×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

11 馬鹿
 結論から言うと、彼女役の任務は滞りなく、問題なく終了した。と言っても、私はほとんど喋っていない。挨拶をして、軽く自己紹介をして、食事をしながら先生が考えた筋書き通りの返答をして、時々愛想良く笑顔を見せて。
 それに対して先生の上司がどういう印象を抱いたのかは分からない。大人の男性(という雰囲気)だったから、たとえ「こいつが本当に彼女なのか?」と不審に思っていたとしても、あからさまに怪訝そうな顔を見せることはないだろうし。まあ良い。何にせよ、私の役目は終わったのだ。後のことは先生が上手くやれば良いだけのことである。

 会食中、先生は何度か私のことを「名前」と名前で呼んだ。事前の打ち合わせ通りなのだから、それをとやかく言うつもりはない。けれど、先生の口から私の名前が飛び出すたびにピクリと反応しそうになってしまうのをおさえるのは、なかなか大変だった。
 名前を紡がれるたびに「急に呼ばないでくれ」と思ったけれど、「今から名前呼ぶぞ」なんて予告するのはどう考えたっておかしいから、急に呼ぶしかないということは理解している。全ては私の気持ちの問題なのだ。
 名前を呼ばれる。たったそれだけのこと。数週間前、否、数日前の私だったら、こんなに意識することはなかっただろう。しかし、突然私の中で先生に対する感情に変異が起きた今となっては、心臓を驚かせる要因になってしまう。


「名前?」
「なっ、なんですか」
「俺の話聞いてなかっただろ」


 図星だった。ていうか、また名前呼んだよね?もう付き合っているフリは終わったはずなのに。


「なんで名前で呼ぶんですか」
「別に。さっきの流れで」
「もう終わったじゃないですか、それは」
「そんなに名前で呼ばれんの嫌?」


 う、と言葉に詰まる。嫌というわけではない。けれど、良いわけでもないというかなんというか。この複雑な気持ちを言葉で表すのは難しかった。だから私は、尚も返答できずにいる。
 そんな私を見た先生は、分かったよ、とつまらなそうに溜息を吐くと先を歩き始めた。怒らせてしまったのだろうか。冗談の通じない面白くない女だと軽蔑されてしまったのだろうか。
 先生からどう思われようが構わない。再会した当初はそう思っていたはずなのに、今ではこんなにも先生からの評価を気にしてしまっている自分が浅ましくて嫌になる。
 何って声をかけたら良い?怒ってるんですか?なんて確認するのは逆効果な気がするし、かと言って、別に嫌じゃないんですけど、と今の気持ちを説明しようとしても上手くいきそうにない。となると、この微妙な空気のまま帰るしかないのか。
 自然と顔が俯く。私はこんなに良い天気の休日に一体何をしているのだろう。先生に振り回されて彼女役を押し付けられ、それを嫌だと断ることもできず、そもそも本気で断りたいなんて思うことさえできていないから何も整理しきれぬまま、もやもやとした感情を持て余して今に至るわけだけれど。こんなことになるぐらいなら、やっぱり彼女役なんてキッパリ断れば良かった。
 とぼとぼと、マンションの方に向かって歩みを進める。夜ご飯をご馳走になる予定だったけれど、こんな気持ちで一緒に食事なんて、とてもじゃないけれど耐えられそうにない。先生だって、用事が済んだのだから、できたらさっさと解散してしまいたいだろう。


「どっち行ってんだよ」
「え、わ…!」


 前を歩いていたはずの先生の声がなぜか背後から聞こえて、それに驚く間も無く手首を掴んで引っ張られる。引っ張ったのは勿論先生で、私は必然的に先生との距離を縮めることとなった。
 しかも今日は一応それなりに小綺麗にした方が良いと思って、普段はあまり履かないヒールが高めのパンプスを履いてきていたものだから、よろけた自分自身の身体を上手に止めることができなかった私は、うっかり先生の肩口に顔をぶつけてしまったのである。慌てて離れたけれど、心臓はバクバク。とんだハプニングだ。


