「お前、本当に女かよ」
「ひどい!普通彼女に対してそんなこと言います!?」
「普通じゃねーのはお前の方だろ」
う、と言葉に詰まってしまったのは、一也さんの言い分が少なからず的を得ていたからだ。とはいえ、仮にも愛する(というのはさすがに誇張表現かもしれないけれど仮にも)彼女に対して、そこまでひどい言い方をしなくても良いのではないだろうか。
付き合い始めて早三ヶ月。季節は夏を過ぎて秋を迎えていた。十月下旬ともなると、夏の暑さを思い出せなくなるほど肌寒く感じる日が多い。
一也さんとの交際はいまだに続いていて、お互いの家を行き来しながら生活する日々を送っている。と言っても、一也さんが私の家に来ることはほとんどなくて、もっぱら私が一也さんの家にお邪魔しているような状態だ。
なぜ一也さんが私の家にあまり来ないのか。それは私の家が汚いからだと思う。最初は「お前らしい」と許容してくれていたけれど、最近では何も言わず静かに片付けを始められることが多いから、部屋の汚さがかなり気になっているのかもしれない。
確かに、私の部屋は夏よりも荒れている。それは「一也さんの家に行くから掃除はまた今度でいっか」と、一也さんに甘えまくっていることが原因だと思う。
私はもともとズボラな性格だし、掃除も好きじゃない。というか嫌いだ。ゴミ屋敷にさえならなければ良いか、と思っているレベルだから、そりゃあいつも綺麗に家の中を片付けている一也さんからしてみれば「普通じゃない」のかもしれない。
しかし、だ。いくら私の家が汚くたって「本当に女かよ」という言い方はいただけない。女だから掃除ができないといけない、家事ができないといけない、みたいな昭和的な価値観には、真っ向から反対する。
一也さんの言う通り、私は掃除ができない女だから部屋は汚いし、家事も必要最低限しかしてこなかったから確実に一也さんの方ができると思う。けど!それとこれとは話が別だ。
「掃除とか家事がちゃんとできないと女じゃないんですか!」
「はあ?そんなこと言ってねぇだろ」
「遠回しにそういうニュアンスのこと言ってましたもん」
「何か勘違いしてんじゃねぇの」
「してません!」
「俺が言ってんのはその格好のことなんだけど?」
「へ?格好?」
私の家に来るなり冒頭のセリフを吐き捨てられたものだから、てっきり部屋が汚いことに対する指摘だと思っていたのだけれど、どうやら違ったらしい。一也さんは「やっぱりな」と言いたげな呆れ顔で肩を竦めた。
その格好、と言われて自分の格好を確認する。首周りが伸びきった長袖のカットソーに、学生時代から愛用しているすすけたジャージのズボン。家にいる時は大体こんな感じだけれど、よく考えてみれば、こんなに色気のない格好でうろつかれたら、そりゃあ彼氏としてはげんなりしてしまうに違いない。
かといって、急に気合いの入ったネグリジェなんか着たら笑われそうな気もした。「馬子にも衣装だな」と言われて頬を膨らませる自分の姿が容易に想像できるのが悲しい。そもそも、そんなものを着る勇気はないのだけれど。
「今までずっとそういう格好で来訪者を出迎えてたんだよな?」
「そうですけど」
「男も?」
「宅配のお兄さんとかピザ屋のお兄さんとかなら、まあ、」
「はあ……」
「すぐに溜息吐くのやめてくださいよ」
「溜息吐かせてんのはお前だからな?」
そんなに呆れなくたっていいじゃないか。こんな私を選んでくれたのは他でもない一也さんなんだから、ある程度のことは諦めていただきたい。
とは思ったものの、彼女としてもう少しマシな格好をするべきだったと反省もしている私は着替えることにした。「ちょっと着替えてきますね」と一也さんに断りを入れて背を向ければ、直後、肩を掴んで止められる。
折角、ちょっとでも女らしさを見せてやろうじゃないかと意気込んでいたというのに、一体どうして止めるのだろうか。「今度は何ですか」と尋ねる私の口調は、明らかに不機嫌だ。
「服のこと言ってんじゃねぇから」
「え、でもこの格好がダメなんですよね?服じゃなかったら何をどうしろと?」
「……本気で言ってる?」
「逆に本気じゃないと思いますか?」
はっきり言ってくれない一也さんにイライラが募っていく。その格好、と言われて服のことじゃなかったら、何のことをさしているのかさっぱりわからない。
一也さんは、項垂れては顔を上げ、何かを言おうとしてはまた項垂れるという謎の行動を繰り返していて、ちょっと挙動不審。そんなに言い難いことが一也さんにもあるのか。私の格好のことで?
