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13 覚悟
 たとえお隣さんであっても、普通に生活していれば偶然遭遇するということはほとんどない。元々、朝の出発時間も夜の帰宅時間も微妙にずれているのだと思う。それに安堵しなければならないはずなのに、私は心のどこかでがっかりしていた。
 毎朝玄関の扉を開ける前に、隣の部屋から物音がしないか耳をそばだててみたり、エレベーターを待つ間、先生が現れるかもしれないと意味もなく前髪を手櫛で整えてみたり。これ以上は関わらない方が良いと分かっているのに、関わったら苦しむのは自分自身だと理解しているはずなのに、一線を飛び越えてしまいたくて堪らない。
 先生のことが好きだ。あんなに怖くて、意地悪で、苦手だとしか思えなかった先生のことが、今は信じられないぐらい好きだ。学生時代と今では全然違う。それは見える側面が変わったからなのか、先生自身の言動や表情自体が変化したからなのか、私の見方や受け止め方が変わったからなのか。兎に角、何かが変わった。それだけは間違いない。
 先生は昔と今で変化を感じているだろうか。私と同じ感情を抱いてほしいとまでは言わないけれど、せめて、あの頃とは違うなと思っていてほしい。もっとも、先生の心情の変化を確認する術などないのだから、どう変化していようともその変化の内容を知ることは一生できないのだけれど。


「あ」
「え?あ……、」


 七月下旬。すっかり夏の日差しが強くなり、夜も風が生温くエアコンがないと辛い季節。時刻は夜の九時を過ぎたところ。歩いて二分もかからないところにあるコンビニでアイスを買って帰ってきた私は、マンション一階のエレベーターホールで仕事帰りらしい先生と出くわした。二週間ぶりの再会である。
 カップ付きTシャツに短パン、サンダルという軽装の私は、風呂上がりなので当然のようにすっぴん。最悪だ。最悪すぎる。学生時代を知っている先生にすっぴんを見られたところでどうってことないだろうと思われるかもしれないけれど、そういう問題ではないのだ。今の私は社会人。好きな人にすっぴんを見られたらショックに決まっている。しかもこんなだらしない格好でコンビニに行っていたなんて、先生には知られたくなかった。
 見られたくないと身を縮こまらせたところで、何の障害物もない状態で先生の目から自分を見えないようにすることはできない。せめてもの抵抗で顔を背けて俯いてみたけれど、ばったり出くわした瞬間にばっちり見られてしまっただろうからあまり意味はないだろう。こんな時に限ってエレベーターはすぐに来てくれなくて、暑さも相俟ってだらだらと汗が流れる。


「お前さあ…」
「何も言わないでください。思ってることは大体分かりますから」
「……あ、そ」


 そこで漸く待ちに待ったエレベーターが来た。急いで乗り込む。まあ先生も乗り込むわけだから逃げられるわけじゃないし急ぐ意味は全くないのだけれど、これは気持ちの問題だ。一秒でも早く家に帰りたい。……いや、帰りたくない。先生と折角会えたから、とか、そんな乙女的理由ではなく、物理的な問題で。


「いつもそんな格好でうろついてんの?」
「違います。今日はその、諸々事情があって」
「事情?」
「エアコン壊れちゃったから、できるだけ薄着しようと思ったんです」


 そう、この茹だるような暑さの中、うちのエアコンは壊れてしまったのだ。汗だくで仕事から帰って来て、昨日の夜まで稼働していたはずのエアコンがうんともすんとも言わなくなっていた時の絶望感がお分かりいただけるだろうか。とりあえずシャワーを浴びて汗は流したものの、扇風機の生温い風で暑さが和らぐことはなく、私は堪らずコンビニにアイスを買いに行ったというわけだ。
 普段はもう少しマシな部屋着を着ている。…と思う。引っ張り出した薄手のTシャツと短パンがたまたまよれよれで、徒歩二分のコンビニぐらいならこのままで良いかと思ったのが運の尽きだった。