「ご、ごめんなさい、」
「急に引っ張ったの俺だし別に良いけど」


 先生からしてみれば、そんなに慌てふためくことではなかったのだろう。けれど、私にとっては大慌て必至の事態だった。この温度差が、胸をキリキリと締め付ける。
 いや、駄目だ。こんなことで傷付いている場合ではない。どうにか平常心を保ってこの場を乗り切り家に帰ろう。今日の出来事も全部整理して、明日からまた今まで通りに戻れば良い。
 私は自分自身を奮い立たせるように言い聞かせると、俯きがちだった顔をあげた。そして気付く。先ほど私がぶつかってしまったばっかりに、先生が着ている服の肩口がファンデーションとグロスで汚れているということに。
 そんなに濃い色のグロスを付けていたわけではないけれど、テラテラとした光沢感のあるそれがついているのは一目瞭然。これはまずい。私は別の意味で再び慌てるハメになった。


「先生ごめんなさい!」
「だから別に良いって……」
「そうじゃなくて、服、」
「服?……あ」


 先生は私の視線の先にある自分の服を見て、初めて汚れに気付いたようだった。
 私はとりあえず、と思い鞄からティッシュを取り出してポンポンと押し拭きを始める。化粧品の汚れは落としにくいから、早く帰ってきちんと汚れを落とさなければ。この応急処置でどうにかなれば良いのだけれど。


「別にこれぐらいの汚れ大丈夫だって」
「でも普通に洗濯しただけじゃ落ちないかもしれませんよ?早く帰ってちゃんと洗濯した方が良いです」
「晩飯は?俺の奢りでって話だったろ」
「私が汚しちゃったんですからその話はなしで良いですよ」
「……やだ」
「はい?」


 ティッシュで押し拭きしていた手が思わず止まった。私の聞き間違いでなければ先生は今「やだ」と言わなかっただろうか。やだ、って。そんな子どもみたいなことをあの先生が。
 表情を窺えば先生は明らかにムッとしていて、ともすれば拗ねているようにも見える。それこそ子どもみたいに。


「約束は守る」
「いや、そんな…これはイレギュラーな事態ですし」
「そんなに早く帰りたいって?」
「そういうわけじゃ、」
「じゃあ行くぞ」
「でも服が、」


 どうしても自分が汚してしまった服のことが気になる私は、マンションと違う方向に歩き出そうとする先生の服を思わず引っ張って引き止めてしまった。立ち止まり振り返る先生。その眼鏡の奥の瞳は、当然のように私に向けられている。
 怒ってはなさそうだけれど、相変わらず不機嫌そうな、拗ねているような表情。しつこく服のことを気にかける私に、かなり苛ついているのかもしれない。聞き分けのない女だと、今度こそ呆れられてしまった可能性もある。
 はあ。先生の口から漏れた本日二度目の溜息に身が強張るのを感じた。やっぱりウザい女だって思われちゃったんだ。そう思うと、私の胸は先ほどまでとは比べものにならない痛みを感じ始める。


「分かった。帰ろう」
「…ごめんなさい」
「それ、何に対して謝ってんの?」
「え、いや、その、しつこかったかなって思って」
「……馬鹿だな、相変わらず」


 馬鹿だと罵られた場合、私はまず間違いなく先生に食ってかかっていく。「失礼な!」とか「どうせ馬鹿ですよ!」とか「そんなことしか言えないんですか」とか、とりあえず何か一言、可愛くないセリフを吐き捨てるのがセオリーだ。
 しかし今日の私ときたら、どうもネジが一本も二本も抜け落ちてしまっているのか、馬鹿だと言われたにもかかわらず何も言い返すことができなかった。でも、そんなの、仕方ない。
 馬鹿だな、と先生の口から紡がれた声音が、今まで聞いたことのない温度を感じさせた。悪意が全くこもっていない、優しい音色。それに追い討ちをかけるようにフッと笑われてしまったら、言葉なんて失うに決まっている。
 何か言わなくちゃ。いつもみたいに可愛くないセリフを。そう思うのに私の口からは何も音が奏でられることはなくて、しかも「帰るんだろ」とさりげなく掴まれた手首を振り払うこともできなくて。
 先生の後ろを大人しく歩く私は、確かに馬鹿なのかもしれない。

prev top next