もう一度、自分の格好を確認してみる。残念な服装であること以外、何を直せというのだろう……と、カットソーの裾を引っ張ったところで、私は重大なことに気が付いた。私、ノーブラだ。
もしかしなくても、一也さんが指摘したかったのは「ノーブラで来訪者を出迎えるな」ということだったのではないだろうか。だとしたら、あれほど言い淀んでいた理由も理解できる。「ブラジャーをつけろ」なんて、男の人は言い難いだろう。
「皆まで言わずともわかりました」
「なんでそんな勝ち誇った顔してんだよ。気付くの遅すぎだろ。ほんとにわかってんの?」
「わかってますよ。以後気を付けます。大事な彼氏が心配してくれてることがわかったので」
「心配されなくてもそこは気を付けろ」
「だって玄関先でやり取りするぐらいじゃノーブラとか気付かなくないですか?夏はちゃんとつけてますし」
「気付くとか気付かないとか、そういう問題じゃねぇし。そういうとこだぞ」
女としての自覚が足りないと苦言を呈す一也さんに、私はぐうの音も出ない。だってブラジャーの締め付けって苦しくて嫌いなんだもん、とか、そういう問題じゃないこともわかっている。
しかしズボラな私は、冬なら上着を着ればわかんないでしょ、と既に反省を活かしきれていないことを考えていた。たぶん一也さんはそのことになんとなく気付いていて、非常に微妙な表情を浮かべている。
「ちなみに俺はすぐ気付いた」
「変態ですね」
「誰のせいだよ」
「変態は認めるんですか?」
「どっちかと言うとお前の方が変態だけどな」
「どういうところが?」
「その格好で堂々と彼氏の前をうろついてるところが?」
え、と固まる私に、してやったり、とにんまり笑う一也さん。いや待って、まさか私が誘ってるとか、そういう勘違いしてらっしゃいません?してますよねその顔は。違います。断じて違いますよ。
今日は今から一也さんお手製のハンバーグとともに、私が職場の人からいただいたワインを飲みながら、しっぽり大人の夜を過ごすつもりだったんだから!そういう話だったの、忘れちゃったんですか!この変態メガネめ!