「で、暑さをどうにかしたくてアイスを買いに行ったと」
「そういうことです」


 事実だから否定のしようがなくて開き直って答えれば、頭上で小さく溜息が聞こえた。ああ、女としてどうなんだって呆れられたんだろうな。ちくりちくりと胸が痛む。先生は何も悪くない。当然の反応をしただけだ。悪いのは、こんなだらしない格好でうろつき勝手に傷付いている私自身だ。
 エレベーターが止まった。私はそそくさと先に降り、先生の顔を見ないようにしながら「それではおやすみなさい」と早口でごにょごにょと挨拶をして自分の部屋に入ろうと鍵を取り出した。しかし、ポケットから取り出した鍵は私の手から逃げるように落ちて行き、先生の足元へ。なんと空気の読めない鍵だろう。急いで拾おうと身を屈めて手を伸ばす。しかし、私の手より先に先生の手が鍵を拾いあげてしまった。


「エアコンの修理いつ来んの?」
「今日はもう遅いので明日の午後来てもらうことになってますけど」
「それまで扇風機だけでどうにかなんの?」
「どうにかするしかないでしょう」


 心配していただけるのは非常に有難いけれど、今はそんなことより鍵を返してほしい。一応拾ってもらった立場なので「ありがとうございます」とお礼を言って私が出した手にのせられたのは、鍵ではなく先生の手だった。え、なに、どういうこと?
 混乱している間に先生の手は私の手を掴む。ただでさえ汗ばんでいる手から更に汗が噴き出すのが分かって逃げようとしたけれど、握られているのだからどうにもならない。


「うち来れば?」
「な、なんで、」
「うちのエアコンは壊れてないから?」
「それはそうでしょうけど!」
「この暑さで熱中症にでもなって死なれたら迷惑だし」
「そう簡単に死にません!そこまでしてもらう理由もないですし、」
「理由ならある」


 握られている手の力が少しだけ強くなったような気がした。もしかしたら私の気のせいかもしれないけれど、たぶん、気のせいじゃない。
 それまであまり顔を上げないようにしていたけれど、先生が今どんな表情をしているのか気になって、恐る恐る視線を上げてみる。すると、呆れ顔でも面倒臭そうな顔でも悪戯っぽい笑顔でもなく、どこまでも真剣な顔をした先生が映って心臓が跳ねた。真剣すぎて怖いと思ってしまうほど真っ直ぐな瞳に貫かれ、逸らしたくても逸らせない。


「あ、の、」
「アイス溶けるし中入れば?」
「でも」
「そんなに俺を避けたい理由があんの?」
「それは……!」


 ええ、ありますよ。ありますとも。不覚にもあなたを好きになってしまったから、これ以上近付いたら感情が溢れ出してしまいそうで、変な期待に胸を膨らませてとんでもないことを口走ってしまいそうで、だからそんなことにならないようにあなたを避けようとしていたんですよ私は。でもそんなこと言えないじゃない。
 喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んで、私は「ありませんけど」とどうにかこうにか震える声で返事をした。しかし、避ける理由がないとなると抵抗する理由もなくなってしまう。
 あれ?でも先生が私を家に招き入れてくれる理由は何なんだっけ?隣人が熱中症で倒れたら困るから?じゃあ私じゃなくて別の人が同じ状況になったとしても、先生は同じことをするの?誰にでもそんなに優しくしちゃうの?


「なんで私に構うんですか」
「なんでって、」
「元教え子だから?お隣さんだから?」
「違う」
「じゃあなんで、」
「気になるから」
「……気になる?」
「とりあえず、中入るぞ。暑いから」


 暑いと言うくせに先生は私の手を離してくれなかった。だから私は逃げられなかった。そうやってどうでも良い理由を並べて、私は傷付く覚悟を決めた。

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