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馬鹿な私にアプリコットフィズ


クリスマスイブの翌朝、つまりクリスマスの日の朝は快晴だった。そりゃあもう腹が立つぐらいに。
あの日私は、帰ってすぐお風呂に入ってから雪崩れ込むようにベッドに埋もれて眠り、目を覚ました瞬間、自分のしたことを激しく後悔した。奇跡的に寝坊することなく起床して遅れずに出社できたことは素晴らしかったと思う。けれど、いっそ記憶がなくなるまで酔い潰れていた方が良かったのではないかとも考えた。いや、もし本当にそんなことになっていたらそれはそれで大後悔だっただろうけれど、それぐらいには自責の念に駆られていたのだ。
お酒の力というのは怖い、と。既に嫌と言うほど分かっていたはずなのに、またやらかしてしまった。何時間も居座り続けて、悪酔いして、オマケに家まで送らせて、挙げ句の果てには告白紛いなことをして。自分がこんなに酒癖が悪いとは思わなかった。というか、いくら酔っているとは言え、こんなに勢い任せに事を運ぶタイプではなかったはずなのに。
そうだ。元はと言えばあっちがクリスマスイブに来ないかと誘ってきたのが発端だし、お酒を勧めてきたのも向こうの方からだし…などと責任転嫁しようとしたけれど、あちらは店員として1人でも多くの客をゲットしたいわけだからあの誘い文句に特別な意味などなかったと言われれば納得できてしまうし、お酒のことだって、飲まなくて良いって言ったのに勝手に飲み干したのはそっちじゃん、と言われてしまえばぐうの音も出ない。振り返って反省すればするほど痛い女だ。
そんなわけで、あのお店にはもう行けないなと思っていた。というのに、どうして私はまた「もう行けないと思っていたお店」に来ているのでしょうか。答えは簡単。個人的にはちっともめでたくないけれど自動的に年は明けてしまい、私の大嫌いな会のひとつである新年会が開かれた。そして忘年会の時と同様に、私はお酌係として二次会会場まで引き摺られて来てしまったのだ。全く、パワハラもいいところである。どうして今年度の二次会は全部このお店なんだ。別の店にしたら良いじゃないか。そんなことをぼやいたところで、連れて来られてしまったものは仕方がない。雑用係の私は上司達の分も含めてお酒の注文をするためにカウンターへと向かう。
そして再会してしまった。今私の中で会いたくない男ナンバーワンである、黒いシルエットの背高のっぽの彼に。全員分の注文を終えた私に、かしこまりました、と店員らしい言葉遣いで、初めて会った時と同じ胡散臭い上手な笑みを張り付けている彼は、あの日のことを覚えていないのだろうか。気不味いと思っているのが自分だけだとしたら、それはちょっぴり寂しかった。だって、何も思っていないということは、彼にとってあの日の出来事は取るに足らないことだったということ。そして、私のことなんてこれっぽっちも頭の中になかったということになるのだから。けれども冷静に考えてみれば、彼としては特別視していない女を切り捨てただけのことである。せいぜい常連になりそうな客が1人いなくなったという程度の認識で終わっているのだとすれば、何とも思わないのも無理はない。
私はくだらない上司の演説を右から左に受け流しながら、密かに溜息を吐いた。早く帰りたい。色んな意味で。そんなどんよりした気分の私に彼が声をかけてきたのは、入店から1時間ほどが経った頃だった。何度目かのお酒の注文のためカウンターに行った時、来たくなかったでしょ、と。端的に図星を突く一言を投げかけられたのだ。さっきまでよそよそしく店員さんを演じていたくせに、そしてそのまま店員さんを貫き通してくれれば良かったのに、彼は酷い。けれどもその酷さを分かっていても、彼と話せることにテンションを上げている私は単純な女だ。


「あんなことがあったので、そりゃあ…はい…」
「じゃあ来なければよかったのに」
「付き合いってものがあるので断れないんです」
「大変ですね」
「ええ、まあ」
「今日は何かお作りしなくて良いんですか?」
「…私はまだあっちにお酒が残ってるので」


案外普通に喋れるものなんだなと思った。それは彼の取り巻く空気とか口調とか、そういうもののおかげなのかもしれない。だから、もう少しくだらない話をしたいなと思っていた矢先に、名字〜酒まだ〜?などと呼ぶ同僚には、跳び蹴りのひとつでもお見舞いしたい衝動に駆られた。けれども、今行きます、とお酒を持って笑顔を取り繕って席に戻る私は、立派な社会人ではないだろうか。
ただ、席に戻ったところで上司や同僚のくだらない話なんて上の空。私は性懲りも無く、また彼に惹かれていた。あの日からずっと後悔し続けていたくせに。フラれたんだから諦めなきゃって何度も思ったはずなのに。会ったら、会ってほんの少し話したら、たったそれだけで燻っていた気持ちが蘇ってしまったのだ。そう、私は今、恋をしている。


