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思う壺、どつぼ、嵌る

今日は俺の家に泊まってよ、と言われて、咄嗟に拒んでしまった。だって、お泊まりのための準備なんて全くしていないし、明日は2限目から普通に授業があって期末試験前だから休むわけにはいかないし(試験前じゃなくても休むわけにはいかないけれど)、何より私には心の準備ができていない。そう簡単に、分かった!と快く了承の返事ができるほど、お泊まりというものに慣れていないのだ。
彼は、私の反応など予想済みだったのだろう。やっぱりね、と言いたげな様子で苦笑していた。泊まること自体が嫌なわけじゃない。ただ、この上なく緊張してしまう。お泊まりじゃないとしても、彼の家に行くというだけで緊張具合が半端じゃない。男の人の部屋。そこに足を踏み入れる。私にとってそれは、いまだかつてない経験だから。


「赤葦君の家に行きたくないってわけじゃないんだけど、」
「分かってるよ。緊張するんでしょ」
「……うん」
「俺は全校生徒の前で新入生代表の挨拶をすることの方がよっぽど緊張すると思うけどね」
「あれは事前に考えた文章を読むだけだから練習だってできるし心の準備もできるけど、赤葦君の家に泊まりに行くのは何の練習も準備もできないじゃない」
「分かるような分からないような理屈だなあ」


そんなことを話している間にも彼の足は着実に動いていて、刻一刻とその時が近付いているような気がした。私の家を目指しているのだとは思うけれど、それがイコール、私の家でささやかなお祝いをしましょう、という意味ではないことぐらい分かっている。


「名前の家に寄るから、泊まりの準備しておいで」
「わ、私、泊まること、まだ了承してないんだけどっ」
「誕生日。祝ってくれないの?」
「それは…祝うけど……」
「うん、じゃあ待ってるから準備してきて」


彼の強引さは出会った当初から知っている。けれども、付き合い出してからというもの、その強引さに更に拍車がかかったような気がするのは、私の感じ方の問題だろうか。いまだに納得はできていないけれど、あっと言う間に私の家の前まで辿り着いてしまったから、考える時間すら与えてもらえなかった。
彼に背中を押され、とりあえず家に入る。どうしよう。お泊まりって何持って行けばいいんだっけ。歯ブラシと、下着と、明日の服と、化粧道具一式と、洗顔とクレンジングもいるのか。あとはえーっと、明日の授業で必要なもの…と、結局バタバタとお泊まりの準備をしてしまっている私は、彼に踊らされているマリオネットのよう。そこに自分の意思は存在していない。
なんだか釈然としない気持ちで、でも何度も言うようにお泊まり自体が嫌なわけではないから完全に拒絶することもできず、結局最後まで心が追い付かぬまま準備が完了した。私は小さなボストンバッグを肩にかけて彼が待っている場所に向かう。


「寒いのに外で待たせてごめん」
「いや、全然。荷物持つよ」
「ううん。大丈夫」
「俺が強引に用意させたものだから、俺が持つよ」


どうやら彼には、自分の強引さに自覚があったらしい。自覚した上で貫き通せるのだから、神経が図太いというかなんというか。まあそういうところが彼らしい。
私の肩から荷物を奪い取って、自分の肩にひょいっとかける彼は、荷物をかけている方とは反対の手で私の手を掴んだ。私を待っている間に随分と冷えてしまったのだろう。彼の手は氷のように冷たい。


「ごめん、冷たいよね」
「外じゃなくて中で待ってもらえば良かった」
「名前の部屋に入っちゃうと予定が狂ってたと思うからあれで正解だったんだよ」
「また予定って…勝手に決めちゃって」
「今日は俺が主役だからね」


