こんなにも素晴らしい天気の日は、仲の良い友達とショッピングに出かけたり、素敵な恋人とデートに行ったりしたくなる。もっとも、私にはそこまで仲の良い友達も素敵な恋人もいないのだけれど。
そしてそんな絶好のお出かけ日和の日曜日に私の斜め前を歩いているのは、お隣さんである御幸先生。はあああ。私は深い溜息を吐いた。現状を嘆いている、というより、これから起こるであろう出来事を想像して憂鬱になっている、といったところだろうか。兎に角、素敵な天気にそぐわない状況であることは確かだ。
なぜ私が先生の職場の上司に会わなければならないのか。その理由はつい昨日聞いたばかりである。
昨日の夜「明日のことだけど」という前置きとともに、何時からどこで食事をするのかという詳細が書かれたメールが送られてきた。そしてその内容を見た私は、ひとしきり唖然とした後すぐさま玄関を飛び出して、お隣の家のインターホンを鳴らしたのだった。
気怠そうに扉を開けた先生は眠そうな顔で「なんだよ」と尋ねてきたけれど、呑気に寝ている場合ではない。先生の上司と会食するのになぜ部外者である私が必要なのか、もっと考えておくべきだった。そこに関しては今でも後悔している。
「彼女として、って、どういう意味ですか!」
「そのままの意味だけど」
「なんで私が先生の彼女役なんか…!無理ですよ絶対!ボロが出ます」
「2時間弱ぐらいどうにかなるだろ」
「なりませんってば」
まるで「そんなことか」と言わんばかりに大欠伸をしている先生は、今から本当に寝る気のようだ。まだ夜の10時を過ぎたところ。普段なら「老人か」と突っ込んでいるところだけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
私は再度「無理ですって」と、彼女役の任を丁重にお断りした。しかし先生は私の発言を聞いて大人しく「はいそうですか分かりました」と引き下がるような人ではない。
「ドタキャンするってこと?」
「も、元はと言えば、大切なことを前日まで隠してた先生が悪いんじゃないですか!」
「彼女役って肩書きがついただけじゃん。別にいつも通りで良いのにそんなに気にする必要あんの?」
「……そもそも、どうして彼女役が必要なんですか?私以外に頼める人いるんじゃないですか?」
先生は、性格は兎も角として、見た目は悪くない。むしろ良い方だと思う。だからその気になれば私なんかに彼女役を頼まずとも、本当に彼女を作ることは簡単そうに見える。それを、なぜ私なんかに頼むのか。それはずっと疑問だった。
怒るでもなく冷静に、できるだけ落ち着いたトーンで尋ねれば、先生は「あー……」と気まずそうに首裏に手を回して私から視線を外す。いつも自信満々で強気な先生からは想像もつかない反応に、私は目を瞬かせた。と同時に、初めて見たその表情に胸が疼くのを感じて複雑な心境に陥る。
なんだ、この感情は。こんなの、知らない。知りたくない。だってこれは、この感覚は。知らない。知りたくない。けど、私はこの感情を知っている。なんで。どうして。
「実は明日会う上司の親戚の子とお見合いしろって言われて、彼女いるから無理って適当に嘘吐いて断ったら彼女に会わせろってうるさくて。お前口上手いから嘘だろって図星突かれたから逃げられなかったんだよ」
「理由は、まあ、分かりました、けど、別に私じゃなくても、」
「他にいねーし。こんなこと頼めるヤツなんて」
「頼むっていう雰囲気じゃなかったですけどね」
「他の女に頼んだら、そこから付き合わないかとか面倒なことになりかねないから嫌なんだよ」
なんでもないことのように言われたその言葉は、私の心臓を緩やかに傷付けた。分かっていたことだ。先生は私を利用しているだけだと。私を利用するために、時々優しさを垣間見せて餌をチラつかせているだけなのだと。
最悪の再会だった。再会したいなんて思っていなかった。良い思い出はひとつもなかったし、こうして再会することがなければ、先生は私の中でただの怖い家庭教師の先生という印象で終わっていただろう。
けれど、私達は再会してしまった。過去の私が知り得なかった先生の一面を見て、怖いという印象だけではなくなった。嫌よ嫌よも何とやら、というけれど、なんだかんだ言って私は先生との接触を楽しんでいたのかもしれない。そんなことに、今更になって気付く。
しかしそんなことに気付いたところでどうしようもない。私は今、先生にとって「女」として対象外だという事実を突き付けられてしまった。だからこれ以上、この気持ちを育ててはいけないのだ。
「分かりました。彼女役って言っても、いつも通りで良いんですよね?」
「そういうこと」
「ちゃんと美味しいご飯奢ってくださいよ」
「分かってるって」
へらりと笑って軽々しい「ありがとな」を零した先生は、私の感情の変化になど微塵も気付いていないのだろう。それで良い。これからもずっとそうであってほしい。気付かれてしまったら、私も「面倒な女」として切り捨てられてしまうから。このちょっと面白くて心地良いような、悪いような、腹が立つような、よく分からない関係を、呆気なく終わらされてしまうだろうから。
私はつくづく恋愛事に運がない。というか、男を見る目がないのかもしれない。だからいつも、自分が苦しくなる道ばかりを選んでしまうのだ。
どちらからともなく「また明日」と別れの挨拶を口にして、扉が閉まった。そうして私は自分の部屋に帰り、寝る準備を整えたは良いものの、あまり眠れぬまま翌朝を迎えることとなったのである。
「お昼ご飯を一緒に食べるんでしたよね?」
「夜は予定があるらしい。まあ忙しい人だからな」
「そういえば先生の仕事って…」
「御幸さん。もしくは一也さん。もしくは一也。どれにする?」
「はい?」
「彼女が彼氏のことを先生って呼ぶのはおかしいだろ」
「え、あ、そ、そう、ですね……じゃあ……御幸さん、で」
「まあそれが無難か」
先生のことを名前で呼ぶ日が来るなんて、過去の私が知ったら目を丸くして口をあんぐりあけ、それはそれは驚くことだろう。御幸さん。御幸さん。何度か声に出さず心の中で唱えてみただけで心拍数が上がるのを感じる。
「名前」
「えっ、なっ、」
突然先生の口から自分の名前が飛び出したものだから、驚きのあまり声が裏返ってしまった。それに対して、そんなに驚くことか?とケラケラ笑っている先生は男としてデリカシーのカケラもない。
まあ、こんなに過剰に反応してしまったのは私の気持ちの変化による問題なのだけれど。その部分は別にしても、突然名前を呼んでくるのは心臓に悪いと思う。
「苗字より名前で呼ぶ方が彼氏っぽいだろ」
「それはそうかもしれませんけど……」
「まあ後は適当に話合わせてりゃ良いから」
「はあ……」
「今日だけだからそんな嫌そうな顔すんなって」
別に嫌じゃない。なんならこの先ずっと名前で呼んでもらっても差し支えないぐらいだ。けれど、そんなことを言ったら不審がられてしまうだろうから。私は「いつも通り」を貫く。
「今日だけですからね」
「はいはい。付き合わせてすみません」
口答えばかりする可愛くない元教え子。先生の中の私の印象はそんな感じだと思う。だから私は、その印象を壊してはいけない。たとえ今日だけは先生の彼女役であっても、そのスタンスを崩してはいけないのだ。
1度崩れてしまったら、元には戻せない。だから私は自分に気合いを入れるために先生の名前を呼んだ。
「御幸さん」
「なんか変な感じだな」
「今日だけなんですから慣れてください」
それは先生に対してではなく、自分自身に言い聞かせるように紡いだ言葉だったのかもしれない。