。
 大手企業だったら、福利厚生がしっかりしていて職場の規則もキッチリしているはず。自分の仕事さえきちんとやっておけば大丈夫。給料も良いわけだし、多少の無理は仕方がないと思わなければ。そう考えていたのは、三年目が終わる頃までだった。
 お局様は、まるで自分が女王様だとでも思っているかのように、私達社員をこき使う。お茶を淹れて来て。コピーお願い。あの資料のまとめを今日中に終わらせて。会議室の準備をすぐにして。日報を書いて。エトセトラエトセトラ。
 命令するだけならまだ良い。こっちが汗水垂らして仕事を終わらせたにもかかわらず、こんなこともろくにできないの?時間かけすぎ。あなたに頼んだ私が馬鹿だった。そんなのでよくお給料がもらえるわね。エトセトラエトセトラ。
 完全にパワハラというやつだった。こんなのどう考えたって異常だ。けれどももっと異常なのは、その異常さに慣れてしまっているらしい他の社員の皆である。唯一の同期は、入社二年目の秋頃に辞めてしまった。異常な職場環境に耐えられなくて。それが普通だと思う。
 しかし私はこれでもタフな方だから、働き続けていれば何かが変わるかもしれないと、歯を食いしばって頑張り続けた。その結果、もう駄目だと諦めたのが入社三年目の三月。そして漸く生き地獄のような空間から脱することができたのが、入社四年目の夏である。

 現在社会人五年目の春。暖かい風が心地良い四月中旬。私は半年ほど前から中小企業の契約社員をしている。…違う、していた、だ。全ては過去形。なぜなら最悪な日である今日、私は一方的に契約を切られてしまったからである。
 仕事ができなかったから?もっと優秀な人材を雇用することになったから?正解はどちらでもない。単純に、企業の業績悪化に伴う人員削減。正社員より先に契約社員が解雇されるのは当然のこと。反論の余地はなかった。

 こういう気分の落ち込んだ日には、彼氏に癒してもらいたい。そう思って二ヶ月前に住み始めたばかりのマンションの一室に帰ってきたけれど、お目当ての人間は不在。またか、と私は再び落胆した。
 彼とは一年ほど前から付き合っていて二ヶ月前から同棲を始めたばかりなのだけれど、ほとんど一緒に過ごしていない。仕事が忙しいからと帰ってこないことが多く、帰ってきても一週間に二回程度。しかも帰ってきた時は、必ずセックスをする。もはやセックスのために帰ってきているのではないかと思うほどだ。
 前々から気にはなっていたけれど、好きだったら求められるものだよなあ、と受け流していた。というか、深く考えないようにしていた。
 私は彼のことが、まあ、好きだし、彼もそれなりに好きだと思ってくれているから、同棲しようと言ってくれたのだと思うし。そんな曖昧な付き合い方をしていたから、最悪な日に最悪を重ねることになったのだ。
 寝ようかと思っていた頃に玄関のドアが開く音がして、彼が帰って来たことを悟る。彼がお風呂に入って「寝るか」と声をかけてきたらセックス開始の合図。だから私はその言葉を言われるより先に、大切な話を切り出した。


「仕事、今週いっぱいで契約打ち切りになっちゃって」
「え。マジで?」
「でもほら、これを機に専業主婦になっちゃうのもありかな〜なんて…」
「は?もしかして結婚したいとか思ってんの?」
「そりゃあいつかは…ねぇ…?」


 結婚を迫るうざい女。そう思われたのかもしれない。けれども、同棲しようって言ってくれたのは彼だし、いつかそういう未来が訪れることを想定しているんじゃないかって期待するのは、何も不思議なことじゃないと思う。
 しかし彼は、大きく溜息を吐いたと思ったら、とんでもないことを言ってのけたのだ。


「俺、結婚とか考えてねぇし。お前のこともぶっちゃけキープっていうか」
「え…だって一年も付き合ってるのに、」
「いやいや、鈍すぎ。こんだけ帰って来ないんだからセフレだって気付けよ」
「セフレって…じゃあなんで同棲しようなんて言ったの?」
「お前が家賃払うって言ったから。一人暮らしするより金が浮くだろ?」


 私は絶句した。彼は私が思っていた以上に最悪な男すぎて、口論する気も起きなかったのだ。私が彼を見限ったのと同じように、彼もまた、私との関係を断つことを決めたらしい。ご丁寧に「仕事辞めて金がなくなって、その上専業主婦になりたいとか言ってる女とセフレ続けるつもりねぇわ」という捨てゼリフを吐いて家から出て行ったのが二時間前。服やら生活用品は、後日取りにくるらしい。
 最悪な日に、最悪な男と、最悪な別れ方をした。仕事を失い、彼氏も失い、今の私には何も残っていない。哀れで惨めで、できることならこの運命を決めた張本人に、私が一体何をしたんだ!と、抗議してやりたい気分だ。
 でも、と。私は考えを改める。ある意味、良かったのかもしれない。職を失ったことは良いことだとは言い難いけれど、最悪な男と別れることができたのは今後の自分にとってプラスとなるはずだ。好きと言えば好きだったけれど、あまりにも本性が最悪すぎて、好きだったはずの気持ちもどこかに吹っ飛んでしまった。つまり、所詮その程度の男だったということだ。

 もう一度布団をかけ直す。折角の新居だし「大きいベッド買おっか」と私のお金で買ったダブルベッド。彼はまだ数えられるほどしか寝ていないから、その匂いはほとんど残っていない。きっとベッドシーツを洗濯すれば、完全に消えてくれるだろう。
 寂しいとは思わない。思いたくない。彼氏と別れたぐらいでヘコんで涙を流すほど、私は弱い女じゃないのだ。
 この部屋は私名義で借りたから、私が住み続けても良い。一人暮らしには少し広すぎるし家賃もそれなりにするけれど、新しい仕事を見つけたら生活できないってほどでもない。うん、明日から就活しよう。人生リセットしてやり直そう。

 身体も心も疲れ切っているはずなのに目を瞑っても眠れない私は、無意識のうちに彼とのことを振り返っていた。
 出会いは居酒屋。酔った男の人に絡まれているところを彼に助けてもらった。その時は彼がとても良い人のように思えたけれど、冷静になって考えてみれば、その酔って絡んできた男の人はもしかしたら彼の知り合いだったのかもしれない。
 出会いから仕組まれていた。きっとそうだ。助けてもらったお礼がしたいと言ったら連絡先をきかれて、ホイホイ教えてしまった。連絡をもらって、二人きりで会って、ほぼ初対面みたいなものなのに肩を抱かれた。一目惚れしたと言われて、舞い上がって、雪崩れ込むようにラブホテルに行った。
 薄々感じてはいたのだ。彼は私のことがそこまで好きじゃないのかもしれない、と。だとしたら別れるべきじゃないのか、と。しかし、話を切り出す前に甘い言葉を囁かれて抱かれて有耶無耶になって、気付いたらずるずると一年。そして今日。過去の自分が今の自分を嘲笑っているような気がした。早く決断すれば良かったのに、と。
 大手企業を辞める時もそう。頑張っていれば、少しだけ我慢すれば、どうにかなる。きっといい方向に傾く。いつか報われる。そうやって自己暗示をし続けてきた。私はタフなのではない。ただ、諦めも要領も悪く、決断力がないだけだ。だから、何も残らない。

 最悪な日だった。でも、そう思いたくなかった。この期に及んでまだ、私は、いつか報われる日が来ることを望んでいる。

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