事実なので何も言い返すことができず、口籠る。私は首に巻き付けていたマフラーに顔を埋めて、静かに彼の手を握り返して歩くことで精一杯だった。だって、今私は彼の家に向かっているのだ。正直、軽口を叩けるのは今のうちだけだと思う。
彼が私の家に来たことは何回かあるけれど、私が彼の家に行くのは初めてだ。どんな部屋なんだろう。どんな風に生活しているんだろう。それを見るのが楽しみではあるけれど、それよりも、彼のもので溢れかえった場所に自分が留まっていられるのだろうかという心配の方が大きかった。彼は私の家で普通に寛いでいる様子だけれど、付き合っている男女とはそういうものなのだろうか。世間一般の「普通」が分からない。
そうこうしているうちに、ここだよ、と言われて、彼の家に辿り着いたことを知らされた。私の家から歩いて10分もかかっていないと思う。意外と近い距離に住んでいたことに驚く。階段で2階まで上ってすぐの角部屋。そこで彼が鍵を取り出して扉を開けた。ごくり。緊張が走る。


「どうぞ」
「お邪魔します…」


彼が先に入って、私が続けて中に入る。玄関は狭いながらもきっちり整頓されていて、靴の置き場に困るということはない。男の人の家に入るのは初めてだし、これはあくまでも私の勝手なイメージの問題だけれど、男の人の部屋というのはもっとこう、荒んでいるというか、ごちゃっとしているものだと思っていたから、彼の家の中の綺麗さに少し面喰ってしまう。
1LDKという間取りのリビング部分にあたる場所に通された私は、自分がどこに身を置けば良いものか分からず、隅っこの方に立ち尽くす。彼は、まあ適当に座りなよ、と台所から声をかけてきたけれど、適当が分からないからこうなっているということを察してほしい。結局私は彼が台所から出てきて誘導してくれるまで立ち尽くしたままだった。


「夜ご飯の材料買って帰るの忘れちゃったね」
「私、買いに行ってくるよ」
「今から作るの大変だから、ピザでも頼もうよ」
「ピザ?」
「そう。俺の誕生日パーティー用に」
「赤葦君はそれでいいの?」
「それがいい」


そう言われてしまえば、私は何も言い返せない。まあ私の手料理よりもピザの方が美味しいことは間違いないし、パーティー感も出るだろう。私が御馳走すればいいだけの話だから、彼に好きなものを選んでもらえば問題ない。
彼がどこからか引っ張り出してきたピザのメニュー表を眺めて、2人で食べきれるサイズを注文する。40分少々でお届けに上がります、と言われたから、それまでにできることをやっておこう。と思ったところで、私の思考はストップした。彼の家で40分少々、何ができるというのだ。あれかな、お風呂入ってきたら?とか言えばいいのかな。


「先にお風呂入る?お湯沸かしてないからシャワーしかないけど」
「えっ、いや、家主の赤葦君からどうぞ…」
「こういう時はお客さんからでしょ。俺も名前の家に行った時は先に入らせてもらったし」
「でも……」
「それに、俺が風呂入ってる間にピザが届いたら困るでしょ」


ごもっともな意見を並べられた私は、お言葉に甘えてシャワーを浴びさせてもらうことにした。ボストンバッグの中から必要なものを取り出してお風呂場に向かう。タオル出しとくね、と言ってあっさり出て行った彼を見送った私は、やっとゆっくりと呼吸することができた。
彼の家に入った瞬間からずっと、息が詰まりそうだったのだ。悪い意味ではなくて、なんていうか、彼の匂いで溢れたこの空間の空気を肺に取り込みすぎたら、窒息してしまいそうな気がして。いや、そんなことは絶対に有り得ないのだけれど、感覚として。
こんな状態で、私は呑気にピザを食べることができるのだろうか。先が思いやられる。服を脱ぐ。浴室に入る。そこも勿論彼の匂いで溢れているし、身体や髪を洗いながら、彼と同じ匂いになるのかあ、と思ったら妙にドキドキしてしまって、きちんと全部洗えたのかどうか定かではなくなってしまった。
改めて自問自答する。私は本当に、今日ここに泊まるのか。シャワーを浴びてしまった後に考えている時点で、私の答えはひとつに絞られているというのに。