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12 鼓動
 さて、どうしよう。私は先生の家の洗面所で、自分の不注意によって汚してしまった先生のシャツを洗いながら何度目になるかも分からない自問自答を繰り返していた。
 先生の家には、初めてお邪魔したわけじゃない。だから、そこに関しての緊張はないのだけれど(全くないと言えば嘘になるかもしれないけれど)、その時と今とでは気の持ちようが違うのだ。狼狽てしまうのも無理はないと思う。

 私が今こうしてだらだらと(ではなく時間をかけてしっかりと)シャツの汚れを取っている間に、先生は台所で夜ご飯の準備をしてくれている。本当だったら夜ご飯も外で何か食べる予定だったのに、とんだハプニングだ。
 少し前の私だったら、彼女役なんて面倒なことやってあげたんだから豪華な夜ご飯ご馳走してくれないと割りに合わないんだけど、ぐらいのことを思っていただろうけれど、今の私はそんなことを思えるような心境ではない。何度も言うように、少し前と今では先生へ向ける感情が違うのだ。
 先生と夜ご飯を食べたくないというわけではない。元々そういう予定だったし、心づもりはしてきた。けれど、どんな顔をしたら良いか分からなくて困るというのが正直なところ。今までの私は一体どんな風に先生と接していたんだっけ?と首を傾げたくなってしまう。
 幸いにもシャツの汚れは綺麗に落ちて、普通に洗濯機にかけて干せば問題ない状態になった。私は濡れたシャツを洗面所に置きっぱなしにして台所に向かう。さすがに人様の家の洗濯機を勝手に使うわけにはいかないし、どこに置いておけば良いかも分からなかったからだ。


「先生、汚れは落ちたんですけど濡れてるシャツどこに置いとけば良いですか?」
「適当に洗濯機ん中入れといて」
「分かりました」


 洗面所に戻り、軽く水気を絞って言われた通りに洗濯機の中にシャツを入れる。私の役目はこれで終わり。となれば、あとは台所で先生の料理が出来上がるのを待つしかない。
 どうしよう。口癖のように呟いている一言がまた飛び出す。ただ静かに先生の料理している姿を眺めているだけで良いのだとしても、私はその沈黙にきっと耐えられない。挙動不審になってしまうこと必至だ。
 しかしここで逃げ出したところで、隣の部屋に住んでいることは先生にバレてしまっているのだから、私の逃げ場はないも同然。元々夜ご飯は一緒に食べる予定だったわけだし、何食わぬ顔でご馳走になって帰れば良いだけじゃないか。そうだそうだ。
 すぅ、はぁ。私は深呼吸をしてから気合を入れて台所に戻った。漂ってくる良い香りにお腹の虫が騒ぎ出す。我ながら、なんと色気がない女なのだろう。


「家にあるもんで作ってるから大したもんはできねぇけど」
「……すみません」
「なんだよ、急にしおらしくなっちゃって。気持ち悪ぃな」
「だって、私のせいでこんなことになっちゃったから…」


 料理を作るのって凄く面倒なことだと思う。そりゃあ作るのが好きな人もいることは知っているけれど、外食で済ませる方が楽であることは間違いない。私がシャツを汚したりしなければ手間を取らせることもなかったのだろうと思うと、申し訳ない気持ちになるのは当然だ。
 気持ち悪い、と貶されたにもかかわらず、私は何も言い返せずにしょんぼりと肩を落とすだけ。そんな様子が、先生には奇妙に映ったのかもしれない。料理を作る手を止めてわざわざこちらに近付いてきたかと思うと「熱でもあんじゃねーの?」と額に手を当ててきた。
 あまりにも突然の出来事に、私は何のリアクションもできず固まったまま。額から感じるひやりとした先生の手が、私の熱によってじわじわと温かくなっていくのが分かって、漸く状況を理解する。


