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22 甘味
 バレンタインデーに女性から男性にチョコレートを贈るのは、日本特有の文化らしい。海外では男性から女性に贈るのが主流だと聞いた時は、どうして日本だけそんな風習になっちゃったの?と疑問を抱いた。
 学生時代は友だち同士でチョコレートを送り合ったりしていた記憶があるけれど、以前付き合っていた彼氏は、チョコレートより酒がいい、なんなら酒より金がいい、とか言う人だったから、お菓子類を贈ったことはない。思い返してみれば、改めて最低な男と付き合っていたんだなあと感じる。
 それで、現在の彼氏である一也さんはというと、このバレンタインデーの風習をわずらわしいと感じるタイプの人らしかった。というのも、どうやら一也さんは甘いものが苦手みたいで、特に二月に入ってからは、ほんのり甘ったるい香りが増してきた街中にうんざりしている様子なのだ。
 下手にねだられたり期待されたりするよりは楽だと思う。しかし、彼だって生まれてからずっと日本で生活してきた純粋な日本人なわけだから、バレンタインデーの風習を全く知らないということはないだろう。となれば、何もしないわけにはいかないのが彼女としての心理である。
 誕生日ではないから、それほど大袈裟なものを用意する必要はない。しかし、どの程度のものを準備したら良いのかという相場を決めるのもなかなか難しかった。


「で、ディナーをご馳走してくれる、と」
「そういう予定だったんですけど……」
「そりゃあ今日の夜予約もせず入れる店なんてほぼないだろうな」
「ですよね……」


 自分の頭の悪さに吐き気がした。バレンタインデーの夜。そこらじゅうの男女がちょっといい雰囲気のレストランでディナーデートをすることぐらい、ほんの少し考えればわかることだ。しかし私ときたら「一也さんの食べたい物を聞いてからお店を決めよう」などとのんびり構えていたものだから、行きたい店は当然のように予約でいっぱいになっていた。
 一也さんはケラケラ笑っていて、私の段取りの悪さにイライラしている様子はちっともない。それは救われた。しかし、これでは私のバレンタインデー計画が台無しだ。いや、計画といっても、いつも美味しいご飯を用意してくれる一也さんへの感謝の気持ちを込めてディナーをご馳走するだけだったのだけれども。それだけの杜撰な計画だったからこそ、お目当てのお店に行けなくなってしまった今、私は途方に暮れている。


「いーじゃん別に。飯なんか今日じゃなくてもいつでも行けるんだし」
「いいんですか?」
「良いも悪いも、他に選択肢なくね?」
「仰る通りですごめんなさい」
「今日はやけにしおらしいじゃん」
「この状況ですよ?しおらしくもなるでしょ……」


 一也さんは、段取り悪すぎだろ、とか、他に何も用意してねぇの?とか、私を責めるようなことは何も言ってこない。嫌味のひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、今日は黙って飲み込むしかないと思っていたのに、逆にいつもより優しい一也さんが、より一層私の駄目さ加減を引き立てているような気がする。
 こんなことならせめてプチギフトぐらい用意しておくんだった。コーヒーとかお酒とか、甘いもの以外の何か適当なものを見繕う時間は十分にあったのに。私の馬鹿野郎。
 考えれば考えるほど気分は落ち込む一方。頭をぺしっと軽い調子で叩いてきた一也さんに「痛いじゃないですか!」と反応する気力もない。なんならもう少し強く叩いてほしかった。


「バレンタインデーってそんなに大事なイベント?」
「さあ……わかんないですけど……付き合い始めて初めてのバレンタインデーだし、ちゃんとそれっぽいことした方がいいのかなあって」
「誕生日だけで十分だろ。そういう行事は」
「クリスマスは?」
「じゃあ誕生日とクリスマス。それ以外は普通でいいじゃん。俺達は」


 恐らく一也さんは、イベントごとにあまり興味がない。もしくは面倒だと思っている。だから、落ち込んでいる私を励まそうとしたわけではなく、今後のためにもその方が楽だと考えて提案したのだろう。まあ結果的に、私は救われているのだけれど。
 太陽が沈みすっかり暗くなってしまった空を見上げる。外食する予定だったから家の冷蔵庫の中にはろくなものが入っていない。一也さんの家の冷蔵庫には、たぶんそれなりに何か作れる程度の食材が入っているだろうけれど、どれだけ神経が図太い私でも「夜ご飯作ってほしいです」とは言えなかった。かといって、私が一也さんの家の冷蔵庫の食材を使って料理をするのも微妙だし、今から買い物に行くのは更に微妙だ。