……というのは全て心の中で叫んで、ひとつも音として発することはなかった。ちなみに今の脳内での叫びは、時間にしたら一秒ぐらい。ひと叫び終えた私は、ハッと我に帰る。
「誘ってるとか、そういうわけじゃないですからね!?」
「俺は何も言ってないけど?何考えてたわけ、名前ちゃん?」
「〜っ、この変態メガネ!」
「へぇ〜?そんなこと言っていいの?ハンバーグ作るのやめよっかな」
「う、……ず、ずるいですよ!」
私がすっかり胃袋を掴まれていることを、一也さんはよく知っている。楽しみにしている夜ご飯をおあずけされることが私にとってどれほど苦痛かわかった上でこの言い方。変態な上に卑怯だなんて最低最悪だ。
それでも私は一也さんのことがたまらなく大好きなのだから、不思議で堪らない。私、いつの間にこんなに一也さんのことが好きになったんだろう。自分のことなのに全然わからない。
むむむ、と睨む私と、くくく、と意地悪く笑いをこぼす一也さん。そのまま膠着状態が続いて、先に動いたのは一也さんの方だった。ポンと私の頭をひと撫でして「冗談」と言い残し、私の家のそれほど使われていない台所へ歩いて行く。
こういうところだ。最終的に私に甘いところ。自惚れかもしれないけれど、ちゃんと愛されてるんだなあって、じわじわ実感する。私もその分、愛したいなあって、思わされる。それが擽ったくて、何より幸せだ。
「一也さん」
「……これはさすがに誘ってると思われても仕方ないと思うけど?」
台所に立ち、包丁とまな板と玉ねぎを出し、微塵切りを始めようとしている一也さんの背後からぎゅっと抱き付く。わざとらしく胸を押し付けて。
一也さんは、危ねぇな、と言いながらも、私を無理矢理引き剥がしたりしない。そういうところも、やっぱり好き。困った。こんなに好きになるはずじゃなかったのに。
「誘ってるって言ったら?」
「あとでな」
「理性の塊か!」
「さっきまで変態って言ってたくせに」
「そこは迷わず誘われてほしいです女として!」
「はいはい」
また「あとでな」と言って、抱き付かれたまま玉ねぎを切り始める一也さんの行動は、正しいのだと思う。私だって夜ご飯は楽しみにしていたし、ほんの数分前までそういうつもりなんて全然なかったし。
しかしなんというか、なけなしの勇気を振り絞ってお誘いまがいなことをしてみたのにこうもあっさりあしらわれると、やっぱり自分には女としての魅力がないんだ……と落ち込んでしまう。襲われたかった、なんて、一也さんの言う通り、これじゃあ私の方がよっぽど変態だ。
危ないのでゆっくり離れて、大人しく部屋の片付けを始めてみる。ついでにこっそりブラジャーつけに行こうかな。ていうか着替えよう。女として見てもらえるような服に。
のそりのそり。片付けしつつ寝室に行ってクローゼットを開き、ブラジャーと、それなりにちゃんとした服を引っ張り出す。そして、さあ着替えようとカットソーを脱いだところで、寝室の扉が開いた。
ノーブラの私は当然上半身裸。扉を開いた先に立つ一也さんに、その姿は丸見えだ。きゃあ!と女の子っぽい声を出して隠せばいいものを、私ときたら突然のハプニングにフリーズしてしまって、隠すことすら忘れて呆然と立ち尽くすことしかできない。
一也さんは私の姿を上から下まで眺めてつかつかと歩み寄ってきたかと思うと、放り投げてあったブラジャーを手渡してきた。照れもせず、ニヤニヤもせず、真顔で。ここまできて襲われないって何なんだ。私はブラジャーを受け取って身に付けた。なんとも惨めである。
「忘れもんしたから家帰る。すぐ戻るけど」
「はい……」
「今日こっち泊まっていい?」
「どうぞ……」
「顔死んでんぞ。もっと喜べよ」
「はあ……」
そんなこと言われたって、どうやったって気分は上がらない。美味しいハンバーグのことを考えたらちょっとは浮上するけれど、でも、それだけじゃダメだ。
「そんなに欲求不満?」
「そうなんですかねぇ……」
「忘れもんってゴムなんだけど」
「えっ」
「ああ、あと俺、ブラジャーのホック外すの好きなんだよね。お前すげーイイ顔するから」
「え、な、ちょ、なんて?」
「わかったら大人しく待ってろ」
「……変態ですか」
「光栄だね」
ハンバーグは?ってきいたら「あとでな」って返されてにやけてしまう。どうやら一也さんの理性はどこかのタイミングで崩れてくれたらしい。いまだにスイッチの入る瞬間がちっともわからないけれど、まあいいや。
パタンと閉じた扉。その後すぐに玄関の扉が開いて閉まる音が聞こえて、きっとすぐに戻ってきてくれるんだろうなと思ったら、まだ何も始まっていないのにドキドキし始めちゃって。
変態って、私たちにとっては褒め言葉になっちゃうのかもしれない。