「熱とかないですからっ!」
「確かに熱くはねぇけど」
「セクハラですよ!」
「はあ?今のどこが?」
「急に触ってきたりするから…、」


 手を引かれた時でさえ、こんなに心臓の鼓動が速くなったことはない。触れられたこともそうだけれど、その距離が随分と近かったことも要因のひとつなのだと思う。全然拍動が落ち着きそうにない。
 分かってる。こんなのセクハラじゃないって。いつもの、私を揶揄うための動作のひとつにすぎないんだって。私が過剰反応しているだけだって。
 でも、対応の仕方が分からなかったのだ。パニック状態で。動揺しすぎていて。今でさえ分からない。正解が。
 幸か不幸か、先生の手はすぐに私から離れていった。私が妙な言動をとっているにもかかわらず、先生は特に指摘してくることなく夜ご飯の準備に戻ってくれたから、それは本当に助かったと思っている。
 じゅうじゅうと何かが焼ける音が聞こえるだけで、会話はない。スマートフォンをいじるなんて料理中の先生に失礼な態度は取りたくないし、そうなると私ができることは先生の料理している姿を見つめることぐらいだ。


「名前」
「っ、」
「…じゃなくて、名字」
「……何ですか」
「嫌いなもんある?」
「特にはないです」
「じゃあ好きなもんは?」


 きっと他意はない。ただなんとなく、話の流れとして、他愛ない雑談内容の一つとして放られた質問なのだと思う。
 けれども今の私にとって「好き」という単語は地雷なのだ。好きな食べ物を答えたら良いだけなのに、ちっとも答えが思い浮かばない。


「おーい。聞こえてんのか?」
「き、聞こえてますよ!」
「やっぱ今日…ていうか、午後から、か。おかしいよな、お前」
「そんなことないです!お腹すいたんですけどご飯まだですか!」
「はいはい。もうできました」


 とても上手とは言えない誤魔化し方だったと思うけれど、先生は美味しそうに湯気をたてるナポリタンを皿に盛り付けることに集中してくれたから、セーフということにしておこう。私は密かに安堵の息を吐いた。
 ナポリタンとサラダとスープ。夜ご飯というよりお洒落なカフェのランチメニューのような内容だけれど、私にとってはどんな高級レストランのフルコースディナーよりも美味しそうに見える。なんてったって先生の手作りなのだ。たとえおにぎりと味噌汁だけだったとしても有り難くいただいていたと思う。
 先生の手料理をいただくのはこれで二回目。一緒に手を合わせて、ぱくり、一口。ナポリタンなんて誰がどう作っても同じようなものだと思っていたけれど、全然違う。何が違うのかは分からないけれど、お店に出せそうな美味しさだ。自然と頬が緩んでしまう。


「美味い?」
「とっても」
「素直じゃん」
「チャーハンの時もちゃんと美味しいって言いましたよ」
「そうだっけ?」
「先生、カフェとか経営したら良いんじゃないですか。売れますよ絶対」
「接客とか無理」
「ああ…確かに」
「納得すんなよ」


 ああ、大丈夫だ。私、ちゃんと先生と普通に話せてる。このまま食事を終えたら片付けをして、さっさと家に帰ろう。家といってもすぐ隣だけれど。
 二人きりという状況から脱したい気持ちと料理の美味しさがあいまって、食べるペースがいつもより早かったという自覚はある。あっと言う間に皿は空っぽ。本当に美味しかった。


「ご馳走様でした」
「はい」
「片付けしますね」
「後でやるから置いといて」
「いや、それはさすがに」
「そういうとこ、ちゃんとしてんだな」
「普通じゃないですか?」
「……偉いと思うけどな、俺は」


 偉い偉い。そう言いながら席を立ち、ついでと言わんばかりに私の頭を撫でていく先生は、私をどうしたいのか。いや、どうするつもりもないんだろうけれど。私の心臓は本日何度目かの全力疾走に弾けてしまいそうになっている。
 だから、急に触らないでって言ったのに。触らないでとは言ってないかもしれないけれど、そういうニュアンスのやり取りをしたばかりなのに。
 先生は私に対して何とも思っていないからこういうことが軽々しくできるんだと思ったら、幾分か気持ちが沈んで鼓動が落ち着き始めた。けれども、完全には戻りきらない。


「どうした?」
「……子ども扱いしないでくださいよ」
「悪かったって」


 どうにかこうにか紡いだ言葉に、先生はいつもの調子でケラケラと笑う。その悪戯っ子みたいな無邪気な表情に、落ち着き始めた心臓は再び走り出す。
 決めた。暫く先生とは会わないようにしよう。そうしないときっと、私は死んでしまうと思うから。

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