「お酒、何か頼みましょうか?」
「お。名字、気が利くな」
「いえ、そんな」


お前のためじゃねぇよ、などとはしたない言葉遣いで毒付くのは勿論心の中でだけ。私がお酒の注文を買って出たのは、上司に胡麻をするためでもなければ、本当に気が利くわけでもない。ただカウンターに行って、彼とくだらないことでもいいから話がしたい。そのための「何か頼みましょうか?」なのである。


「ビールを2つ」
「かしこまりました」
「それから、」
「はい」
「私の分のカクテル、作ってもらえますか?」
「…勿論」
「アルコール控えめで」
「強いんじゃなかったっけ?」
「それは言わないことにしたんです」
「なるほど。で、味は?」
「甘めで炭酸系だと嬉しいです」


あんなことがあったのにまたこうして軽いノリで話せるなんて夢みたいだ。私の心は小さなことで簡単に弾む。そんな私の心情など知らないであろう彼は、何の迷いもなく手を動かしていた。簡素なリクエストにもかかわらず、彼はいつも私好みのカクテルを上手に作る。今だってそう。シェイクしたものをグラスに注ぎ、その中にシュワシュワとソーダらしきものを満たしていけば、琥珀色の綺麗なお酒の完成だ。その場で一口。ああやっぱり美味しい。


「あっち」
「はい?」
「戻らなくて良いんですか」
「ああ…」
「もしかして戻りたくない?」
「できることなら」
「前から思ってたけど」
「はい」
「名前さんって素直だよね」


ゆるりと笑みを携えながら言われたそれは、果たして褒め言葉なのだろうか。いや、今はそんなことよりも、また名前を呼んでもらえたということにどきりとしてしまっていて、会話の内容なんてまともに考えている余裕はなかった。彼はきっと特別な意味を込めて呼んだわけじゃない。そんなことは分かっているけれど、まだ彼の記憶の中に自分の名前が残っていたということが、たったそれだけのことが嬉しかったのだ。


「誰にでも素直なわけじゃないんですけどね」
「なるほど」
「あっちに戻ったらこんな風には喋れません」
「そっか」


お仕事大変だねぇ、と。私の発言に対して、彼は適当な相槌を打つだけだった。誰にでも素直なわけじゃない。その言葉の真意に彼は気付いているはずだけれど、あえて触れてこなかった。あなたは特別なんですって、そういう意味で言った一言。もっと言うならば、まだあなたに惹かれてるのよって、遠回しに伝えるつもりで落とした言葉でもあった。なんとしつこい女だろうか。でもどうしようもないのだ。どうしようもなく、彼に惹かれているから。クリスマスイブのあの日と同じ過ちを犯すことになると分かっていても、もう止められない。


「黒尾さんは最初、どうして私に名前を教えてくれたんですか」
「んー…バーテンダーさん、って呼びにくそうだったからだと思う。あんまり覚えてないけど」
「どうして酔っ払いの私を家まで送ってくれたんですか」
「そりゃ夜中に女の子1人で帰らすのはちょっと…ねぇ?」
「どうしてクリスマスイブの日にお店に来ないかって誘ってくれたんですか」
「営業の一環です」
「どうしてあの時、質問に答えてくれなかったんですか、」


それまでスラスラと答えていた彼の口が止まった。あの時の質問。「私のことどう思ってますか?」クリスマスイブの夜、車内でジャズを聴きながら尋ねたそれに、彼は答えてくれなかった。今なら何か答えてくれるだろうか。しつこい女だと思われても良い。というか、しつこいことは承知の上でこんなことをしていた。だって私は既に1度フラれている身。もう怖いものなんて何もない。


「ごめん、覚えてない」
「じゃあ今もう1回きいたら答えてくれるんですか?」


2人の間に流れる沈黙。とても大切な場面だった。もう少しで彼が何かを言いそうだった。というのに、こんな時にまた空気の読めない同僚が背後で私の名前を呼ぶ。ああうるさい。あんなの、聞こえないフリだ。


「名前さん、呼ばれてる」
「ねぇ」
「呼ばれてますよ」
「答えてくれたらもう来ないから」
「…じゃあ答えらんないや」


ほらお酒持って行かなきゃ、って。背後のどうでもいい男連中の分のビールを私に渡してきた彼は薄く笑う。じゃあ答えられないって、それって、どういう意味?今質問に答えて、私がここに来なくなるのが嫌って意味で捉えて良いの?私、都合の良い女だから勝手に良い方に解釈しちゃうよ?黒尾さんだってそういう女だって、もう分かってるでしょう?
私のことを何とも思っていないくせに、彼は私に気があるような口振りをする。俺はやめといた方が良いって言ったくせに、完全に諦めようとは思わせてくれない。なんて酷い人。でもね、そんな人だから、私やっぱり好きなんだと思う。今でも、まだ、あなたのことが。ほんと、しつこいよね。

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