「あの、夜ご飯……」
「作る気にはなんねぇよな」
「まあ、はい、そうですね」
「ラーメンでも食って帰るか」
「え!」
「なに?この期に及んでムードがないとか言う?」
「まさか!ラーメン大好きなので私はいいんですけど、一也さんラーメンっぽくないから……」
「なんだよラーメンっぽくないって」


 呆れ顔で「ほら行くぞ」と歩き出した一也さんを小走りで追いかけて隣に並ぶ。一也さんとは家がお隣同士だから、休日の昼間にふらりと出かける以外ほぼ家で過ごしている。ご飯も基本的にどちらかの家で一緒に食べることが多いから、夜の街を歩くのはかなりレアなことだ。
 しかもラーメン。ラーメンである。別に一也さんがラーメンを食べるキャラじゃないとか、そこまでは思っていないのだけれど、彼女と二人でラーメンを啜ってくれるようなタイプじゃなさそうというか、一人でふらっと食べに行くのはいいけど女と行くのはちょっと……みたいな、上手く言えないけれどそんな感じかなと勝手に思っていた。だから一也さんの口から「ラーメン」という単語が飛び出したことに衝撃を受けたのだ。
 ムードがなくたっていい。むしろ二人でラーメンを食べられる仲って、ちょっといいなって思う。私は単純な女だから、先ほどまでの落ち込みモードからすぐに脱却した。
 ふと、すれ違う男女の姿に視線を送ると、夜だからなのかバレンタインデーだからなのか、まるでそれが当然であるかのように、手を繋いだり腕を組んだり、とにかく身体を密着させて歩いているカップルばかりである。はて。日本はいつからこんなにも堂々とスキンシップを取る国になったのだろうか。


「名前、こっち」
「は、」


 ぼけーっと歩いていた私は、突然手を引っ張られてマヌケな声を漏らした。正確には、手を引っ張られたことよりも名前を呼ばれたことに驚いて、変な声を出してしまったのだ。
 お互いの気持ちを確認して、それなりのことはそれなりにやっているくせに、私はほとんど一也さんに名前を呼ばれたことがない。常に「お前」が定着していて、なんなら付き合う前の恋人のフリをしていた数時間の方が、この数ヶ月よりも多く名前を呼んでもらえていたかもしれないと思うぐらいだ。だから、特別なシチュエーションでもない時に不意打ちで呼ばれると、非常に反応に困る。
 それこそ今更なのはわかっていた。名前を呼ばれるぐらい普通だろって思う。いちいち胸をドキドキさせるなんて乙女すぎるだろって、自分自身に全力でつっこみたい。でも、やっぱり、一也さんの声で呼ばれることに慣れていない私が平静を装うのは無理だった。


「……どした?」
「どうもしてないです」
「俯いちゃってるけど」
「お気になさらず」
「名前?」
「…………わかってて呼んでますね?」
「あ、バレた?」


 わかりやすすぎる反応をしてしまった私にも落ち度はあったと思うけれど、それにしたって、私の反応を面白がってわざとらしく名前を呼んでくる一也さんは性悪だ。性格が良いと思ったことはないし、性悪なのは前から知っていたけれど、毎度のことながら腹が立つ。
 名前呼ばれたぐらいでそんなに嬉しい?動揺する?へぇ?って。嬉しいですよ。動揺しますよ。悪いですか。私は開き直って素直な感情をぶつける。ついでに他のカップルに倣って無防備な一也さんの手を握ってみたのは、本当にただの勢いだ。


「手、あったかい」
「お前が冷たすぎんじゃねぇの」
「嫌ですか」
「嫌がってるように見える?」
「わかんないです」
「嫌なら離してるだろ普通」
「嫌じゃないなら嫌じゃないって普通に返事してくれたらいいのに」
「そこは察せよ」


 とてもバレンタインデーの夜にそぐわない、ビターな会話だった。ビターというよりスパイシーの方が合っているだろうか。とりあえずスウィートでないことは確かだ。ディナーだってラーメンだから色気なんて皆無。けれども私たちを取り巻く空気は、指先から溢れ出たみたいにたっぷりと甘かった。

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